139話
「王へ復命を終えた宋義はまたこちらへ向かっているそうだ。この忙しい時にまたあの優雅で嫌味な自賛を聞かねばならんと思うと、背の瘤が疼くわ」
范増は背中に手を回し、苦い顔で溜め息を吐いた。最近小さなできものができたようで、それを気にしている。
しかし忙しいとは?
「なにかあったのですか」
とりあえず定陶の守りは固めたし、西征軍は順調。そして斉からの援軍。特に問題は無いように思えるが。
「濮陽の章邯が消えた」
消えた?
「強雨の中、遠巻きに監視していた我が軍を急襲し、その勢いのまま駆け去ったらしい」
まさか……。
頭から血の気が引いていく。
「……斉が援軍を出したことを知られたと思いますか」
最優先で斉を憂う言葉が出たことに、迂闊さと申し訳なさで少し後悔したが気になるものは気になる。
言ってしまったことは仕方がない。
范増は鼻を鳴らして、俺の質問に応えた。
「城に籠もっておった章邯が、それを知るにはちと早すぎるであろう」
その応えにホッと溜め息を吐きたい気持ちを抑える。
章邯軍はいまだに十万近くの兵数が揃っており、援軍を知って先ずは少ない兵力から各個撃破という方針で斉へ向かわれたら大変だ。
せっかく集めた田横の軍が、こちらへ合流する前に章邯に呑み込まれるような事態はないようだ。
俺の心中を察しているのであろう。范増は口を歪ませ、言葉を続ける。
「東へは向かわんだろうよ。孤立しに行くようなものだ。常道としては北へ退いて趙を攻めておる王離と合流だ。奇をてらうならば……」
范増の眉間の皺が一層深く刻まれた。
「ここ定陶への強襲」
……大胆な章邯のこと、ここへ強襲は十分考えられる。
しかし敗戦から一旦落ち着くために、仲間と合流するってのも捨てるような可能性ではない。
趙では張耳や陳余が信都を新たな首都とし、秦の王離相手に踏ん張っている。
戦況は一進一退といった感じで、ここへ章邯が現れれば戦局は一気に傾くだろう。
もし章邯が趙へ向かうのであれば項梁としては即時、援軍を送らねばならないはず。
「なんとしても章邯軍を捕捉せねばならんが」
言葉の途切れた范増は吹きさらしの窓から空を見上げる。
「天が章邯を隠している」
連日続く長雨が、章邯の姿を見付かりにくくしている。
「この雨の中での行軍ではさして距離を稼げません。それにここへ向かっているのなら済水を渡らねばなりません。大軍が渡河できる場所は限られておりましょう」
心を落ち着かせた俺は范増の背に声を掛ける。
「趙へ向かうのであれば趙王も張耳殿、陳余殿と共に踏ん張ってくれましょう。援軍を送る猶予はあるはず」
范増は振り向かず頷く。
「うむ、済水沿いに多くの間諜を放った。ここ定陶の守りの準備もできておる。信都へは我が軍であれば飛鳥のように辿り着けよう」
しかしその背中には、何か戸惑いのようなものを感じる。
「何か憂慮することが」
俺の問いに、范増はまた空を見上げる。
「最近の武信君の思量を占めるのは章邯に勝つ先の先、秦打倒よりも先。秦を討った後のことを占めているようでな」
それは項梁にしては気が早いような……。
「先を見据え、慎重に備えるのは善くも悪くも武信君の性情ではあるが、さすがに飛躍が過ぎると苦言を呈した」
これはアレか? 宋義や衛士さんが言っていたことか。
項梁が変わったというのはこういうところなのか。
范増の諫言すら聞かなくなっているのか?
「武信君は諫言を聞かぬほど狭量ではない。しかし度々深夜に寝所を出て独り城壁に立ち、暗い地平を眺めながら後の理想を思い描いておるようだ」
意外だな。剛胆にして冷静、そして現実主義なイメージだが。
「ああ見えて繊細な方だ。日中に今現在を采配、統率し、夜更けに栄えある未来を思い耽る。それで均衡を保っているのだろう」
考えてみれば現在、この中原で一番の期待と重責を背負っているもんな。
現実逃避……とは違うけど、独りになりたい時もあるだろうし、全て上手くいく未来を想像してストレス解消してるんだろうか。
しかし、うーん……もしかしてこれ、俺のせいか?
「あの……武信君は前線から退かれ緊張感を失っている、とか」
范増はふんっと鼻を鳴らして否定する。
「武信君がそんなことで腑抜ける訳なかろう。締める時は締め、抜く時は抜く。元帥として君主として必要な資質だ。戦となれば独り歩きも控えよう。お主が責を感じるものではない」
心配性の老骨のただの愚痴じゃ、そう言って范増は口を歪ませた。
まぁ、そりゃそうか。
戦闘の匂いを感じ取れば、項梁は意識を切り替えるだろう。
「どのみち章邯が何処へ向かったのか判明してからであろう。それが分かれば武信君も目前のことに集中なさるはず」
俺の相槌に、范増の眉間が緩む。
范増爺さんも愚痴を吐いて少しは気が晴れたかな。
「范増殿も気を抜ける時は抜いた方がよいのでは? 誰とは申しませんが貴方の顔を見ただけで苦い顔をする方や、逃げ出す方も居られますよ。たまには笑顔で接すれば小言を聞く相手も増えましょう」
あ、ヤベ、営業先の爺さん感覚で思わず軽口を叩いてしまっ……。
「ほう……わしに訓戒を垂れるとはな。さすがは縦横家田中殿ではないか……!」
その後、青筋を付けた范増に日々の態度から儀礼に関することまで説教をくらい、部屋を出るまでに小一時間掛かった。
◇◇◇
はぁ、まいった。
要らんことを口にしたな。
溜め息を吐きながら、自室へ戻る。その後ろに衛士さんが付いてくる。
「随分と話し込まれておりましたな」
珍しく衛士さんが話掛けてきた。
「嫌味ですか、聞いていたでしょう。大半が説教ですよ」
たまにからかって来るんだよな、この人。
真顔で。
爺さんの小言で疲れたから、今は会話も上手く返せんよ。
衛士さんに、疲れた笑顔を向けようと後ろを振り返る。
うおっ……。
「どうかしましたか?」
俺の驚いた様子に衛士さんが尋ねた。
「あ、いや……衛士さん、笑って……?」
なんと衛士さんの顔には笑みが浮かんでいた。
笑顔……だよな、その顔……。
「ん? ああ、失礼いたしました」
自分でも気付いていなかったのか、衛士さんは口角の上がった口を手で覆い、元の能面のような顔に戻す。
それを見た俺は前に向き直り、足早に自室を目指した。
言っちゃあ悪いが……。
衛士さんのさっきの笑顔、滅茶苦茶怖かった。
今までみたこともないような笑顔だ。
……だからいつも無表情なのか?
不安を覚えるような。
悪寒で背筋が震えるような。
そんな笑顔だった。