152話
彭城の城外。
趙救援に向かう本軍の準備に奔走する兵達。
それを彭城の城門の上から眺めている項羽は一言も発さず見守る。
「此度の人事、未だ不満を抱えておるのですか」
誰もが話しかけるのを躊躇う沈黙の項羽に、范増が近付きその背中に尋ねた。
「いや、それはもうよい。が、あれは」
振り返ることもせず答えた項羽は、范増に尋ね返す。
「上将軍の兵站ですな」
項羽の視線の先には上将軍、宋義が乗るのであろう豪奢な馬車。そしてそれに続く車には大量の塩漬肉や干し肉などの食料、恐らく酒であろう瓶などがまるで宴の準備をしているかのような賑々しさの中、運ばれている。
勿論、大量といっても兵全体を賄う量ではないのは一目瞭然。兵達の労いや褒賞として出されるとしてもあまりに少ない。
「……」
それを薄く開いた目で見る項羽は、やはり無言。
項羽は変わった。
豪快な快活さは影を潜め口数は減り、その鋭い眼は冷ややかだが強い光を宿すことが多くなった。
以前の分かりやすく猛々しい若者から、、多くは語らぬが獰猛さの滲み出る男に変容しつつある。
〈亡き叔父、項梁のような人物になろうとしているのか〉
「何を、お考えですかな」
范増は読めなくなった項羽の脳中を問う。
漸く振り向いた項羽が范増に向ける敬愛の眼差しは変わらぬ。
しかし意志の宿るその瞳は、以前よりも強く眩いているように見えた。
一方の范増の心は冷めかけていた。
打倒秦、楚再興の首領に相応しいと思われた武信君項梁は逝った。しかしながらその道筋は通った。
もうこの老骨がでしゃばらなくとも時勢という大河は秦を洗い流し、新たな時代が来るだろう。
(居巢へ帰るか)
故郷の居巢で隠棲し、余生を過ごす。
何かを成したわけではなく、燻ったものを抱えたままではある。
だが最大の理解者であった項梁亡き今、何か成せることがあろうかと胸の燈火に諦観の砂がかけられ炎は小さくなっていく。
范増は槁木死灰の余生を想像し、寒々しい思いを抱いた。
そんな范増に項羽は、はっきりと言い放った。
「范翁、私は王にならねばならぬ」
今までのような粗暴な軽さはなく、重く芯のある言葉。
乱暴な上辺の大言ではないその言葉は忸怩たる思いを抱く范増を震わせ、その肌を粟立たせた。
天からの責務のように語った項羽に、今まで通り纏う武威と今までにない尊厳を感じる。
(此度の苦難でこの若者の器は一段、いや一足飛びに大きく広がったのやもしれん)
項梁を超える傑物になるかもしれない。
愚直で粗暴であった若虎が見せた成長の片鱗は、范増の消えかかった心の炎を強く吹き付ける。
(この若者を、真の王へと導く。それを成せば、充たされて黄泉へ逝くことができるかもしれん)
范増の燈火は再び揺らめき、燃え上がった。
そんな予感に昂る思いを抑えるように腕を擦り、努めて冷静に応える。
「ならば素早く行き、素早く勝たねばならん」
項羽は頷く。
「趙を囲む章邯、王離の軍を片付け、その勢いのままに咸陽に攻め込む」
さも容易な道筋だと言わんばかりに簡潔に語る。
そして項羽は再び準備に追われる城下に視線を落とし、今度は自軍に目を向ける。
簡素な革鎧を纏い、誰もが何かを運んでいる。
宋義の直属に比べ、貧相な黒蟻のように見えるが機敏に無駄口なく働くその姿は気力に溢れている。
一番に関中入りした者を王とするという楚王の宣言。
最短の路は劉邦に譲ったが諦めた訳ではない。
兵数、行程、士気。
最短が最速ではない。
「報われるべき者が報われねばならん」
自軍の兵達を見下ろし、項羽は呟いた。
項梁、項家、配下の将、兵、そして自分自身。
この若者のいう報われるべき者とはどれほどの者で、どれほど報われるべきなのか。
ふと范増の脳裏を過ぎったが、項羽の駆ける先に王へと続く道標を立てるべく頭を切り替えた。
◇◇◇
先行して出陣する劉邦軍に同行することになった俺は、腹を括って劉邦軍を訪れた。
「この軍は睢水沿いを行くのですか?」
出発前に劉邦に問うた。
彭城から真っ直ぐ西へ進めば睢水があり、その河沿いにも多くの邑が存在する。それを落としながら咸陽を目指すのだろうかと予想した。
「いや、上将軍からの要請で先ずは泗水沿いを先行して救援軍の露払いだ。こちらは主力軍と違ってそこまで急ぐ旅ってわけでもないからな。鉅野沢周辺を均しておいてくれだとよ。簡単に言ってくれるぜ」
劉邦は宋義の顔を思い浮かべ、大袈裟に顔を歪ませた。
相変わらず宋義にはいい感情を持っていないようだ。そういえば宋義の方も劉邦を侮っていた感じだったな。
それは置いておいて鉅野沢となれば彭城からほぼ北。北西の鉅鹿へ向かうならば鉅野沢の西側を通っていくのが最短ルートか。
「ということは救援軍、あ、いや卿子冠軍は北から鉅鹿へ向かうということですかね」
北回りか……。もしかして事前に斉軍と合流して救援に向かうつもりか?
定陶で楚軍と合流するはずだった田横の軍は、そのまま趙への救援の軍になるのではと思っている。
斉軍と楚軍が協力し合うのは喜ばしいことだが、そんな時間的余裕があるのかな?
「その辺りの上将軍様の考えは解らん。大方また腹に一物抱え、長い舌を振るうつもりだろうよ」
劉邦はそう言うと顰めた顔から舌を出してみせた。
そういった訳で鉅野沢周辺に侵攻した劉邦軍はいくつかの邑を苦もなく落とし、次の目標を昌邑に定め、劉邦がちらりと言っていたその付近にいる大賊を取り込もうと、その賊の長と面会することになった。
そこで待っていたのは。
「おや絶望殿、青二才から乗る馬を変えたのか」
鋭い目が細く歪み、皮肉めいた言葉が薄く笑う口。
再会の一言目がそれ。
「離れることでやれることもあります」
「わかっておる。そうムキになるな、冗談だ」
そう底意地の悪い笑みで相変わらずの憎まれ口だ。
劉邦の言っていた湖賊の長とはやはりというかなんとというか、俺の知っている皮肉屋で嫌味で鋭敏な男、彭越だった。