154話
「咸陽にいる者達はあなた方の奮戦を観ておりますか? ここ昌邑を援けに駆け付ける軍はいるでしょうか?」
門前で呼びかける俺の言葉に唇を噛む昌邑の兵達。
「我らの後方には卿子冠軍も控えております。どうかご英断を」
だがそれでも「降る」という言葉は城壁から降ってはこなかった。
彭越と協力関係を築いた劉邦は昌邑を攻めた。
兵を使って包囲戦を繰り広げながら、裏では彭越達を使い内部から混乱を謀る。さらには降伏の勧告の使者を送って懐柔する。
その使者というのが俺なんだが、使えるものは何でも使う劉邦に命じられた俺である。
まぁ攻城戦に参加するより自分らしい仕事を任せられて内心ホッとした。
その降伏の説得だが、聞き入れなかったが守将には迷いがあると視た。
そう報告する俺に、劉邦は余裕のある表情で顎鬚を擦る。
「彭越の言うように昌邑は堅城だ。さすがにお主の口車でもそう簡単には落ちねぇか。まぁまぁ、ある程度踏ん張らにゃ守将も言い訳もできぬし、援軍も望めぬこの状況、そうは持つまいよ」
そんな多角的な攻めに昌邑は堅く門を閉ざし耐えてはいるが、城壁に白旗が上がるのは時間の問題のようだ。
劉邦が昌邑を囲みその兵を閉じ込めている合間を縫い、楚の主力軍である卿子冠軍は進軍を始めた。
しかしなぜか鉅野沢の南、安陽まで達すると完全に足を止め、陣を敷いて腰を落ち着けた。
上将軍宋義率いるこの軍は、張耳と陳余、そして二人に擁立された趙王が籠る鉅鹿への救援が目的である。
「なに考えてやがんだ。あの上将軍様は」
宋義の指示通りに鉅野沢周辺を均している劉邦は、怒りを隠さず悪態をつく。
「なんであんな所で足踏みしてんだ。宴でも張ってんのか?」
そして未だ劉邦軍と昌邑との睨み合いが続く中、漸く動き出した卿子冠軍は鉅野沢の東側を北上し始めた。
鉅鹿へ向かうはずの宋義の軍は、安陽から鉅野沢の西側を通り河水を渡るのが最短であり、常道と思われる。沢の東を北上するとなると、大きく回り道になる進路である。
しかも宋義は北上を止めず、ついには斉の領地である無塩まで進み、漸くその足を止めた。
「おいおい、あいつらはどこへ行くつもりだ。軍全体が酔っ払っちまってんのか」
秋は既に去り、季節は冬を迎えている。
人々の身体を濡らした長雨は、そのまま心まで凍えさせる雪へと変わろうとしている。
劉邦の困惑した呟きは楚の未来を厚く暗い、見通しの効かない雪雲を連想させた。
◇◇◇
「その大きな手は牛にたかる虻は打てても、その毛の中にいる虱を殺すことはできぬでしょう。秦という憂苦を元から絶つには、秦軍が趙に勝ったならば戦いで疲弊したところに乗じればよく、負けるならば鼓行して西へ向かい関中を攻めればよい」
安陽での長き駐留の最中、『軍議で次将項羽の迅速に進軍し趙を救うべし』との項羽を始め、諸将の進言に宋義は答えた。
「救いを求めてきた趙を見捨てるおつもりか」
宋義の煙に巻くような回答に、項羽は低く静かに食い下がった。
冷酷に見えても頼られれば懐深く迎えるのが項羽である。
「鎧を着込み戦うのは若い貴方に及ばないが、それだけが戦ではない。座して大局を読み、策を巡らせるのも戦。それについては私の方が長じている。下がられよ」
宋義は毅然とした態度で項羽を退けようとしたその時。
その場の誰もが項羽から強い感情の爆発を感じた。
項羽は言葉を発してはいない。ただ確かにそれは全身から噴き出していた。
