プロローグ
呼び名についてですが、字が分からなかったり、項羽など字の方が有名だったりなので、分かりやすい名で呼ばせています。
諱、字が混在して違和感があるかもしれませんが申し訳ありません。
荒野に鉄のように重く冷たい風が吹いている。
草木は色を失い始め、季節は冬を迎えようとしていた。
「もう少し進めば咸陽だ」
隣の男は、馬車の上でそう言いながら少し寒そうに肩を竦めた。
大柄な体に似合わない仕草も何故か様になる。
年の頃は二十代後半というところか。
角張った輪郭に、固そうな髭、意思の強そうな太い眉、真っ直ぐ高い鼻、人をも飲み込みそうな大きな口。
その姿は大岩を思わせる。
しかし切れ長だが柔らかそうな黒い瞳は見る者を惹き付け、安心感を与えてくれる。
「やっとですか……。早く宿で寝たい……」
俺は疲労困憊のこともあり、たどたどしく答える。
「もう少しの辛抱だ。それより馬の扱いが随分上手くなったんじゃないか?」
巨駆の男はニンマリと微笑む。
その笑顔は太陽のように暖かい。男の俺から見ても魅力的な笑顔だ。
「…そりゃ狄県を出てからずっと車上ですから少しは上達しますよ。もう尻が限界だ」
俺は照れくさくて、憎まれ口を叩く。
「はは、尻の皮も咸陽が待ちどおしいか」
この魅力溢れる男の名は田横。
十年程前に滅んだ斉という国の王の一族であった。
そして俺は二千二百年程、未来の日本からきた一般人である。
いや、であった。
ーーーーーー
二月程前、俺は買い物帰りにタイムスリップして、さまよっていたところを山賊に襲われた。
それを田横に助けられた。
「それはなんだ、大事なものなのか?」
その時俺が手に握りしめていたのは、判子だった。
タイムスリップする直前に買った物だ。
これは俺の名前で、それはそうと行くあてがないと説明すると、
「ふむ、そうか。ならば一先ず我が家へ来い。なに、客が一人増えたところで困りはせん。俺は狄の田横。一族を見捨てるようなことはせんさ」
「では、行こうか田中」
俺の名は田中。
ご先祖様、田中でありがとう。