158話
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鉅鹿を囲む秦の王離軍は強攻せず、じわりと時を掛けて城を攻める。
――焦る必要は全くない。
王離はそう考えていた。
懸念材料であった兵站は章邯軍が甬道を整備し、守備を担ってくれたため滞ることなく兵糧も物資も送られてくる。
他の反乱軍から救援が来ようと自軍は二十万。章邯軍も合わせれば三十万は下らない。
仮に数万の軍を率いてきても、この兵力差の前では何もできないだろう。
現に救援であろう趙の別軍は城の北で遠巻きに眺めているだけで、その他の軍も同様である。
◇
「城攻めというのは時間を掛けるものだ」
章邯も籠城する趙王には王離同様、じわりと相手にすればよいと思っている。
「しかし咸陽の空からは見えんであろうな」
咸陽からは攻めあぐね、悪戯に時を過ごしていると思われているだろう。
実際に咸陽から王離に代わり早急に叛乱軍を鎮討せよ、と再三使者が送られてきていた。
そのたびに章邯は王離の戦略の正しさを説き、また自身が守る兵站の重要さを語った。
「怠けれるものなら怠けたいんだがな。現場の実情は十のうち一も伝わっていまい」
章邯は初めに勝ち過ぎたことを後悔している。
咸陽と戦場を行き来する司馬欣が語る咸陽の宮廷の様子はひどいもので、勝って当然という弛緩した空気が流れ、当初の危機感を忘れたように兵や物資の補給も渋くなってきている。
「帰還する度に補充を訴える私を随分煙たがっているようで、耳触りの良い言葉しか聞こうともしませぬ」
司馬欣はそう語り、身の危険すら感じるという。
趙高の専横ぶりは激しさを増し、二世皇帝に直接申奏できぬばかりか鉅鹿城を囲んで動かぬ王離や後方にまわった章邯を怠惰と責める口ぶりだという。
「戦を知らぬ太った蛇め」
章邯は咸陽に向かって呪詛を放つ。
戦略が理解できぬ、いや理解どころか聞く耳すらもたぬ者の下で戦う虚しさは日毎に大きくなる。
この戦いの勝利は鉅鹿城を落とすことではない。
鉅鹿という炎に釣られて寄ってくる虫を潰す。
すでに幾つかの小規模な勢力が顔を見せている。
そして楚も動き出している。
項梁を失った楚は宋義という男が軍を率いているらしい。
宋義という男は生粋の武官ではないようだ。
「項梁以上ということはあるまいよ」
一度辛酸を嘗めさせられた楚軍だが、二度目はない。
帥将が変れば軍の性質も大きく変わる。
項梁以上の尖鋭的な統率力を持つ者ではないだろう。
元々九卿という高位の割に不精な風体であった章邯だったが、長く続く戦場の生活で鬚は疎らに伸び、頬肉はこけ、落ち窪んだ眼窩の下には隈が深く染み付いていた。
章邯はまだ知らなかった。
辛酸を嘗めさせた男は項梁ではなく、その男が宋義を殺して軍を掌握し趙へ向かっていることを。
◇
「あの数に突っ込めというのか」
鉅鹿城の張耳から、城の北で駐屯する陳余へ救援の催促の使者が送られてくる。
「北側だけでも我らの五倍は居る。兵力が違い過ぎる」
陳余が恒山郡で募った兵は万を超したが、それでも秦軍の囲いを突破して城を救うには足りない。
他国の救援軍を待つしかないと陳余は使者を送り返したが、
「こちらは四方、十倍以上の兵と戦っております。援けるはずの我らが沈めば何の為に集めた軍か。陳余殿が突っ込めば、張耳様も城から出て包囲軍の背後を襲いましょう」
張耳の使者が今度は二人で現れ、再び陳余に攻撃を促す。
そして張耳からの伝言を読み上げる。
「我らは刎頸の交わりの仲。死ぬときは共にと誓った仲ではないか。陳さんに信があるならば共に死のうぞ。決死の覚悟ならば万に一つは勝てよう」
その言葉を聞いた陳余は苛立った。
――信だと? その信が揺らいでいるのは張さんだろう。
陳余は張耳に不信感を募らせていた。
かつて武臣を趙王に仕立てた時、陳余は張耳よりも上位の上将軍となった。
張耳はその不満を表に出さぬようにはしていたが、付き合いの長い陳余はそれに気付いてた。