重く渦巻く憤りのような気配にあてられ、後退さりそうになる宋義であったが肚に力を込めて揺るがず、言葉を続けた。
「しゅ、主将と次将の意思が揃わぬと兵が混乱する。……以後の異見は控えてもらおう」
軍議中にもかかわらず議場を去ろうとする項羽の背中にそう投げかけた宋義は、他の将の顔を見渡す。
「諸将も同様である。楚王から兵を預かったのはこの宋義である。我が命に従わぬならば厳罰に処さねばらん」
項羽の圧に気後れしたことが宋義を苛立たせたのか、僅かに感情的になった宋義の声が議場に響き、軍議は白けた空気に包まれた。
◇
一月以上の滞陣の末、漸く安陽を出た卿子冠軍は北上を始めた。
但し、鉅野沢の東を廻る進路で。
忠言を封じられた諸将は、不満を溜めこみながらも進むしかない。
次将である項羽も例外ではない。
「項羽将軍」
そんな声を掛けるのも憚られる気配を纏ったままの項羽に、その男は呼び掛けた。
「お主は」
宋義すら怖気づいた項羽の眼力と気配に男の背中に冷たい汗が流れる。
しかしその男はそれを顔には出さぬ胆力を持ち合わせていた。
「田都と申す」
「……王に匿われていた斉の田氏か」
「いかにも。斉のあるべき姿を取り戻さんと模索し、楚の仁慈で生かされておる田氏の一族でございます」
田都の名を聞いた項羽は興味を失い、歩き始めた。
「お待ち下され」
「斉人に用はない」
田都はその歩みに随従し、項羽の気を引こうと過去を持ち出す。
「景駒を武信君が誅した折、書簡を送ったのは私でございます」
楚王を僭称した景駒を項梁は認めず、これを討った。
その戦いで景駒の客将であった田都は秘かに項梁へ書簡を送り戦わずして離脱することを告げ、景駒軍の大敗の一因となった。
「恩を着せ、取り入ろうというのか」
歩みの止めぬ項羽の冷めた声に憤怒の気配が濃密に漂い、田都の額に汗が滴る。
「そうではありませぬ。あの時の項羽将軍の戦ぶりに感銘を受け、楚王へ再三将軍の下で働きたいと願い出るも許しが出ず、こうして秘かに参った次第」
戦場に向かう今、なぜこの時にこの男は会いに来たのか。
煩わしくなった項羽は田都の意図を問う。
「……何が言いたい?」
田都は意を得たりと表情を緩めそうになったが、この猛虎の前で失言をしないよう慎重に本題を切り出した。
「宋義が安陽から動かなかったのも今あらぬ進路で北上しているのも、全ては一族と利己のため。長子宋襄を偽の斉の要職へ送り出すためだけに今から斉領へと向かおうとしているのです」
「……斉軍と合流するのではないのか」
項羽はこの不可解な北上に敢えて理由をつけるならば、斉軍と合流してから秦軍にあたるためという独自の結論を出していた。他国の軍も従え、卿子冠軍の装飾として他国の軍も従えて行くというのはいかにも宋義の考えそうなことであると。
趙を見捨て、弱兵の斉兵を多少加えても章邯率いる秦軍との戦闘に役立つとは思えず、到底納得できるものではない。しかしそれならば多少の戦力的意味もあると項羽は煮える腹に蓋をしたのだ。
「偽の斉と宋義の我欲を絶ち切らねば、楚を害しますぞ」
憤怒の牙を生やした猛獣の口は激しく軋み、その鬼気に触れた田都の身体は戦慄し、この男には及ばぬという敗北感と畏怖を植え付けた。
「妙計がございます」
それでも田横や蒙恬、彭越などと渡り合う武人である田都はその動揺を表に出すことなく、項羽の耳に謀略を聞かせた。
鼓行 (ここう)
軍が太鼓などを打ち鳴らして行進すること。