149話
「広殿! なぜここに!?」
駆け寄った田広の肩を掴み、笑顔を交わす。
もう視線は同じくらいだ。
狄の田家は皆、背が高い。
田広の父、田栄も田儋、田横が隣にいたので高くは見えないが、すらりと伸びた背はこの時代の平均を超えている。
俺の身長なんて田広にもそのうち抜かれるだろうな。
身だけでなく心も成長を続けているであろう田広は、俺との再会を喜びながら、
「宋襄殿の入斉の確認や、楚の今後の動向を伺いに使者として参りました」
田広は笑みを収め、斉の現状を語る。
俺が旅立った後、令尹の宋義が使者となり、長子宋襄を斉に送って楚王との関係を深めたいと訪れた。
俺の文で令尹の申し出を事前に知らされていた斉の中枢は、その真意を測るべく宋義を迎えた。
「受け入れて頂けるならば、斉の言葉を直接楚王ヘ届けることもできましょう」
宋義の口から語られる、暗に田安達の引き渡しについても楚王ヘ働きかけてもよいと仄めかす申し出。
それは楚王への別方向からのパイプとなり、現在最も勢いのある項梁へ、楚国内から牽制できることにもなる。
そして楚への援軍を進言する田横にも強く推され、田栄は宋義の提案を受け入れることにした。
「父は一度軍を出すことを退けた手前、どこかで口実を探していたのかもしれません」
田広は父譲りの端正な顔に苦笑を浮かべる。
しかし田横が臨淄を出立し、河水沿いを兵を募りながら定陶ヘ向かう最中、項梁が亡くなるという事件が起こり楚軍は定陶から退却。
兵力差のある章邯の秦軍に単独であたることはできない田横は帰還を余儀なくされた。
田広は状況の一変したこの事態に楚がどう動くのか、そして宋義は変わらず宋襄を斉ヘ送る予定なのかを確かめるために楚ヘ赴いたということだ。
「皆は元気ですか」
蒙琳、田横、田栄、蒙恬。皆の顔が浮かぶ。
「はい、皆忙しくしておりますが変わらずです」
まだ数ヶ月しか経っていない斉をたまらなく懐かしく思う。
「しかし広殿が使者とは驚きました。使者ならば宋義と親交のある高陵君殿かと」
俺の何気ない一言は、田広の顔に暗い影を落とした。
「……私は暫く王の下から離れたほうがよいと、父から言われまして」
田巿から? なんでだ?
田巿と田広は幼い時から兄弟のように過ごしてたんだろう?
若い斉王田巿の最大の理解者として、近くで補佐できるのは田広だと思うが。
田広は言おうか言うまいか、少し躊躇ったが諦念にも似た様子で口を開いた。
「王は常に傍らに置こうとし、どんな些細な事案でも私に問い、私の答えを王の答えとします。それでは為政者として成長なさらないと」
気が強く尊大に見えた田巿は、王となって心根の弱さを露呈した。
その弱さを自覚し、自信が持てなくなってしまっているのだろう。
些事ですら田広に問うというのは、自分の意思が何処にあるのかすらわからない状態なのかもしれない。
時代が大きく揺れ動く中、田巿の成長をゆっくり待つ時間はない。
荒療治ではあるが田巿を独り立ちさせるため、田栄は田広を楚ヘ向かわせた。
「王は頑なに反対したのですが父が強く諫め、他の方も思うところがあったのか、父の言葉に異を唱える方もおらず……」
語る田広の言葉からも田栄の苦悩が垣間見える。
「私もこれを機に巿再従兄上には、王としての自信を持ってもらいたく思っています。多少強引でも昔のように私を引き連れていくような、そんな王に」
自身の存在が兄貴分を患わせたかという複雑な思いに揺れる田広の言葉。
だがそこには、田巿の成長を願う期待が込められている。
少年の頃は引っ込み思案だった田広を、自信溢れる田巿が引っ張っていくのが日常だったと聞いている。
