150話
更新再開させていただきます。
小説4巻、コミカライズ4巻ともに12月3日発売予定です。よろしくお願いいたします。
「そうですか、田假が……」
斉国内の微妙な問題は一先ず置いておき、先ほど仕入れたばかりの田假の死を伝えた。
田広は何とも言えぬ複雑な表情をつくる。
「我ら田家の手で清算したかった思いもありますが、憂いが一つ取り除かれたことには違いありません」
田広さん、なかなか過激な……。
まぁ古代中国の男というか、時代としてはそういう考えになるか。
形の良い顎に手を当て、その死がもたらす結果を推測する。
「前時代を知る、影響力を持った人物ではありました。しかし斉への反乱を主導していたかと言われると疑問の残るほどの老齢でした。国内の風聞を聞く限り、恐らく首魁は田安、田都のような気がいたします」
その父譲りの鋭い見解に俺も頷く。
「宋義から聞いた話では、田假に楚に着いた時にはすでに気力なく斉を乱す意思は感じ取れなかったようで、穏やかに亡くなったようです。逆に田安、田都は精力的に楚へ介入しています。広殿の推察通りでしょう。しかし、その二人も宋義は引き渡すよう楚王に働きかけると約束してくれましたが……」
「が?」
小首を捻る田広に未だ残る幼さを感じ、少し嬉しくなるがそれには触れず宋義、宋襄親子への注意を促す。
「老獪なあの人物が素直に事を運ぶかが気がかりです。斉へ出向する長子の宋襄を注視し、その背中越しに視える宋義を警戒するようにしてください」
田広は幼さを消すように顔を引き締め、頷いた。
そういえば田広はこのあと、臨淄へ帰るのか?
さっきまでの話で田巿と距離を置くのなら、ここからまたどこかへ行くのだろうか。
「田広殿は使者の役目を終えたら、王の補佐へ戻られるのですか?」
「この後は横叔父上の下で兵を率いる予定です。楚への道中、斉へも趙から救援を請う使者が来たと急使が参りました。この役目を終えれば叔父上と合流し、趙へ向かえというのが父上の命です」
田栄はやはり暫くの間、田広と田巿との距離を取らせるつもりなのだろう。
しかし田広も前線に行く立場になったんだな。
もう幼いとはいえない歳であり、誰かの影に隠れる小心さは成長と共に消え失せた。
まだ少しあどけなさが残る顔に若干心配してしまうが、田横がついていれば大丈夫だろう。
俺は俺自身の心配をした方がいいだろう。
「恐らくは私も楚の主軍とそちらへ向かうことになると思います。横殿にもくれぐれもお気をつけてとお伝えください」
斉が趙へ援軍を出すなら繋ぎの役目として、ここ彭城に残されることはないだろう。
項羽か劉邦か、どちらかあるいは二人ともが別働軍を率いるかわからないが、俺がその軍に入ることもなかろう。
できれば救援先の趙で田横と一度会いたいが、軍単位で動いている最中には難しいかもしれないな。
田広とはその後も互いの情報を交換し、彼は使者の役目を務めるため宿所から去っていった。
「前線に出ることはないとは思いますが、中殿もお気をつけて。臨淄では貴方の帰りを待っている方が多く居られますから」
田広を見送った俺は、湿り気の帯びた土埃を払って自室へ戻る。
去り際の田広の言葉に臨淄に残る妻、琳さんの姿に思いを馳せる。
自ら望んだとはいえ、新婚初日で単身赴任だからな。
はぁぁ……めちゃくちゃ帰りたくなってきた。
でも斉と楚の関係を良くするまでは帰れない。
上手くいきかけた項梁の救命は不慮の事故で成し遂げられなかった。
後任の宋義は斉に友好的とはいえ、腹に一物抱えていることは否めない。
とはいえ今の斉には必要な人物だ。
現状、宋義と連携し斉と楚を繋げていくのが一番確実なはず。
宋義は本当に田安達を引き渡すか。
同時に項羽との関係改善も必須。
劉邦とは今のところ良い関係か。
張耳と陳余は顔見知りだし斉との友好を望んでいた。救援できたら同盟を結べるかもしれない。
田横、琳さんとはいつ再会できるのか。
とりとめなく想いを馳せる。
明日の関中進行、趙への救援の編成によって楚が今後が大きく動く。
また降り出した雨で湿った夜が、寝付けぬまま更けていく。
◇◇◇
「西征の将は武安侯、劉邦とする」
明朝、再び集まった諸将の前、楚王の傍らで令尹の呂青が発した命はそれだった。
誰一人、声を上げていないのに場の空気が震えた気がした。
拝命した劉邦は膝を着き両手を重ね、恭しく頭を垂れる。
劉邦の垂れた頭に楚王の慈心に満ちた声が注がれた。
「苦難の路であろうが、武安侯であれば成し遂げられるであろう」
「恐れながら」
顔を上げた劉邦が不遜に感じさせぬ人懐こさで問う。
「この劉邦、一度西へ向かえば、孤立は覚悟の上。征行の途上、受命も報告もままならぬことになりましょう。何卒ご高配をたまわりたい」
呂青は一度楚王を見やり王が頷くのを確認すると、劉邦へと向き直り答申する。
「孫子にも『将の命を君より受け、君命も受けざる所あり』とある。王がそれを咎めることはなく、西からの吉報を待っている」
器の大きさを見せた楚王に、再び深く頭を下げた劉邦は自らの膝をパンと叩き、立ち上がる。
「ありがたきお言葉。そうと決まれば時が惜しゅうございます。早速準備に取り掛からせていただきたく存ずる」
劉邦はすくっと立ち上がり、快活な笑みを浮かべ大股に議場を後にした。
皆が視線でその姿を追う中、王とその傍らに立つ重臣達を見詰める者がいた。
西征の人選から漏れた項羽である。
俺はそんな項羽を訝しむ。
今までの項羽ならば、
『なぜ俺が選ばれぬのだ!』
と怒号で議場を振るわせてもおかしくない。
しかし現実の項羽はただ去っていく劉邦の背中を見、そして王達に視線を戻すと誰にも聞こえぬよう何か呟いた後、瞼を閉じ押し黙った。
叔父項梁の死は、確実に項羽を変えたようだ。
そして項羽の沈黙に伝染したのか、劉邦の退場した後の軍議は静かに滞りなく進んでいく。
そんな議場において一人、精力的に発言する者がいる。
趙の救援軍を率いることとなった上将軍、宋義だ。
宋義は、項羽を始め鯨布など精鋭五万を擁すこの軍を卿子冠軍と号し、その名が趙まで届くよう広く喧伝することを講じる。
仰々しい名を用いて演出し、事前に策を巡らせ戦いを有利に進ませようとするところが宋義らしい。
もしかしたら秦軍の目をこちらに向かせて劉邦の進攻を助ける狙いもあるのかもしれない。一つの策で多数の成果を狙う。やはり宋義は狡猾な策謀家だ。
早朝から招集された軍議は前半は劉邦、後半は宋義を中心として進み、残す詳細な編成が語られる中、俺は末将として救援軍に編成された范増に付き従い、趙へ赴くことになった。
また戦地へ。
予想していたとはいえ、一際大きく心臓の鼓動がドクンと脈打ち、逆に頭からは血の気が下りてくるのを感じる。
軍議を終えた俺は浮足立つ足取りで自室へ戻り、寝床へ腰掛けた。
幾度かの戦いの情景を思い出す。
その記憶を振り払うように両手で頬を張り、震える膝を押さえつけて立ち上がる。
遠征の準備、しなきゃな。
部屋を出た俺は、早足で范増の元へと向かった。