144話
剥き出しの殺意に足が竦み、身体が震える。
「双方黙らっしゃい!」
雷のような鋭い声が場の空気を切り裂いた。
声の主、范増の一喝は項羽と俺の時を止め、先程とは違う緊張感が辺りに漂う。
止まった時の中、范増は俺達に近づき厳しい目で巨躯の項羽を見上げる。
その視線を受けた項羽はビクリと震え、その身体は幾分小さくなったように感じる。
「項羽殿、この田中を斬ってなんとする。真にこの男が武信君を弑したとお思いか」
「それは……」
「この男がそのような真似をするはずもないことは貴方も理解しておろう。誰彼構わず当たり散らすなぞ、童の行」
范増は言葉を切り、不満を隠さぬ項羽の肩にそっと手を添えた。
先程とは怒鳴り声とは違う、深く染みる声で項羽に語りかける。
「武信君はあなたを将として育てたはず」
「……」
「真相は測れずとも、武信君の遺志は秦の打倒、楚の隆盛でありましょう。それは章邯を討つことが正道にして最短。そして章邯を討つことのできる最善最適な将は、貴方を置いて他に居らぬ。剣を振る相手は斉ではなく秦である。どうか違えなさるな」
これぞ説教という彼の言は、それを聞いていた人達の胸を打つ。
「……っ」
項羽はその言葉に熱い湯を呑み込んだように眉を顰め、やがて殺気を収めてゆっくりと剣から手を離した。
その様子にため息を吐き、次に范増はこちらを向く。
「田中!」
再び落ちた雷に、俺の背筋は伸びあがった。
嵐が一歩二歩と迫りくる。
「はっ」
「先程の弁、命を賭ける言葉としては軽すぎるであろう」
「……はい」
全くもってその通りだ。
感情的になった相手に同じく感情的に言葉を放っては、ぶつかり合うだけだ。
特に項羽は若く、激しい。
迂闊な言葉を投げかければ、剣が降ってくるだろう。
今さら言うことでもないが、と范増は語る。
「言葉の重さは弁士自身の軽重で決まる。正しい言が常に正しい結果をもたらす訳ではない」
あぁ……そうだな。
俺の反論を范増が言っていたならば、項羽はここまで逆上しなかっただろう。
范増のような深い重みが俺にはない。
自分の存在の軽さに唇を噛む。
そんな俺を見た范増はふん、と鼻を鳴らす。
「田中、確かにお主はまだ若く、軽い。しかしお主の弁は元々、理路整然と反論を抑え込むような類のものではないであろう」
そう言われてはっとして、噛んだ唇を離す。
そうなのかもしれない。俺はどこを目指していたんだろう。
どんな風に人に語りかけていたのだろう。
人の先にある歴史ばかりを観て、その人自身を観ていたのだろうか?
特に楚軍に来てから。
「人の感情を読み解き、寄り添う。そこに己の想いを乗せ、或いは混ぜ込み、訴える。それが弁士田中の姿。焦って己を履き違えるな」
「……はっ」
上手く言葉が出ず、俺は両手を組んで高く上げ深く頭を下げた。
また、ふんと鼻を鳴らす音が聞こえた。
そもそもこの口だけで歴史を変えようとしているんだ。
上手くいくことの方が少なくて当然だ。
でも、まだここでやらなきゃいけないことはある。
何度失敗しようと、もがかなきゃな。
◇◇◇
楚王は武信君の死を最も哀しんだ一人であった。
武信君、項梁の訃報を知った楚王は涙を落としながら、意を改めた。
尊い血を求めただけで傀儡を望んでいる、と側にいる者は眉を顰めていたが表立って不遜な態度を取られることはなく、敬意を持って接せられた。
どういった形であれ自分という存在は武信君に求められ、掬い上げられた。
奴隷のように羊を追い、枯れて死ぬだけの老人に玉座を用意してくれた。
自己の力では到底叶わぬものを、献じてくれたのだ。
精神的立場ではあちらが上、こちら下位であるのは当然のこと。
それを表に出さぬだけでも武信君に信を置く価値があった。
優れた者が自在に動けるよう、取り計らうのも王の役目である。
そう腹を決め、対秦については万事、武信君に任せていたのだ。
――恩に報い、武信君の遺志は私が継がねばならぬ。
――ここからは王が。いや、ここからが真に楚王としての始まりである。
楚王は報恩と自らが担うこれからの政を想い、老骨に精気を漲らせ短く震えた。
まず臣下の声に耳を傾ければ、定陶からの速やかな撤退は宋義の指揮に因るものだという。
思えば以前から宋義は、武信君の驕りからくる危機を予言し、献言してきていた。
――儀典や外交の才だけでなく、軍事においても洞察力、予見力がある。軍を任せるならば宋義か。
武信君の死によって、士気の失った軍の刷新を図るため楚王は彭城に集った諸将の前で新たに叙任を行った。
宋義を上将軍に任じ、呂臣を司徒とし、その父呂青を令尹とした。
呂臣は陳勝の興した張楚の臣であったが陳勝が秦から敗走する際、御者荘賈が陳勝を殺して秦に降伏すると、呂臣は残党を纏めて仇敵荘賈を討ち、秦を攻めて陳の地を取り戻した。
やがて秦に攻められ逃亡するが、黥布と合流して再び兵を集めまた陳を取り戻した不屈の人である。
また武信君の下でめざましい活躍を見せる劉邦を碭郡の長として武安侯に封じた。
そして項羽へは上将軍の次席である次将とし、魯公の爵名を与え、長安侯に封じた。
楚王は武信君の甥であり、常勝不敗の項羽を軍の頂点に、と考えなかったわけではない。
しかし、楚王の耳に届く項羽の評価は跡を継ぐには荒く、残酷だという。
実際に襄城で邑民全てを坑殺したことを聞き、その残忍さに眉を顰めたのは遠い過去ではない。
――まだ全軍を率いるには、年季が足らぬであろう。
楚王は王なれどその根幹は羊飼いの穏便者であり、ここでは宋義を元帥とする無難な選択肢を選ぶ。
これに対し諸将、特に項羽には思うところがあったであろうが上奏することなく黙して頭を垂れる。
上将軍となった宋義は先頭に立つ将ではなく、後ろで構えて指揮を取る部類の将であろう。
前線の将はそれぞれの判断で動かねばならぬ時が多々ある。
後方から余計な口出しさえしなければよい。
諸将の想いは発せられることはなく、その場の空気だけが淀む。
戦を知らぬ楚王はその雰囲気を、諸将は未だ武信君の死を引きずり意気が沈んでいると解し、彼らを鼓舞するため思いもよらぬことを宣言した。
「最初に関中に入った者を王とする」
運命の言葉が発せられた。