――言ってくれれば、地位などいつでも交代するものを。
陳余はそう思っていたが武臣が李良に殺された後、旧趙国の子孫である趙歇を王に立てた。
そこから張耳は王の傍らで権を振るい、陳余は外向きの任務に就かされることが多くなった。
露骨に王から遠ざけられた陳余は張耳の陰湿さを感じ、二人の間に溝が生まれた。
現在も城の外で兵を集めさせ、万に一つも勝ち目のない突撃を命じられた陳余には張耳の言葉は響かない。
「せっかく集めた兵を無駄に損なうだけだ。国のため民のため、秦を討たねば死ねん」
刎頸の交わりをおこなった者と権力を競うような人物の信義のために無駄死にしたくはない。
使者二人は張耳を信望する者達で、陳余の薄情さに怒りを露わに責め立て、小胆さを罵った。
「そこまで申すなら、あなた方に五千の兵を貸そう。張耳殿の信を確かめたい。もしあなた方の襲撃に合わせ城から兵が出てきたならば、自らを恥じてこの手で我が首を刎ねよう」
引くに引けぬ二人は五千の兵で秦軍へと飛び込み、激流に飲まれたように揉まれて沈んだ。
その間、鉅鹿の城門は固く閉ざされたままであった。
「悲惨なものだ」
陳余の悼みの言葉は二人の死へではなく、張耳との友情が死んだことへ向けたものだった。
鉅鹿の城はもう長くは持たない。
奇跡でも起こらねば救われぬ。
陳余や遠望する他の軍の誰もがそう考えていた。
しかし、奇跡を起こす英雄は近づいていた。
◇◇◇
碭を飛び出した俺は北へ向かって馬で駆けている。
疾走しながら俺は今までの旅で得た中原の位置関係を頭に思い描く。
ここから北へ行けば済水に突き当たる。
済水沿いにさらに北上すれば臨淄だ。
一度臨淄に戻るべきか。
いや、そこから田横の元へ向かっていたら間に合わないかもしれない。
しかし田横の軍が現在どこを進んでいるかわからない。
とにかく斉の領地に入って田横の居場所をつきとめなければならないが、当てもなく彷徨う時間はない。
馬の速度を落とし、思考に集中する。
田横は大きな邑や城を廻って兵を集めながらの行軍だろう。
斉国の西側の大きな邑は済水沿いに多い。
ここから真北の済水沿いには穀城や、対岸には秦に辛酸を舐めさせられた東阿がある。
東阿には雪辱を晴らしたいと募兵に乗る者も多いはず。
よし、まずは東阿に行くか。
そこで出会えずとも、なにか噂が聞けるかもしれん。
「はっ」
俺は馬の腹を蹴って合図を送ると、馬はそれに応えて速度を上げた。
曇天の湿った冷たい風が頬を打ち手綱を持つ手がかじかむが、それに反発するようにしっかりと力を込めた。
我ながら乗馬が上手くなったもんだ。
◇
なんとか東阿に辿り着いたが、田横軍の姿はない。
しかし俺を知る兵がいたので教えてくれた。
数日前までここで兵を集めていたらしい。
そしてその後の行動も知れた。
知れたのだが。
「それは正確な情報なんですか!?」
斉では俺が思っていたより複雑で、最悪な事態が起こっていた。
趙との国境近く、済水の北で叛乱が起きた。
首謀者は田安。
田安は先王田儋の無謀な敗死、現王田巿が傲慢且つ無才で王器ではなく、現政権は独りよがりで他国と協調せず、秦からの侵攻を止められぬだろうと民の不安を煽った。
そして正統な王の血統である自身ならばこの斉を守れると言い、すでに他国との連携も行っていると告げたという。
引き連れた兵とこれに呼応した者達を使い、数城を落としたらしい。
まさかの狄に近い地での叛乱。
むしろ狄が近く、壮大な田儋の王器とその死への失望と継いだ田巿の癇性な性質を知っているからこそなのか。
理由はどうあれこの衝撃的な事実を受け、田栄は鎮圧のために臨淄から軍を出す。
また東阿で募兵を行っていた田横にも伝令が届き、北へ向かったという。
こんな時に田安は……。
いや、こんな時だからこその謀か。
劉邦は楚がなかなか暗雲から抜け出せんと言ったが、斉にも厚く暗い雲はかかったままだ。
田横を追わないと……!