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146話

「項羽と劉邦」


 俺は思わず口に出た二人の名を慌てて呑みこむ。


 幸い、誰にも聞かれなかったようでこちらに視線を向ける者はいない。

 というよりも立ち上がった二人に惹き寄せられるように諸将はただ、その姿を見上げていた。


 驚愕、憧憬、妬み。

 様々な眼差しが向けられた二人のうち、先ずは項羽が昂然(こうぜん)と楚王に語り始めた。


「武信君の死が暗殺であれ事故であれ、仇は秦軍。趙へ向かった章邯の首を墓前に捧げたくはあるが、叔父の遺志は秦の征伐であり楚の興隆。秦の将軍の首一つでは不足。秦兵の万の首、そして皇帝の首を捧げてこそ武信君の無念を晴らせましょう」


 仇を討つことはこの時代、美徳とされている。

 しかし項羽の『万の首』という言葉は、楚王の眉を僅かに顰めさせた。


 その様子を見ていた劉邦が、飄々とした態度で続く。


「今回の出兵の主たる目的は趙の救援。関中進攻とは勇ましく聞こえるが、要は陽動の軍。楚軍一の勇将項羽殿と共にできればこれほど心強いものはありませぬ。しかし趙を攻める秦兵の数は(おびただ)しく、それを率いる将、章邯は(さか)しく手強い相手。項羽殿が居らねば梃子摺てこずりましょう」


 劉邦は項羽に向かって笑みをつくる。

 項羽は劉邦の賛辞に好意を示して軽く頷いたが、関中行きへの意思は曲げないようで再び無言で楚王を見据えた。


 笑みを苦笑に変えた劉邦が言葉を続ける。


「咸陽までは城も砦も多いが、陽動にそこまで兵も割けますまい。なに、この劉邦は寡兵(かへい)も攻城も慣れたもの。まぁ咸陽まで辿り着くとまでは大口を叩けませぬが、我が手勢を以て盛大に掻き回しましょう。カカカッ」


 劉邦の軽口と笑い声に諸将が纏っていた空気が軽くなり、楚王の先程の緊張も若干緩んだように見える。


 旗揚げから少ない兵力で勝てずとも敗けない戦を繰り返してきた劉邦は、武信君の配下になると攻城の巧さを見せ、今やその名は楚軍でも項羽の次に挙がる。


 この陽動に適任と思わせるには十分の実績がある。

 しかも自前の兵のみでそれを行えるという。


 劉邦のその独得の魅力に議場が呑まれたかに思えたが、項羽も譲らず豪気な戦略を説く。


「私と劉邦殿が共に行くならば、(なら)した道を行くが如き。関中の城塞は灰燼に帰するだろう。諸将が趙で秦軍を釘付けにしている間に咸陽を落とし、その後北上すれば鉅野沢(きょやたく)での挟撃を再現できよう」


 項羽は亢父(こうほ)から東阿に籠る斉を救援時、東阿の秦軍を降すや否や返す刀で武信君を狙った章邯を背後から急襲。章邯に初の大敗を味わわせた。


 劉邦の人たらしの魅力に対し、荒唐無稽な計であっても『項羽ならば』と思わせる強烈な武という魅力がある。


「ううむ……」


 楚王が低く唸る。

 項羽か劉邦、どちらか一人を西征させるべきか、それとも二人で行かせるべきか。

 表情から迷いが漏れ出る。



 その押し黙る王の愁眉を開いたのは、宋義の言葉だった。


「王よ、評議が長く続きお疲れでございましょう。またこのような重要な任、おいそれと命ずることも難しかろうと存じます。日を改めてはいかがでございましょうか」


 確かに各位への任命や趙への救援、王の関中侵攻の宣言と議題が多くこの衆議は長引いている。

 諸将にも精神的な疲弊が見てとれる。


「ふぅむ、宋義の言ももっともではあるが……」


 王は纏っていた重い気を吹き払うように、深く息を吐き出した。

 人選の先送りの提案にやや気が緩んだようだが人選に時を掛けている場合ではないと、王を始め皆理解している。


「もちろん日を掛ければ掛けるほど状況が不利になることは承知しております。しからば王には明朝の勅言を請いとうございます」


 楚王は顎鬚を撫でつけ考え込む。


 そして幾ばくかの後、思案に耽る視線を宋義に止め、頷いた。


「上将軍の献言を受け、西征の人選は明日の議で表す。他もそれに伴う事案が多い故、本日の議はここで(りょう)とし明朝また参集するよう」


 楚王はそう言うと、座を立ち議場を後にした。

 議場を出ていった楚王に続いて、幾人かが静かにその場を離れていく。


 ◇◇◇


 楚王の居なくなった議場は先程までの沈黙を破り、諸将のざわめきが混ざりあう。

 そんな中、渦中の二人に人が集っている。


 劉邦の側では司徒(しと)となった呂臣(りょしん)や、文官武官かまわず幾人かが西征に名乗り出た無謀を諫め、考え直すよう諭している。


 それは楚軍の中でも慕う者が多いことを示しており、以前の(はい)を奪おうとしていた無頼を気取った山賊崩れではない。

 劉邦という男の不思議な魅力に多くの者が気づき始めたようだ。



 一方の項羽の側にも多くの人が集まっている。

 劉邦の文武混合な様相とは異なり、武一色。


 あの若い将軍、鍾離眜(しょうりばつ)といったかな。彼を始め、その絶大な武に憧れる者達が項羽を囲む。

 こちらは止めるというよりは、項羽の武を信じて付き従う者。そして先程、王へ進言した大戦略が実現できるのか詳しく聞きたい者が集まっている感じだ。


「まだ項羽将軍が行くとは決まっておらぬ。王命が下った後、仔細お話いたす」


 項羽は応えず、傍らに立つ范増が彼を囲む諸将へ語っている。

 それを無言で見守っている項羽。


 いつもこんな時、自信を漲らせて大言を吐きそうなもんだが……。


 項梁が亡くなったことが、項羽に何か変化をもたらしたのだろうか。

 静かに、しかし常以上の鋭さを纏った雰囲気に、諸将も深くは聞けないようだ。



 二つの集団を横目に、俺も議場を退出した。

 項梁の死の衝撃で忘れかけていたが、俺には仕事がある。


 楚王に匿われた田安達をなんとかしなければならない。

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