表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
150/169

140話

 雨が続く。


 戦乱にまみれた世を嘆く民に呼応して天が涙を流しているという者がいる。

 その者は天を仰ぎ、この争乱を震えて眺めているだけなのだろう。



 泣き喚くだけでは何も変わらぬ。


 雨は地に落ち、流れ集まり、河となり、巨岩を押し流す。

 民が雨粒の一つ一つとなり、秦という王朝を洗い流せという天の啓示だ。


 ――その奔流を操り、上手く泳ぐことができる者が次代の覇者となろう。



 悪天の(はざま)、久しぶりに雨の落ちぬ夜。

 しかし厚い雲に覆われた空に星は観えず、またすぐに降り出しそうだ。


 その雲の様子を城壁から見上げながら想う。


 そして雲から視線を落とした先には済水が。

 城の側を流れる河は水嵩を増し、先日までの雨を呑み込みながら荒々しく流れている。



 ――天は今、選別しているのだ。



 会稽(かいけい)から出て以降、軍は順調に増強し続けた。

 楚王を騙る痴れ者も排除し、真の楚王の末裔を王位に就けた。

 他国の再興への援助も行い、恩も売った。


 ――選ばれているのはこの項梁よ。



 反乱を鎮圧しかけていた秦の将、章邯も退けた。


 現在、濮陽から消えたという章邯。

 実際には暫く休息と補給を受けて仕切り直したいところであったろう。


 しかし戦も知らぬ咸陽の無能共は怯えて閉じこもっていると騒ぎ立て、章邯の首を斬り離そうとするだろう。


 章邯がそれを理解していない訳がない。早急に敗戦を(すす)がねばならぬ。


 行方が分からぬというが目的地はここ、定陶であろう。

 消息を立った日から考えれば、あと数日もすれば章邯は現れるだろう。



 堅牢な定陶で迎え撃っている間に、羽の軍が西から戻る。


 挟撃を受けるか、逃げ退くか。

 章邯の首を取るのは羽の剣であるか、咸陽の処刑人であるか。

 それだけの違いだ。



 轟々と音を立てる河の流れの先を見詰め、自身の先に想いを馳せる。


 咸陽にいる皇帝を倒すまで決して油断すべきではないが、次代の統治にも目を向けておかねばならぬ。


 范増にも目下に集中すべきと諫言されたが、私が未来を模索するのは楽観的な理由ではない。


 楚王と私の関係。

 正確には楚王とその周辺と私か。



 名も力も大きくなり過ぎた私がこのまま王に仕えるのは、楚を乗っ取るという()らぬ疑いをかけられる。


 やはり楚王から封地を頂き、どこかで独立するのが最善か。

 権威を持つ周とその塀障(へいしょう)となった西虢せいかくのような関係になるのが理想的であるが……。


「武信君」


 突然掛けられた声に、反射的に剣の柄に手をやり振り返る。


 篝火(かかりび)の先に人影が浮かぶ。

 いつの間にか降り出した小雨と、夜の闇が影の正体を隠している。


「誰だ」


 人影はゆっくりと近づき、炎に照らされた陰影の濃い姿を映した。



 浮かんできたのは精気の乏しい、表情のない顔。


 私は男に気付かれぬよう息を吐き出し、柄から手を外した。



「お主、なぜここに居る。誰も近づくなと申し付けたはずだ。田中の護衛はどうした」


 田中に付けたはずの護衛の男。

 矢継ぎ早に詰問する私に対して、男は応える。


「田中殿の護衛は非番でございます。章邯が近づきつつある最中、御一人での行動は危険です。既に間諜や暗殺者が忍び込んでいるやもしれませぬ」


 度々献策をしてきたが、取り入れることはなく、陰気で感情の読めぬ男だと覚えている。確か名は……。


「范増に言われて呼び戻しに来たか」


 男はその問いに応えず、(よう)のような顔に薄笑いを貼り付けた。



 その笑みに背筋が凍り、全身がぶるりと震えた。


 ――なんと不気味な笑みか。



「雨も落ち始めました。お戻りを」


「……うむ。身体が冷えてきたようだ」


 震えを雨に濡れたためと誤魔化し、男の脇を通り過ぎる。


 男は後ろに従い、歩き出したようだ。

 雨音が強くなってきた。


「武信君に問いとうございます」


 背中に問いが投げかけられるが、濡れた着物を重く感じて煩わしい。応えず、そのまま進む。


「才ある者が将となるためには」


「職務に務めよ。功を挙げよ。才あれば雑多の中でも光ろう」


 振り向かず応える。

 また己を売り込もうとしているのか。


「しかしその才は、従う者少なくば光らず。従う者多ければ多いほど輝きを増す才なのです。一度試してみては下さりませぬか」


 兵を率いさせよ、と言いたいのか。

 そういえば自己の評価の随分高い男であった。


「部下の多少で輝きが変わる才など才とは呼べぬ。多いほど善いのは誰も同じであろう。……兵は将の感情に沿い、将の才を映し出す」


 私は歩きながら告げる。

 そこで漸く、この自信過剰な男の名を思い出した。


 羽の軍は速く激しい。劉邦の軍は進退自在。

 この男の性質は冷静と言えなくもないが、無味乾燥で覇気がない。率いられた兵は将の気が読めず、戸惑うだけだろう。



「……やはり駄目だな。小心者の浅い器では戦の本質は理解できぬか。兵の感情をも支配してこそ将であろう」


「……今、なんと申した?」


 私は突然豹変した不躾な物言いに振り返っ、




 突然の浮遊感。

 そして見えたのは、私を城壁から見下ろす青白い顔と突き出された両腕。



 刹那のはずが、時が止まったかのように長く感じる。



 なぜだ? 

 私は天に選ばれたのでは?

 こんなところで愚劣に死ぬのか。

 なぜだ?



 奴の姿が天に吸い込まれて遠くなる。



「韓……!」



 その名を言い終わる前にグシャリという音が頭に響き、雨が止んだ。



 いや、身体の感覚が無くなっただけ。

 すぐに全てが、夜より暗い闇に染まった。



 ◇◇◇



「……やはり将たる品格や、事が露見する危険を考えるとこういった類は自ら行うものではないな」


 城壁から落ちたもの(・・)が動かぬのを、目を凝らして確認した男は濡れた肩を払い、呟く。


「次に軍を率いるのはアレの甥か、いや令尹か。願わくば次の主は、我が才を認める人物であって欲しいものだ」


 歩き始めた男、韓信(かんしん)は雨音に溶け込むようにその場を後にした。

塀障 (へいしょう)

へだてさえぎること。


周と西虢 (しゅうとせいかく)

殷を滅ぼし周王朝を興した武王が、父の文王の同母弟虢叔(かくしゅく)に封地を与えてた国が西虢である。

西虢は軍事力の弱まった周に代わり軍事行動を行ったり、外敵から周を守る障壁としての役割を受け持った。周王朝と諸国の中で特別な関係であり、歴代の虢公は周の朝廷でも要職を担った。


俑 (よう)

墓に埋葬する際に一緒に埋められた人形。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