153話
彭越。
田横と縁深く、趙高に処刑されそうになった蒙恬救出を手助けし、蒙琳さん誘拐の時にも世話になった男。
ついでに俺の蒙琳さんへのプロポーズを盗み聞きしていた男。
その後も様々な所で漁師としてそして秦に仇なす賊として活動していたようだが、章邯が秦軍を率いることになって以降、状況は一変したようだ。
次々と反乱軍を掃討していく章邯は、もちろん賊も許さない。
彭越も咸陽に近く締め付けが厳しくなった安邑から離れ、故郷昌邑へ戻ってきたのだろう。
「この辺りが故郷だそうですね。ここにいるということは咸陽辺りは動き辛いですか」
彭越は俺の小さな嫌味も意に介さず、さらなる嫌味で返す。
「秦の無名の将軍が次々と反乱軍を潰していったからな。どこぞのなんたら君まで死んで、さらに調子付いた」
おい、それは。
「むさ苦しい賊風情が。言うじゃねぇか」
項梁の死を当てこすられ、今まで黙って聞いていた劉邦が口を開いた。
彭越を睨みつける劉邦。
その眼光は生まれ持った存在感に加え歴戦を駆け抜けた自信と風格が合わさり、人を自然に従わせるような凄味を纏っている。
俺と駆け引きをした沛を取る前の山に籠っていた時の比ではない。
彭越さん、蒙恬の時に何も学ばなかったのか?
その悪態も健在ですね!
劉邦の後ろで控える護衛の樊噲達も物々しい雰囲気を即座に感じ取り、殺気を匂い立たせる。
その風に当てられ、彭越の細い目が僅かに見開く。
彭越の手下達もその場から動きはしないが、身体の重心を落としたか、衣擦れの音が僅かに聞こえた。
一触即発のこの状況。
俺の胃はキリキリと痛む。ぼろ雑巾みたいに捻じ切れそう。
しかし彭越はここで怖じ気付く男ではない。
飄々とした態度を崩さず、劉邦を観察している。
劉邦もそんな殺伐とした様子を理解していながら、警めを口にする。
「さっきの言葉、ここに来たのが俺でなければお主の首は床に転がっていたろうよ。武信君を貶めるのは止めろ」
その命令口調に彭越の手下がさらに殺気立つ。
しかし背中でそれを感じたのか、彭越は片手を挙げて制す。
「思ったことがそのまま口に出る性質でな。以前そこの大公絶望殿にも諌めの言葉をいただいたよ」
彭越から急に振られた俺はビクリと背筋が伸びる。
捻れた胃に収まっていた朝飯が逆流してくる。
「田中、お主こんなはずれ者達とも相識なんざ存外顔が広いな。が、大公? 絶望? てなぁ……」
もうそれはスルーしてくれ。
しかし間抜けな渾名のおかげで若干、場が緩んだ。
俺は慌てて口の中に戻ってきた朝飯を一口に呑みこむ。
「まぁその名は置いておいて。こちらの彭越殿は田横と浅からぬ縁がありまして、その関係で幾度か助けていただきました。彼らは賊と申しても秦の官兵を襲うことしか致さぬ義賊。彭越殿、こちらは……」
互いを紹介しようとする俺の言を彭越が遮る。
「沛公か。わしと変わらん賊紛いの男が天の佑けか、人の情か、今や楚国の名将様か」
だから! 余計なことを口にしないで……。
今度は劉邦の後ろから殺気が昇り立つ。
殺気渦巻く沈黙が重い。
気絶しそう。てか気絶したい。
あと一言。
なにか火種になる言葉が投げかけたならこの場は乱闘になる。
「カッカッカ!」
皆が感じるその空気を吹き飛ばしたのは、劉邦の豪快な笑い声だった。
「賊紛いだったのは違いねぇな。まぁ日頃の行いだな」
劉邦はニヤリと鬚を擦る。
「日頃の行いが善いのは変わらぬはずだがな。わしには運がないとみえる」
彭越もニヤリと口端を緩めた。
二人とも高すぎて手が届かんほど自分のことを棚に上げてよく言うよ。
このひねた口は治らんと諦めるしかないのか。
だが早くもその彭越の性分を理解したのか劉邦は皮肉を持ち前の気安さで切り返し、彭越との距離を縮めていく。
「その運を運んで来てやったのよ。出没自在の賊であろうと孤軍で秦に当たるにはそろそろ限界だろう。何処かの下に付いてでも手下の腹を満たさにゃ頭の面目が立つまい。なんせ俺がそうだったからな」
「確かに食わすのは頭の務めだ」
部下に対する考え方。頭目としての役目。
方法は違えど通ずるものがあるのか彭越はそう言って頬まで生えた鬚を擦る。
もう一押しか。
俺はふっと息を吐き出し、彭越に語りかける。
「彭越殿、この辺りも秦軍に押し込まれましたが楚軍が再び攻勢に出ます。そろそろ本腰を入れて反秦を掲げるならば、この機を逃す貴方ではないでしょう」
このまま劉邦の傘下に収まるとは思えないが、彭越は合理的な考えの持ち主だ。
「劉邦殿は先ほどご自分で語ったように楚軍では異色の人物。自身も無為無形から始まった故、貴賤の区別なく人を量ることのできる器の持ち主です。貴方とうまく連携できる数少ない人物の一人かと」
数少ない内のもう一人、俺が最も信頼している人物と連携してほしかったが、この場にいない。
しかし目指すところは同じ打倒秦。またいつかその日が来るんじゃないかと思っている。
「主軍が鉅鹿へ行くにも俺達が西行するにも昌邑が邪魔になる」
劉邦が昌邑攻略の目論見を語る。
しばらく無言で顎を擦っていた彭越だったがやがて諦めたように溜め息を吐き、その口を開いた。
「昌邑は城壁も高く、攻め落とすには時が掛かるぞ」
「だからこそお主らの出番があるってことよ」
ニヤリと人好きする笑みの劉邦に、皮肉な笑みを返した彭越。
互いの品定めを終えたとばかりに先程と打って変わって協力に前向きな会話が繰り広げられる。
なんというか、どこか似た匂いのある二人は胸襟を開いたように打ち解けていくように見えた。
薄々本気じゃないのはわかってたけど、ほんと止めてくれよ、そういう試しかた……。
こっちの身が持たん。
劉邦、彭越二人の後ろに控えていた部下達からもほぅと胸を撫で下ろす声が聞こえる。
配下の人達も気が気じゃないよな。
そんな思いをよそに、昌邑攻めの話はまとまったようだ。
「おい、ところで絶望」
劉邦らと協議していた彭越がふいにこちらに顔を向け、ひらひらと手を出す。
なんだ?
「あの時の銭、まだ受け取っておらんぞ。斉からも楚からもたんまり貰ってんだろう」
今かよ!
……あの、いや、遠征中だし、もうちょっと待ってくれませんかね。
それに斉の職は辞してきたし、楚からはまだそんなに。
「なんだ田中、賊から銭借りてんのか。小銭を借りるから催促されんだぜ。借りるときゃ大銭借りるのが肝だ」
違うよ! 借金じゃないし、その借金の肝もなんかおかしいよ!
「なんなら俺が立替えといてやろうか?」
余計怖い気がするから止めときます。