151話
趙救援の主力軍は準備を慌ただしく整えていく。
別軍で秦の首都咸陽を目指す劉邦軍は早々に編成を終え、いつでも出立できるという。
「よぅ、準備は進んでるかい?」
そんな中、忙しいはずの劉邦が俺を訪ねてきた。
「劉邦殿」
これから長く険しい戦いに身を投じることになるはずの劉邦だが、そんな緊張感を感じさせない。
「そうですね。ほとんど準備は終えました」
「そうか、じゃ早めに来いよ。蕭何もまだ色々聞きたいことがあるって陣で待ってるからよ」
挨拶にってことか?
これが今生の別れになるかもしれんと考えているのか。
まぁ確かに厳しい戦いになるだろう。
「わかりました。後ほどご挨拶に伺います」
「お前が合流次第出るから」
「そちらのご無事をお祈りし……合流次第?」
「ん?」
「ん?」
どうにも噛み合わない会話に互いに首を傾げる。
しかしすぐに劉邦は食い違う理由気付いたようで、苦笑いで手を打った。
「そうかそうか。まだ令が来ていないのか」
劉邦は一人納得したように首を擦る。
んん?
「ちと気が急いてしまったようだな」
んー、嫌な予感しかしない……。
俺の肩に大きな手を置いた劉邦は、素晴らしく良い笑顔で言う。
その笑顔が怖い。
「田中はこっちだ」
こっちってどっち?
そっち?
いや、聞いてないよ!
俺西行軍なの? 俺、関中目指すの!?
「いや急な話だったがな、范増の爺さんに要望したら思いの外すんなり受け入れてくれてな。項羽殿や上将軍殿にも話を通してくれた」
いや急過ぎだよ!
「前も言ったけどよ、うちにゃ将はいるんだがここを使える奴が少なくてな」
そう言って頭を指で叩く劉邦。
戯けた態度だが、若干の哀愁が見える。
その要因は、劉邦の傍らにいるはずの美女男。
張良の不在。
俺が楚を訪れた時点で、その姿は見当たらなかった。
その事を劉邦に尋ねると、
「ちょっとな」
そう寂しげな笑顔で言い、それ以上聞くことができなかった。
反目して離別って訳ではなさそうだったが、別行動でもとっているのか、それとも歴史が変わって袂を分かったのか。
そんな訳で劉邦には現在参謀が不在。
しかしその代わりが俺ってのはちょっと、いやかなり、大分、大きく荷が重い。
担いだ瞬間潰れるよ!
「別にあいつの代わりをしろなんざ思っちゃいねぇよ」
俺の考えを読んだのか、劉邦はそう言って俺の肩を強く揉む。
痛いよ! 今潰れるよ!
痛がる俺を見て嬉しそうにニヤリと笑う。
「お主も、ちと距離を開けてほとぼりを冷ましたほうがいいだろう?」
そう言って肩から手を離し、片眼を瞑る。
誰との距離かは言わずもがな。
楚の本軍の次将。荒ぶる若き猛将とのいざこざを劉邦も知っている。
うっ……。
そうやって肩の痛みより痛いことを……。
有耶無耶にするのは善くないが、確かに互いに冷静に話せるよう、時間は必要かもしれん。
范増もその配慮から、劉邦同行を許可したのだろうか。
それに現在、楚に席を置いている俺が西行を拒否したって覆らないだろう。
さらには確かこの遠征が劉邦の隆盛を決定づけるはず。
そこに関わることができれば、斉の田氏の未来も変わるかもしれない。
そう思えば悪いことではないかもしれん。
過酷な路なのは間違いないだろうが……。
「すぐに正式に令が来よう。諦めて一緒に楽しい楽しい旅に出ようじゃねぇか」
全然楽しくなさそうだよ。
劉邦は俺の諦めの溜息にカカッと笑ったが、雰囲気を一変させいつになく真面目な顔で俺に問うた。
