159話
本日4巻発売となります。よろしくお願いいたします。
東阿からまた馬で駆け出して数日。
馬に無理をさせているのを自覚し、一旦降りてその首を優しく叩く。
これ以上走らせれば潰れてしまうだろう。幾度か首を振って応えてくれるが明らかに疲れている。
健気な奴だな。
手綱を牽いてしばらく歩き、小川で馬に水を飲ませ、少しでも視界を取ろうと小高い丘に登った。
丘を登りきった俺の視界に砂塵が見えた。
旗に斉の文字が見える。
見付けた!
「もう少しだけ頑張ってくれるか?」
また首を叩く俺に短い嘶きで応えた馬に飛び乗り、手綱を握った俺は丘を駆け降りた。
駆け寄る俺に気付いたのか軍は停止し、一人の男が乗馬で進み出てくる。
「田中! なぜここに!」
「横殿!」
転がるように馬から降りた俺は、田横に駆け寄る。
足がもつれる。
しかし馬だけでなく乗り続けた俺も足も限界だったようだ。
前のめりに倒れそうになる俺をいつの間にか下馬した田横が俺を支えた。
「随分無理をしたようだな」
暖かい笑顔で俺に肩を貸す田横の声。
聞くものを安心させる声に帰ってきたことを自覚し、鼻の奥がツンとする。
しかし感傷に浸っている場合じゃない。
「横殿、内乱だけではない。今、斉は岐路に立っている」
俺の態度に田横は、表情を引き締める。
「わかった。お主がなぜここにいるのかと問うのは愚問なのだろう。道中で話を聞こう」
篤い信頼が、余計なやりとりを省いてくれる。
胸に込み上げるものがあるが、今は田横の言う通り伝えねばならないことがたくさんある。
頷く俺を見て田横は進軍の再開の指示を出そうとするが、それを俺が止める。
「軍の進路を変えてもらわねばなりません。どうか先ずは話を」
田横はその言葉にやや目を見開いた。
しかし俺をじっと見つめた後、軍に待機を命じた。
◇
「では項羽は秦に孤軍で当たろうというのか」
いつでも進軍できるよう指示して軍を止めた田横は、俺の語った項羽の無謀と思える行動に驚く。
「すでに趙に到着している軍もあるだろうが、連携しても兵力差は著しい」
田横の言うことはもっともである。
俺はこの最も信頼のおける兄のような男を死地に連れて行こうとしているのかもしれない。
項羽が勝つからといって、そこにいる全員が生き残るわけじゃない。それでも。
「横殿。……兵を割れませんか」
田横は俺の突拍子もない提案に驚きもせず、落ち着いて状況を語る。
「済北の叛乱の規模は大きくはない。しかし叛乱を鎮めるだけではなく周囲の不安を払拭するためにも速やかに対処せねばならん。そのために臨淄からも、そしてこの軍も鎮圧へ向かっている」
至極まっとうな言い分に、俺は再度無茶な要求を口にする。
「少数でもいい、趙へ軍を出さねばならないのです」
引かない俺を田横は真っ直ぐ見据える。
その姿は全てを悟っているようにも見える。
「……勝つのか?」
無言で頷けば、この男はまた笑って聞き入れてくれるかもしれない。
しかし今、言葉としてはっきりさせなければこの男を裏切るような気がした。
「私は……。俺は、おぼろげながら先を。未来を知っているんだ」
言った、言ってしまった。
狂人か、胡散臭い易者扱いされても仕方がないような言葉だ。
田横の反応が気になり、様子をうかがう。
大きく目を見開いた田横は、さすがに予想外であったのか、少し戸惑いながらも俺に問うた。
「中、お主は神仙の類か?」
想いもしない問いに俺は慌てて答える。
「いえ、まさか。いたって普通……よりひ弱な人間ですよ」
「だよな。こんな人臭い神仙が居るとは思えん」
大きく安堵の息を吐いた田横はゆったりと笑った。
心が休まるような、こちらまで頬が緩んでしまうような笑顔だ。
……なんだよ、それ。てか、それだけかよ。
俺の意を決した告白の返答がそれかよ。
胸に熱さが溢れて、全身が痺れるように打ち震えた。
「ここで趙に援軍を出さねば勝ち馬に乗れぬばかりか、不義理を責められるというわけだな」
元々斉によい感情を持っていない項羽は、宋義と親しんでいたこの国をさらに敵対視するだろう。
誰も止められなくなった項羽が一言、斉を攻めると言えば周辺国全てが敵になる。そんな事態だけは避けたい。
「ええ、まぁそういうことですが」
本当にあれだけで終わりか?
もっと聞くことあるんじゃないのか。
しかし田横は声を張り、華無傷の名を呼ぶ。
そして軍の次将として参加していた華無傷に命じる。
「軍を半数に分け、俺は趙へ向かう。楚軍が勝負に出たらしい。お主は残りを率いて鎮圧へ向かえ。そしてこのことを兄上に伝えてくれ」
華無傷は怪訝な表情を見せたが、こちらをちらりと見てニッと小さく笑うと、拱手して短く応じる。
「はっ」
なにかを察したような、勘違いしているような華無傷は踵を返すと、編制のためか兵の元へと駆けていった。
田横の余りの躊躇のなさに俺の方が不安になってくる。
「信じるのですか」
戸惑う俺に田横は近づき、
「顔を見ればわかる。それに」
俺の胸を軽く叩く。
「俺は未来を信じたのではない。お主を信じているのだ」
まいった。降参だ。
この男には敵わない。
この英雄を。友を。
絶対に死なせたくない!
熱くなった目頭を揉み、大きく息を吐き出した俺は田横に伝える。
「先ほど言った通り俺の知識は限定的で、曖昧だ。そして未来が変わればその知識は役に立たなくなるだろう。あまりあてにしないでくれ」
気張った俺の様子を見た田横はニヤリと笑い、俺の肩を強めに叩いた。
いってーよ!
「それでもお主にはその弁があり、知識ではなく知恵がある。あとは多少の御車の腕か。まぁ、しかし俺以外に言うのは止めておいた方が良いかもしれんな。奇人変人扱いされるだけだろう」
ですよね。
趙の救援に向かう軍を引き連れ田横と肩を擦る俺は、西へと進軍を始めた。