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145話

 関中(かんちゅう)という地名の関とは、函谷関(かんこくかん)を指す。

 この一帯の盆地は、函谷関を始めとする幾数もの(せき)に護られ、古代周王朝も首都を構えた肥沃な地である。


 楚王の言う『関の中』とは秦の首都咸陽(かんよう)のこと。

 咸陽に入る、つまり秦の首都を落とした者を関中の王にすると楚王は約束した。


 王となれば、楚王と同列。その命令に従わねばならぬ立場ではなくなる。


 実際陳勝、呉広の乱の叛乱の折、陳勝の命を受けて趙を攻めた武臣(ぶしん)は張耳、陳余と図って趙王を名乗って陳勝に認めさせた。

 力さえあれば臣下の鎖を断ち切り、玉座に座って独自の道を拓けるということを証明したのである。


 関中は山と関に囲まれ、人が集まり、広大な農地の広がる中華の中心。

 この地の王となれば、天下の主催者への最短距離。


 にわかにざわめく諸将であったが、しかしそれは野心を刺激されたものではなく先走った楚王の宣言に戸惑う声であった。


 関中攻略よりも先ず、趙からの救援要請に応えねばならぬのである。


 ◇◇◇


 定陶周辺を抑えた章邯は、腰を落ち着けることなく北ヘ向かった。

 秦の将王離(おうり)と合流し、趙を討伐するためである。


 趙王を担ぐ張耳、陳余は王離と一進一退の戦いを続けているが、章邯が向かっていることを知ると青ざめた。


「張さん、章邯が現れれば信都ではもたぬぞ」


「わかっておるっ」


 二人は焦りを隠せず、声高に布に描かれた地図を前に協議を重ねる。


「趙に入った章邯は邯鄲(かんたん)の民を移し、城郭を破壊したようだ」


「邯鄲に籠城できれば秦の大軍にも耐えられたやも知れぬが……。ここ信都ではそう長くはもつまい。張さんどうする」


「むぅ……ならばここから東の鉅鹿(きょろく)はどうだ。信都よりは籠城に向いていよう。陳さん、お主は北の恒山(こうざん)郡で向かい兵を募ってくれ。わしは王を補佐し、各国へ救援の使者を送ろう」


「……わかった」


 陳余は張耳の言葉に、僅かに疑念を抱いた。


 ――私と王と引き離しておきたいのか。


 だがいつ現れるともしれぬ章邯に対抗すべく今のうちに兵を集めておかねばならぬとする張耳の主張はもっともである、と胸の霧を打ち払い募兵へ向かった。


 陳余の向かった恒山郡は秦を恨むものが多く、その呼びかけに応じて多くの民が集まり、瞬く間に兵の数は数万に達した。


 兵を得た陳余は意気軒昂に鉅鹿城付近までやって来たが。


「これは……突破できぬ」


 自軍の五倍を超える秦軍が城を囲む様を目の当たりにし、城の北に陣を構え立ち止まった。


 ◇


 陳余が募兵に奔り、張耳が(えん)、楚、斉へ救援を請う使者を送って、趙王と信都から鉅鹿へ移ったのを知ると、秦の将王離は鉅鹿へと自軍の大半を進めた。


 そもそも王離率いる北方軍は、上郡(じょうぐん)に駐屯し異民族に対する防備の軍である。


 この反乱に対して全軍を回すわけにはいかず一部を率い、兵を徴収しながら鎮圧を試みていたが反秦の意識の高い趙一帯においては思うように兵も集まらず、強い抵抗を受け目立った戦果を挙げられずにいた。


 しかし李良(りりょう)を寝返らせ、趙王を名乗った武臣(ぶしん)を討たせるなど、大きく勝てぬが大きく敗けぬように己の器量の中で戦っていた。

その王離の元へ章邯の援軍が来るという朗報が届く。


 そして章邯からの使者の言葉を受けた王離は鉅鹿の城を囲み、大きく勝つための舞台を整えた。



「たまには楽させてもらおう。他の将にも功を挙げてもらわなきゃならんしな」


 怠慢な台詞と裏腹に鉅鹿の南に素早く陣取った章邯は、兵の(げき)(くわ)に持ち替えさせ、王離軍への補給のための甬道(ようどう)工事に取り掛かった。


 咸陽からの補給を十分に受けれず戦っていた王離に報いるべく、経験豊富な工兵と化した章邯軍の土木作業は凄まじく、その甬道は河水まで達し、水路陸路を経て豊富な兵と物資が王離の陣へと運び込まれた。


 水枯れしていた樹木に恵みの雨が降り注いだ如く、潤った王離の陣は趙王と張耳の籠る鉅鹿の城を激しく攻め立てる。




「陳さんはなにをしておる……!」


 鉅鹿の城内では張耳が、他国の援軍と、そして何より北に陣取った陳余の援けを待ち焦がれ、砕けんばかりに歯を軋ませていた。


 ◇◇◇


 楚王は趙の救援要請に応え軍を発すると言い、そしてそれと同時に関中を目指す者を求めた。


「戦国時代、趙が魏に攻められ、斉が救援した『桂陵の戦い』がある」


『桂陵の戦い』は、斉の孫嬪が救援を請われた趙都に向かわず、魏の首都大梁(たいりょう)を包囲することで魏軍を引き返させ桂陵で破り、趙を救った戦いである。


 この有名な戦いに基づいた戦略であると告げる。


「関中に向かえば敵は浮き足立とう。その隙に趙を救い、秦軍を討つ」


 楚王の戦略は理に叶った妙案らしく聞こえる。

 が、咸陽までの城と関の堅さ、兵数の差を考えれば過酷どころの話ではない。



 陳勝の反乱の折、呉広が滎陽(けいよう)を攻めた際、別働軍の兵を率いた周文は数十万をもってして難攻不落の函谷関を奪ったが、咸陽までは届かなかった。


 今の楚に数十万を率いて西へ向かう兵力はない。


 穏やかな王が意図しているかはわからぬが、要は関中へ侵攻する者は囮ということである。

 そして対価としてその勇士に王の地位を与えると。


「関中の玉座に座らんとする者は名乗り出よ」


 ――玉座に座る前に棺に寝ることになる。


 場が静まり、沈黙が支配しかけた時。



 二人の男が沈む空気を切り裂き、腰を上げた。


「我こそが」


 同じ言葉を同時に放った二人に将の目が集まった。



 立ち上がった二人を居並ぶ諸将が見上げるその光景は、まるで二人の英雄を崇めているような一枚の絵画にも見える。


「項羽と劉邦」


 その末席に座り、隣にも聞こえぬ程の声で呟いた男がいた。


 田中である。

甬道 (ようどう)

左右に土塀や石塀など垣根を建て、内部を隠し守る道。

元々は皇帝の車が通る道を意味していた。


桂陵の戦い (けいりょうのたたかい)

戦国時代、斉の孫嬪(そんぴん)が謀った計略。内容は本文参照。

後の魏晋南北朝時代の兵法書「兵法三十六計」に「囲魏救趙(いぎきゅうちょう)の計」として記される。

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