「田中よ。此度の人選どう思う? 項羽殿が外れ、俺のみが選ばれた故は」
「それは……」
俺は言い淀むが、劉邦は黙って言葉を待っている。
その沈黙は答えるまで続くだろう。
俺は言葉を選びながら話し始めた。
「できるだけ民を害さず、楚軍の風聞を損なわぬためかと」
関中までの道程、武で切り開くのであれば項羽も選ばれただろう。
しかし、すでに項羽は恐怖の対象として広く知られており、駆け抜ければ足跡以外何も残らぬと言われている。
たとえ項羽と劉邦の二人を派遣したとしても、立場的にも劉邦が項羽を止めることは難しいだろう。
楚軍を見れば民が逃げ出すような事態になれば、その後の統治が滞る。
それが劉邦のみとした要因の一つだろう。
しかしこれでは納得しないのか、沈黙は続く。
他にも考え得ることはあるが……。
俺が言い淀んでいると、劉邦は沈黙を皮肉な笑みに変え、自身で答えた。
「俺なら死んでもかまわん、といったところか」
劉邦は元からの楚の将ではない。
有能な将ではあるが、楚国に縁ゆかりのない劉邦ならば捨て石にしても影響は少ない。
劉邦は自虐的な笑みを収め、再び真剣な眼差しで俺に問うた。
「俺は関中に届くと思うかい? 如何にすれば生きて咸陽の土を踏めると思う?」
これは問いというより……。
劉邦にしては珍しい鬼気迫るような表情に釣られ、俺も真摯に言葉を綴る。
「それは先程語った項羽殿が選ばれず、劉邦殿が選ばれた由に答えがあるのではないでしょうか。貴方にはその図々し、いや人の懐に飛び込む気安さがあるではありませんか。沛の時のように武だけでなく人の心を攻めれば、城門も開かれるのでは」
俺の言をゆっくりと噛み締めるように聞く劉邦。
「……そうだな。世の中は敵と味方ばかりではない。どっちに転ぶか迷っている奴も居る」
そう自分に言い聞かせた後、カカッという笑い声と軽口を叩く。
「となればお主にも、沛の時のような華麗な奪取劇を期待せねばなぁ」
「また殴られ昏倒するのは御免です。他の人でお願いいたします」
いつもの砕けた雰囲気に戻った劉邦に俺も軽口で返す。
本心だけどな。
それにニヤリと口を歪ませた劉邦は何かを思い出したように顎を擦った。
「そういえば中々の規模の湖賊が居るらしい。のらりくらりと官軍を避けながら、今は頭目の故郷の昌邑辺りに身を潜めているそうだ。そいつらを巻き込めば楽になるか」
今は反乱軍も賊も大して変わんねぇからなと言う劉邦に、俺は嘆息する。
あんたに巻き込まれる方はたまったもんじゃないよ。名も知らぬその賊に同情するわ。巻き込まれ経験者として。
「頭目の名はなんだったかな。ほ、彭……まぁ、蕭何や曹参に聞きゃ分かるか」
……それ、名も知らぬ湖賊だよな?
俺の知ってる湖賊の頭目はあれから音沙汰無いが、大丈夫なのだろうか。
まぁ簡単に捕まるような男じゃないか。
そのうち飄々と取り立てに来るだろう。
「じゃあお主が俺らに合流次第出るからよ。令が届いたら荷物担いですぐに来な」
そう言って出ていく劉邦と入れ違いに官吏がやってきた。
図ったようなタイミングだな。
田横達とは合流できそうにないが、本軍に付いていくよりやれることがあるかもしれない。
官吏の命を読み上げる事務的な声を聞きながら、俺は関中を目指すに斉が絡める可能性を探る。
どこかで抜け駆けして、田横が劉邦と共に咸陽に入ることができれば或いは……。
官吏を見送った俺は軽く頬を叩き、荷物をまとめる作業に戻った。