155話
小説版、漫画版共に4巻12月3日発売です。
結局卿子冠軍は斉領である無塩まで行き、そこでまた陣を張った。
項羽が考えていたように、諸将はここ無塩で斉軍を出迎え合流するくらいしか来た理由が思い浮かばない。
趙を救う気のない宋義に不満を募らせているが口を噤んでいる。宋義の耳に入れば斬罪に処される。
「なんなんじゃ、この軍は! なぜ斉の軍を迎えに来ねばならん! 斉の兵は路も知らぬ孺子か!」
将の末席である范増などはその額に青い血管を浮かび上がらせて、宋義の耳の届かぬところで当り散らしている。
項羽は真実を確かめようと、黙して無塩まで従った。
田都という男の話は戯言なのか。
宋義は我欲に溺れた狡狸であるのか。
彭城を出る前、田中が斉から訪れた使者から伝え聞いたこと。
定陶へ行くはずであった田横の軍は趙の救援軍となるだろうと奴は言っていた。
私が田横ならば、このような牛の歩みの軍を待たず趙へ行く。
別軍が来る可能性がない訳ではないが、斉にはその余裕がないとも聞いている。
となればやはり……。
田都が語る田安という前斉の直系が謀ったという策略。
それが成れば田中は斉へは帰れぬだろう。
そうなれば楚に留まるだろうか。
いや、軟弱に見えて強情な男だ。恐らく楚を出ていくであろう。
范翁は随分気に入っているようだが、別に構わん。あの手の者は范翁だけで充分だ。
奇妙な縁だったがここで切れるのも天命だ。
項羽は獲物を狙う虎のように、静かに時を待った。
◇◇◇
冷たい雨に打たれる無塩の陣に、軍中とは無縁のはずの歓声が聞こえる。
宋義が斉へ行く長子、宋襄のために送別の宴を開いているのである。
上将軍である宋義の招きを断ることもできず、将全てが参加している。その中に項羽の姿もあった。
宋義としても周囲の不満に気付かなかった訳ではない。
この大宴会は諸将の機嫌を取る意味合いも含まれていた。
「この宴が終われば我が子は臨淄へ発つ。名残惜しいが宋襄が斉で宰相にでもなれば、楚の権威はまた一段と高くなろう」
彭城で積み込んだ大量の肉や酒を振る舞い、上機嫌の宋義。
その姿に憤怒の限界を感じ、項羽は席を立った。
「気分が優れぬゆえ、退席させていただく」
返答を待たず帳幕を出た項羽に冷ややかな視線を送った宋義であったが、またすぐに楽しげに杯を傾け始めた。
背に喧騒を受けながら戻る項羽の目に映るのは、この冬の雨中に働く兵卒であった。
凍ったように動かぬ見張りの者。
濁った湯のような粥を啜る食事中の者。
濡れた着物の端を震えながら絞る者。
冷たい雨の中、項羽の頬が熱く濡れる。
「宋義の座して巡らす策とはあのような腑抜けた宴のことか。ここまで愚かとは思わなんだ」
いつの間にか後ろには范増が追従していた。
彼もあの下らない酒宴を途中で引き上げたのだろう。
「范翁、明日だ。後の始末を頼む」
「あいわかった」
◇
明朝、涙と怒りで目を赤く染めた鬼人が宋義の帳幕の前に現れた。
荒々しく侵入した項羽に宋義は得意満面、剣を手に待ち構えていた。
「短慮な若造の考えなどおみとお」
宋義が言い終わる前に項羽の剣が煌めき、その首は胴体から離れた。
首を拾った項羽はすぐさま将を集め、
「この首は社稷の臣にあらず」
猛獣の咆哮のような大声で宣言した。
その宣言に老齢とは思えぬ張りのある声で范増が続く。
「宋義は楚王に叛き、利己に奔った。項将軍は秘かに楚王の命を受け、これを誅した」
あからさまな弁明である。
しかし宋義の首を高々と掲げた項羽の姿は畏れと気高さを放ち、逆らう者はいなかった。
「初めに楚王を立てたのは将軍の項家です。今将軍は反乱を収められた」
将の一人がそう言って膝を折り、拱手すると将は皆それに倣った。
「反乱者の一族、宋襄を討つ。斉に行かせるな」
項羽の命に弾かれたように立ち上がった将達の行動は迅速であった。
すぐさま騎兵を編制し無塩を発った宋襄の一団に追いつくとこれを急襲して討伐した。
范増も動く。
速やかに楚王に向けて使者を立て、
「王の命の通り、項羽将軍が趙を救わぬ逆賊宋義を討ち果たしました。現在仮の上将軍として項羽将軍が諸将をまとめております。次将であり功を上げた項羽将軍に正式な任命を」
そう半ば脅迫のような上申で王に迫った。
楚王には軍を力で掌握した項羽に歯向かう胆力はない。
王は宋義を失った悲壮を呑み込み、項羽を正式に上将軍に任命した。
戻った使者から上将軍に任命されたことを告げられた項羽だが、そこに喜びはない。
「この軍は本来の目的を果たす」
そう告げると無塩の陣を払い、西へと進軍を始めた。
その軍中、率いる将の中には田都の姿があり、遠く離れた斉の北西、趙との国境付近には田安の姿があった。
「田都はうまく項羽に取り入った。奴らから斉を……取り戻せるならば、どんな形であろうとも……」