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156話

「田中、また脅しに行ってくれや。そろそろ根を上げる頃だろう」


 楚の西征軍の将、劉邦がこともなげに俺に言う。

 昌邑はよく耐えているが、劉邦と彭越に内外から攻められさすがにそろそろ限界の兆しが見えていた。

 しかし、開門あと一歩のところで昌邑攻略は白紙に戻される。


 降伏勧告へ向かう俺とすれ違うように劉邦の元へ駆ける伝令。

 その報せを聞くや否や、余裕の表情で座っていた劉邦は弾かれたように立ち上がった。


「やりやがったな、あの若造め……!」


 そう呟くと幕舎から出ようとしていた俺を呼び止める。


「田中、勧告は無しだ。彭越を呼んでくれ」


 振り向いた俺の目に映る劉邦の顔は青褪めながらも、どこかその報告を待っていたような不思議な表情だった。


 ◇


「どうせ隠し切れんだろうから包み隠さず言うが、上将軍宋義が死んだ」


 劉邦は俺や彭越を含めた主だった配下を集め、皆の前で告げる。


「なっ」


 一斉に驚きの声が上がる。

 俺はその中でも一際驚き、思わず声が漏れる。


 あの鋭敏な策謀家が?

 病死、な訳ないよな……。


「項羽将軍が斬ったらしい」


 項羽……。


 宋義と項羽の確執は理解していたが、こんな暴挙に出るとは。

 范増も付いていたはずなのに。


 ……いや。

 付いているからこそか?


「詳しいことはわからんが、あの優雅な嫌味に耐えかねたのか、余程腹に据えかねることが起きたのか。ともかく頭にきてやっちまったんだろうぜ」


 吐き捨てる劉邦。


「短絡的と片付けるには早計かもしれません」


 劉邦の配下たちが頷いている中、俺は劉邦の予想に異見を唱える。


「ほう、聞かせな」


 片眉を上げた劉邦は尋ねる。

 否定から入らないこの態度に部下が躍動するのだろう。


「彼には范増という父事(ふじ)している秀才が付いています。その范増殿がこのような短慮を許すはずがありません。綿密な計画かどうかはわかりませんが、今後を収める勝算があってのことかと」


 居並ぶ劉邦配下の将達が小さくざわめく。

 暫く収まりそうにない。


 劉邦は暫くその様子を眺めていたが、突如パンッと叩いた。


「起きちまったことは変えられねぇ。これから起こることもわからねぇ。重要なのはこれから俺達がどうするかだ」


 確かに項羽と范増は一度彭城へ戻るのか、それともこのまま趙へ歩を進めるのか見当がつかない。

 そのまま鉅鹿まで行きそうだが、鉅鹿を囲む秦軍に挑むには圧倒的に兵力が少ない。


 しかし俺はそこで歴史の一場面を思い出す。


 あ……。

 ここか。

 これが項羽が秦に寡兵で大勝する場面か!

 ということは楚王は項羽を赦し、軍を掌握することになる。


 どうする?

 これを進言したところで劉邦が項羽の上将軍就任を阻止できるとは思えない。


 それに先ずは秦を倒すことが先決だ。

 そして、その場に斉の勢力がいるのが最高の形だ。


 後の影響力を得るためにも田横には鉅鹿に行ってもらわないと……。


 とにかく劉邦には項羽が上将軍になって鉅鹿へ向かう可能性に言及しておこう。

 劉邦にも動いてもらって斉が趙か、とにかく斉軍のいそうな場所に近づかなければ。



 俺は一歩前に進み、息を一つ吐き出した。

 そしていつものふざけた表情はなく、皆を率いる将の顔をしている劉邦に語る。


「以前、陳勝の反乱で仮王を名乗り、主軍を率いて滎陽(けいよう)を囲んでいた呉広(ごこう)が配下の田臧(でんぞう)に将器なしと殺されました。陳王陳勝は旗揚げの盟友であった呉広を殺した田臧を罰するどころか呉広の後任に据えました」


 俺の言葉にまたざわめきが生まれる。


「同じことが起きると?」


「項家と楚王の力関係を鑑みても主軍を手中に収めた今、ありえん話ではない……か」


 察しの良い幾人かの呟きが聞こえる。



 しかし劉邦は俺の目を見詰めながら顎髭を擦り、暫く黙り込んだ。

 そして熟考の末、諸将に向かって伝達した。


「虎と爺がどう動くか、一先ず落ち着ける場所で様子を見たい」


 くそ、あの目……。

 俺と初めて会った時の観察するような、人の本質を見抜くような、あの目だ。


「しかし逃げたと思われるのは癪だ。(りつ)へ向かう」


 栗県は劉邦が沛公となって早くに領地にした(とう)県に近く、碭からは故郷豊邑、本拠地沛も近い。

 ここで豊邑や沛に直行しなかったのが劉邦の諦めの悪さを表している。

 俺の心を知ってか知らずか南へ向かうという劉邦にこれ以上反論する言葉は思いつかず、黙るしかなかった。


 続いて劉邦は彭越に向かい、苦笑混じりに詫びる。


「彭越、わりぃがここまでだ。お前さんがこのままついてくるなら歓迎するがよ」


 ふんと鼻を鳴らした彭越は同行する気はないことを告げると、


「あと一息といったところで、とんだ結末だな。お主から届いたわしの運は小さかったようだな」


 そう言って、無念さを皮肉で隠した。

 どうやらこの共闘は彭越にとっても充実したものであったらしい。


「なに、また運んできてやるさ」


 その彭越の胸の内すら見透かすように、劉邦はニヤリと笑って応えた。


「さて、楚はなかなか暗雲から抜け出せん。それに従う俺もだ。俺に運を運んでくる者はどこにいるんだろうな」


 心意はどうあれ涼しげな顔で軽口を叩く劉邦。

 その言葉が俺の心を決める。


 俺も運ばなければ。

 運ではなく、情報を。歴史を。


 堂々と使者を出せる内容ではない。どうにかここを抜けて田横に伝えなければ。

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