49話
時は少し遡る。ここは泗水郡。
陳勝は焦っていた。
賦役として税を払えぬ貧民、九百人を引率し、はるか北方の漁陽郡で、辺境の守備につかねばならない。
しかし最近の降り続く雨のために歩みは遅々として遅れ、しかも道が河に沈み通ることができない。
今日も殆ど進めず、未だ泗水郡の大沢郷の近くで宿営している。
彼は雨の降り注ぐ天を睨み、到着期日までの日数を数えた。
間に合わない。
背に羽が生えぬ限り間に合わぬ。
期日に遅れれば如何なる理由であろうと全員死刑だ。
陳勝はもう一人の引率者呉広のところへ行き、他の者に聞こえぬよう、低い声で話した。
「……間に合わぬ。どうする」
呉広は雨を見つめ、やがて目を伏せた。
「どうするも何もない。処刑されて終わりだ。
つまらん人生だ。生まれた時から貧しく、人に顎で使われ、最期は罪人として殺される。……実につまらん」
呉広がすでに死んだような濁った目で陳勝を見る。そしてまた目を伏せる。
呉広とはこの引率で出会ったが、陳勝も同じような境遇だ。
生きながら腐っていくような人生だ。
しかし、陳勝は呉広と違い、最期まで志を捨てなかった。
いや志というよりも欲。
富、名声。
彼はそれを諦めず求めている。
「どうせ死ぬなら、最期に逆らってみんか?」
陳勝の言葉を呉広は直ぐには理解できずにいたが、やがて濁った目を細め陳勝に向けた。
本気か?と目が訊いている。
「噂では二世皇帝は陰謀によって即位し、元の太子の扶蘇は自死したとか逃げたとか定かではない。
また秦と戦い度々勝利した、楚の名将項燕もこの辺りで殺されたというが、死体は行方知れずだ」
呉広の目が揺れる。
「未だこの辺りの元楚の人民に慕われている項燕と、真の太子である扶蘇が、生きていて反旗を上げると声をあげたら、多くの者が応じるのではないか」
黙って聞いていた呉広であったが、その胸にはすでに火が灯っていた。
そして、
「どうせ、人知れず死ぬ身だ……最期に汚く足掻くのもよいか」
陳勝と呉広は静かに頷き合った。
「まずはここにいる九百人を手中にしよう。普通に説得しても逃げられるかもしれん。逃げ出せぬ状況を作ろう」
暫く語り合った二人は、立ち上がり監督する役人達へと近づく。
彼らは酒を呑んでいた。
「どうした、お前ら」
呉広は役人達に大声で告げた。
「俺は逃げる」
「なんだと!?」
役人達は慌てて立ち上がる。酒のせいか足元が覚束ない。
「もう漁陽を目指しても間に合わぬ。遅れて着いたところで死刑だ。あなた方もただではすまんだろう。我等を逃がし、あなた方も逃げた方がよい」
役人は腰に下げた鞭を掴み、
「そのような事が許されるか!この不忠者め!」
そういって呉広に鞭を振るった。
呉広は倒れ、そこにまた鞭が打たれる。
騒ぎを聞き付けた者達が集まってきた。
「逃げねば殺されるのだぞ!」
呉広は鞭で打たれながらも、他の者に聞こえるよう叫ぶ。
すでに周りには数十人が集まっている。
「まだ言うか!」
役人が鞭を捨て、腰の剣に手を掛けようとした瞬間、呉広は跳ね起き役人を押し倒した。
そしてその剣を奪い、役人へと突き立てた。
陳勝も素早く動く。
呉広が反撃すると同時に役人の一人に体当たりをし、
「役人を殺せ!逃がすな!」
そういいながら馬乗りになって役人の首を絞めた。
一瞬の間の後、野次馬達は逃げようとしている役人達へと殺到した。
役人達は原型を留めぬほど殴られ、蹴られ、もう動くことはない。
陳勝は絞め殺した役人の腰から剣を奪い、呉広と共に近くにあった大岩の上に登った。
そして役人を殴り殺し、興奮の覚めぬ人々を相手に語り始めた。
「大雨のせいで期日には間に合わぬ。例え間に合おうとも辺境の守備につけば十人に七人は死ぬ。どうせ死ぬなら一縷の望みに賭け、戦おうではないか!
王、諸侯、将軍、宰相、皆生まれながらにそうだったのか。
違う、人の生まれに血統などない!我等が取って代わってもよいのだ!」
人々が口々に喚声を上げる。
陳勝が手を上げ静寂を促し、言葉を続ける。
「これより俺は太子扶蘇を名乗る。隣は項燕将軍だ。この名で兵を集め打倒秦に起つ!」
また大きな喚声に包まれた。
「まずはここから最も近い大沢郷を襲う。そこで食料と武器を手に入れるのだ!」
持って生まれたものか、それともこの逆境が生んだのか、陳勝の先導する言葉に皆が酔った。
九百人は一匹の獣となり、大沢郷を喰らい、そして吠えた。
「太子扶蘇と楚の項燕は生きているぞ!これは義挙である!志あるものは起ち上がれ!」
次々と集まる者達を吸収し、この獣は日を追う毎に大きくなっていった。
獣の咆哮が、新たな歴史の始まりを告げた。
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