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142話

前話で叔父を殺されたとの記述を訂正いたしました。

 宋義の命令は城へ千余りの兵を残し、後の者は速やかに彭城まで駆けるというものだった。


「少数で城を守らせ追撃を防ぎ、時を稼ぐつもりですな。妥当な戦略です」


 撤退の準備のため俺は部屋に戻り、衛士さんの話を聞きながら少ない荷をまとめる。



「城に守るその少数は……」


 俺は手を止め、わかりきったことだが聞いてしまう。


「決死ですな」


 予想通りの答えに、言葉が出ない。


「大を生かすためには必須。最小限の犠牲です」


 衛士さんは冷静な口調だが、どこか満足げに応える。


「…………」


 これが戦。

 これが軍略。


 わかっている。

 俺も古代中国に来て何年も経っているし、いくつもの戦闘に参加した。


 命の軽重を否応なく理解させられた。


 俺だって田横や蒙琳さん、近しい人達を助けるためなら他の人を犠牲にするかもしれない。いや、確実にそんな人間になっているだろう。


 この胸のしこりは自分勝手な偽善だとわかっている。



「私が指揮でもこの策を取ります」


 衛士さんの言葉が聞こえるが、今は戦談議がしたい訳じゃない。



「武信君の件で何か知っていることはありませんか」


 俺は誰にも向けれぬ憤りと自己嫌悪を誤魔化すため、話題を変えた。


 得意の戦略論から話題を逸らされ興が削がれたのか、衛士さんの表情の乏しい顔が一層冷淡に映る。


「私如き護衛にはさして情報は入って来ず、又聞きの範疇ですが」


 そう自虐し、彼は淡々と語り始めた。


「武信君は夜、一人で城壁に登ることが度々あったようです。昨夜は夜半から雨が降り始め、その雨に足を滑らせたか、という話ですが」


 普通に考えたらそうなんだろうが、そのまま信じる者はいないだろう。


「章邯の手によるものと考えた方が、まだ自然ですな」


 秦軍が迫る中で、あまりにも不自然な転落死。誰もが暗殺を疑う。


 項梁は自身を楚人だと誇りを持っていた。

 史実では章邯と戦って、敗け、亡くなった。


 それが、城壁から落ちて転落死なんて。

 落ちている僅かな合間に、何を想ったのだろうか。


 死んでも死にきれない。

 そんな想いだったのだろうか。


「しかしこの凶事が章邯によるものであろうとなかろうと秦軍がこちらへ向かっているのは事実。戦えぬなら速やかに退いた方がよい」


 衛士さんの他人事のような口調が、やけに心を苛つかせる。


「わかってますよ」


 俺は、衛士さんを強い目で見た。



 項梁の死。


 それを避けるためにここへ来たのに。


 無意味なことどころか余計なことをしたのか。

 うろ覚えの記憶に翻弄され、流れに逆らえず、歴史に嘲笑われている。


 頭の中に疑念や焦り、後悔が荒れる河のように渦巻く。




 衛士さんは、そんな俺を冷たく見詰める。

 会話の途切れた部屋を出ようと彼は背を向けたが、何かを思い出したかのように俺に向き直った。



「計らずも田中殿の言われていたように、主が替わることになりそうです。これで我が道が開けるかもしれません。御礼申し上げる」


 俺は……。


「……俺は何もしていませんし、そういったつもりで言ったのでは」


 衛士さんの言葉とその不気味な笑顔に、背筋が凍った。



 ◇◇◇



「どうも真に混乱しているようだ。……たとえ罠でも行くしかないがな」


 定陶の城を観た章邯は、その守兵の少なさに不信感を覚えながらもそう判断し、城攻めを命じた。




 章邯の予想通り罠らしきものはなく、呆気なく落ちた定陶の城。


 この抵抗の無さの真相を探る章邯は捕えた楚兵に尋問する。


「ここで何が起きた」


 縛られ跪く楚兵は、答えの代わりに(つばき)を吐き飛ばした。


 しかしそれは、質素だが質の良い鎧に身を包んだ章邯までは届かず、地面を濡らしただけであった。


 口は割らぬという強い意思を見せつけられた章邯は溜め息を吐き、手を振って楚兵を下がらせるとまた別の楚兵を引き立てる。


 口の固い楚兵の唾が土に幾つかの染みを作ったが、何人目かも分からなくなった頃、漸く命を惜しむ兵が現れ、事の真相を知れた。


「項梁が死んだ?」


 城壁から落ちて物言わぬ骸となった。

 そしてそれは章邯の手による暗殺ではないかという噂だと、震える楚兵は下卑た笑みを浮かべて話した。


 心当たりのない章邯は内心呆気に取られたが、それを顔に出さず楚兵を見詰めた。


「ひっ、私が言った訳ではございません! う、噂が。そういう噂がっ……」


 目下最大の敵であった項梁が労せずしていなくなったことは喜ぶべきことである。

 しかし、肩をすかされたような攻城戦と自身の思わぬ噂に後味の悪さを覚えた。



「約束通り命は取らん。何処へなりとも行け」


 怯える楚兵に章邯は言い放った。

 言い放った後、自身の声が思いの外怒気を含んだものだったことに内心驚いた。


 一つ咳払いをして、口を割った楚兵を下がらせると章邯は周囲の配下に命じた。


「退いた楚軍に追撃をかける。深くは追わんでよい」


 既に退いた本隊を今から追っても、あまり成果は得られぬだろう。

 無理のない程度に追撃を指示しながら章邯は、別のことを考えていた。



 暗殺という方法も思いつかなかった訳ではない。


 だが権謀術数の渦巻く咸陽の宮中を思い浮かべ、同じ穴の(むじな)となることに強い忌避感を覚え、無意識にその選択肢を除いていたように思う。


 ――外から見れば私も同類と見られているだろうがな。いや、宦官にけしかけられて奔る狗畜生(いぬちくしょう)か。


 章邯は顎鬚を掻き、今の境遇を嘲笑(わら)う。

 しかしその目には強い意思が宿っていた。


 ――しかし狗にも矜持があるのだ。


 武人として、将として。己の器を量り続けている。



 そのために新たな敵を求める章邯は、雲の広がる北西の空を睨んだ。


「次は(ちよう)か」

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