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141話

 増水した河は、容易く人を呑み込む。


 濮陽を出た章邯の軍は、済水に幾人かの生贄を捧げながらこの河を渡った。

 彼等は舟から落ちた者を探すことはせず、足を止めることはない。


 章邯もただ、(うね)る水流と雨の波紋で飾られた川面を睨み、言葉なく進む。


 その後、隠れながら定陶へ近付く章邯軍の元へ『定陶の様子がおかしい』という報が間諜によってもたらされた。



 ――すでに我が軍の居場所を突き止められたか?


 先の敗戦のためか不穏な思考が浮かぶ章邯だが、周りの兵と自分自身に虚勢を張るため(おど)けてみせた。


「俺はどうも楚軍とは相性が悪いようだな。万全で待ち構えておるなら、一旦退いて趙の友軍の寝床を借りることとしようか」


 そう苦笑いした章邯はさらに間諜を放ち、報告を待つことにした。


 隠れながらの鈍い行軍でも定陶まであと数日の距離まで来ている。

 ここで引き返すことになれば、なんのために危険な渡河を行ったのか。


 章邯は笑みを作った口の奥で歯を軋しませた。




 翌日、戻ってきた弩好きの間諜が報告する。


「我らの接近が露見した訳ではない様子。何やら大事があったようで全体が浮足立っております」


「……よし」


 この報に章邯はすぐさま軍を動かす。


 ――事情は分からぬが、今が好機。迷う時ではない。


「堅城であっても、守る者が迷っておるなら壁は脆いぞ!」


 この機を逃しては敗けを雪げぬと、行軍を速めた。



 ◇◇◇



 厚い雲に覆われた空から降る雨は一向に止まない。

 そろそろ日の落ちる時刻だろう。薄暗い景色が一層暗くなっていく。


 そんな中、楚兵は規律正しく足並みをそろえ、無駄口を叩かず走っている。


 以前同行した、東亜の援軍の時のような気力溢れる行軍ではない。


 皆、嘆きや哀しみ、ぶつけようのない憤りが溢れてしまうのを堪えるため、歯を食いしばり、口を固く結んでいる。


 俺はそんな楚兵に囲まれ、定陶から彭城へ向かう道を駆けている。




 にわかには信じられない凶報を聞いたのは、その日の朝だった。




 昨日の夜降り出した雨は止まず、今日もまた雨の朝。


「田中殿、起きておいでか」


 起きて間もない俺は、まだ上手く働かない頭でダラダラ着替えていると、衛士さんから声が掛かった。


 今日は朝から無表情の衛士さんが護衛の担当だ。


「はぁなにか」


 入室した衛士さんは、いつも通りの抑揚のない口調で語る。



「武信君が城壁から転落し、遺体で見付かりました」



 着物の襟首を直す俺の手が止まった。

 振り返り衛士さんを見るが、事務的な報告をする時と同じ、いつもの冷たい無表情のままだ。


「……えっ?」


「武信君が亡くなりました」



 思わず部屋を飛び出した俺は、辺りを見回す。


 異様な雰囲気の中、誰もが慌ただしく動いている様子が目に映る。


「主だった臣へ登城の令が下っており……」


 後ろから聞こえる衛士さんの声を無視して俺は駆け出した。


 転落? 事故死? なんだよそれ、無理矢理過ぎるだろ……。

 無理なのか? 変えられないのか……?


 幾多の雨音と足音が、俺の心を騒がしく掻き立てる。


 どうあっても歴史通りに進まないといけないのかよっ!


 ◇◇◇


 范増を探して城内を走る。


「范増殿!」


 城内の自室から足早に出てくる范増の元へ駆け寄る。

 いつも以上に眉間に深く皺を刻んだ范増は、俺を一瞥するが足を止めず長い廊下を歩き出した。


 俺は会議の間へ急ぐ彼の後ろ姿に説明を求めた。


「武信君の件、事実なのですか?」


 周囲の様子から嘘か真かは理解できそうなものだが、未だ信じられない俺は尋ねる。


「事実も何も遺体で見付かっておる」


 聞かなくても分かる問いに歩を止めず応える范増。

 厳しい声色に憤りや苛立ちを感じる。



 なぜ? 何が起きた?


 そう尋ねそうになるのを抑える。彼も全容を把握しきれていないのだろう。


 范増は一度足を止め、振り返った。

 鋭い視線が俺を射抜く。


「原因はどうあれ、我らは頭首を失った」


 戸惑いや怒り、哀しみ。

 隠しきれない感情が、范増の目元の皺を赤く染めている。


「秦軍の渡河の跡が見付かった。章邯が来る」


 その厳しい目と言葉に喉の奥が詰まる。


 最悪のタイミングだ。……いや、そういうことなのか?


 向き直り、また歩き始めた范増は敢えてその可能性には触れず、続ける。


「誰を元帥に据えるか。迎え撃つか退くか。西の友軍のこと。議することは山積みだ」


 そして付いていこうとする俺に、視線だけこちらに向けると釘を刺した。


「お主は議には加われぬ。待っておれ」


 その言葉に、俺の足は地に縫いつけられたように止まった。



 俺は楚で役職を貰う予定だったが、まだ貰っていない客分だ。

 この大事に参加できるような身分ではない。


 俺は遠ざかる范増の背中を見送るしかなかった。


 ◇◇◇


 会議は早急に開かれ、その結論も素早く城中へ伝達された。



 定陶からの撤退。



 軍の頭首で、実質的な楚の主柱である項梁を失った。

 堅城とはいえ今の楚軍は混乱の極みで戦うどころではなく、籠城は不利とみたようだ。


 この撤退戦を指揮するのは令尹(れいいん)の宋義。

 軍事にも暗くなく、序列からして順当な人選だろう。


 この場に項羽がいれば違う結論になっていただろうか。


 項羽がここへ居たならばこの有耶無耶の中、強引に指揮権を手にして迫りくる章邯すらも撃退できるかもしれない。


 そう思わせる強さが項羽にはある。


 しかし現実には項羽は遥か西、そして宋義がここに居る。

 未だ叔父の訃報も届いていないだろう。

 令尹といえば楚王に次ぐ地位だ。彭城に着くまでの間、仮に総指揮を摂ることに項梁派も異論は挟めないだろう。


 その後楚王が正式に元帥を任命することになるだろうが、そこで項羽がなるのだろうか。

 項梁の甥で軍内の評価は抜群に高いが、それでも項羽は数いる中の将軍の一人でしかない。


 叔父を喪った項羽の胸中。宋義の思惑。

 楚王はどう判断するのだろうか。

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