咸陽への旅で後ろを着いてくるだけだった田広は大きく育った。
それは、田巿には衝撃だったのだろう。
しかし、田巿はまだまだ若い。
田広のように一つのきっかけで化けることだって十分にあり得る。
若いっていうのはそれだけで武器であり、希望である。
「斉王のことならば広殿、貴方が一番ご存知でしょう。その広殿がそう願い、信じているならばきっと大丈夫。それに弟分の広殿にいつまでも頼りきりなのは我慢ならんでしょう」
田巿の負けん気に期待して田広を元気づける。
田広は俺の言葉に憂いを振り払うように笑みをつくり、大きく頷いた。
「はい! 今度は互いの背中に隠れるのではなく、背中を支えあえる存在になりたいと願っております」
「さて、広殿が宋義殿に面会する前に伝えなければならないことが多くあります。俺の部屋で情報交換しましょう」
俺も笑顔で頷き返すと、二人で歩き出した。
◇◇◇
「では宋義殿が武信君に変わり、軍を率いることに」
「はい、趙への援軍を編成しているところです。しかし楚王は別働隊を率いる将を項羽殿にするか劉邦殿にするかで迷っているようです」
俺は項梁が亡くなってからの楚の動きを田広に伝える。
「援軍に加えて急襲の軍ですか。武信君が亡くなり楚の意気が消沈するかと危惧しておりましたが、その勢いは衰えずといったところですか」
田広は冷静に考察するが、どこか羨むような表情だ。
「そうですね。先導者を失ったとはいえ兵力は大して失わず、楚王も健在。直後は失意に暮れておりましたが、落ち着いた今はあの事故死を章邯の手の者に依ると疑い、その仇討ちと戦意を漲らせている者も多くいます」
「楚兵の強さは秦への遺恨。また一つ戦う理由を積んだようですね。我が軍は……言い方が悪いですが、怨みが弱いのかもしれません」
自軍と楚軍を比較して、形の良い眉を歪ませた。
「もちろん怨みだけが人を動かす訳ではないでしょう。斉には斉の戦い方があるとはわかっておりますが、楚兵の精強さを目の当たりにするとどうしても比べてしまいます」
秦との戦績をみれば、斉国内の邑を各々解放してはいるものの、主戦では魏への援軍を出すも章邯に急襲され前王田儋を失い、楚の力を借りて漸く追い払った。
あの敗戦が祟り、楚のように時勢に乗れずにいる。
田広の焦りはよく分かる。
しかし秦の章邯のように大勝負を押し切り、実戦の中でふるいに掛けて残った者を強兵にと育てるような数に任せた戦術は採れない。
「蒙恬殿も仰っていましたが、兵は自覚と自信で大きく変わります。しかし兵力の整わぬ今、博打を打つ訳にはいきません。横殿や蒙恬殿の下、地道に鍛え上げる道が結局は一番の近道でしょう」
俺は臨淄在中時、蒙恬がよく言っていた言葉を田広に投げかける。
訓練を重ねて兵としての自覚を持たせ、小さくとも勝ちを重ねて軍としての自信を芽生えさせる。
楚兵も元は項梁が会稽郡で地道に集めた集団だった。地方での戦勝で人を集め、徐々に規模を拡げて満を持して江水を渡ったのだ。
「わかってはおるのですが……。っと、申し訳ございません。この場で語っても詮無きことでしたね」
そう言って深く息を吐き、気持ちを落ち着けようとするこの美麗な青年も机を並べて軍学を学んだのだ。
頭では理解していても離れぬこの焦燥の心は、田広だけでなく斉の者皆が感じていることかもしれない。
「意外と勝ち続ける者は一度の敗けで大きく崩れるもの。反して地力をつけた者は倒れる間際でも踏ん張れます」
深く考えずに吐いた言葉だが田広は大きく頷き、叔父譲りの人の安らぐ笑顔をつくった。