138話
無事、定陶へ辿り着き防備を固める楚軍。
その楚軍と共に定陶にやってきた俺は。
「項羽軍が西進していることを知らず、行き違いに東へ攻めたのが運の尽きでありましたな。っと、このような形でいかがか」
「ならば李由は諜報を怠るほど、焦っていたとも考えられますか? うん、そうですね。その仕訳した集計の数値を当てはめて……」
木簡に筆を走らせている額の広いおっさんと向き合っている。
「ふむ。李由が間抜けなだけか、それとも焦らざるを得ん理由があったのか。馬糧はどこへ記したらよいのかな?」
「ああ、では項目を増やしましょう。項目にするほどではないものは、まとめて雑収入、雑費などとすればよいでしょう」
「なるほど、こうして並べればどこで不足が出ていて、どこが余剰かが一目で解る」
なぜか劉邦軍の留守居役の蕭何と、複式簿記的な何かを作っていた。
定陶へ着いた後、客とはいえなんにもしないのも居心地悪いので范増に何かできることはないかと申し出た。
「お主、口以外は何ができる?」
外交を営業と置き換えるなら、それ以外で斉で貢献していたと言えるのは多分内務関係、特に経理かなぁ。
それを伝えると、
「ふむ。しかしお主にその全容は見せる訳にもいかんが……。おぉ、そういえば劉邦の内務担当者がいつも疲れた顔をしておるな。お主は劉邦と懇意なのであろう。劉軍であれば悪感情も少なかろう。何か助けになるなら助けてやれい」
という訳で蕭何を訪ねた。
この時代の算術は九章算術という数学書に依っていて、ちゃんと利息の計算やら比例、連立方程式も記されている。
もちろん蕭何もこれを修めていて、基本的な計算能力はたぶん俺より高い。俺、文系だし。
というか高すぎて周りが付いていけない結果、蕭何は劉邦軍の事務処理を一手に引き受けているようだった。
久々に会った蕭何は目の下の隈が以前よりも深く刻まれ、額もさらに広くなった気がする。
そんな蕭何に訪ねた理由を話し、斉では自作の書式を作って処理していたと溢すと、腕の骨が軋むほど掴まれた。藁をも摑む想いだったのだろう。
うっすらとした記憶を頼りに作った複式簿記を兵糧に応用したんだが、俺の拙い説明でこの概念を理解するんだから、この人凄い。
複式簿記ってずっと後の発明だろ? 確か大航海時代にうんたらかんたらって聞いたことがある。
「まぁ、後は実際に月毎に報告させて改善していくのがよいでしょう」
「報告書が増えますが、それ以上に無駄が無くせますな!」
落ち窪んだ蕭何の目がキラキラと眩しい。
いやキラキラというより、ギラギラしてる。
「田中殿、貴方は……」
蕭何は言葉を止め、困ったようにフッと笑顔を作って首を振った。
「いや止めておきましょう。貴方にもいるのですな、私があの男を信じているように」
俺も同じ笑顔で頷く。
「まぁそういうことです。蕭何殿ほど苦労はしてないと思いますがね」
俺の返しに蕭何は苦い顔をして広い額を手で覆う。
「そこは同じく苦労していると仰って欲しかった……」
項羽や劉邦達は順調に西征を進め、一時期再興した魏の首都臨済も落としたようだ。
そして、さらに西進続ける彼等の元に意外な報が入った。
三川郡の郡守で秦の丞相の長子李由が榮陽から東へ攻め進め、現在雍丘を攻めているらしい。
濮陽の章邯が西へ退却するのを援護するためと思われる。
蕭何と複式簿記もどきを書きながら話していたのはその話題だ。
榮陽は陳勝、呉広の乱の折りに、仮王呉広が大軍をもってしても落とせなかった難攻不落の城。
しかも雍丘は三川郡の東、碭郡の西端の県で李由にとっては管轄外である。
なぜ李由が堅城を離れ、郡を越えてまで章邯の手助けをしようとしたのかは不明だが、絶好の機である。
この報を聞いた時、項羽達は臨済のさらに西、巻まで至っていたが、
「手の届かぬ深い穴倉から兎が顔を出したぞ。この機を逃す手はない」
劉邦の進言に頷いた項羽は、馬首を返すと得意の急行軍で雍丘ヘ向かった。
まさか楚軍が西から来るとは思っていない李由軍は背中から槍を突き刺され、一瞬にして三万の兵が狩られた。
項羽の不敗は続く。
◇◇◇
名残惜しげな蕭何と別れ、外へ出るといつもの無表情な衛士さんが待っていた。
「交代いたしました」
俺の護衛は一人でしているわけではない。何人かで交代で付いてくれている。
一番愛想がないけど、話をしていて一番面白いのはこの衛士さんだな。
「令尹が盱眙へ戻ったようです」
宋義が斉への使者から戻って来たらしい。思ったより随分早かったな。
早々に断られたのか、それとも事が上手く運んで早かったのか。
援軍のこと、そして宋義の長子、宋襄の斉入りのこと。
斉がどう判断したのか、聞きに行かねばならんだろう。
項梁に直接、って訳にはいかんし、范増爺さんに聞くのがいいか。
「斉からの援軍、引き出したようだ。その数は約一万」
楚にとっても俺にとっても喜ばしいことだが、范増の表情は曖昧だ。
……田横、やってくれたんだな。
東阿で十万の兵のほとんどを失った斉にとっては、一万でもかなり無理した数だ。頑固な兄貴を説得してくれたんだな。
「率いるのは田横将軍。編成が整い次第、河水沿いに出て道中の小規模な城や邑を落とし、兵力の増強を図りながらこちらへ向かうそうだ」
今のところ、急ぎで駆けつける必要性はないからな。
田横も少しでも兵を増やしながら合流した方が良いと判断したのだろう。
そして范増は眉間の皺が一層深くし、言葉を続ける。
「そしてもう一つ。斉は宋義の長子を要職へ迎えるそうだ。上手いことやりおった」
……そうか。田栄は受け入れたか。
まぁ援軍を出すことを赦した時点で、この提案も受けることに決まったようなもんか。
あっちは諾でこっちは否ではまた揉めかねんからな。
楚の令尹の長子が斉にいることは悪いことばかりじゃない。
人質の意味合いもあるし、楚王が匿っているという田安達へ干渉できる可能性も大いにある。
斉王に擁立した田巿のため、田栄は奴らのことを特に気にしているからな。
楚にとっても悪いことではないが、項梁側からすれば複雑なところだろう。
長子宋譲を斉の要職へ送り込んだことで、宋義は国同士の関係に少なからず影響力を持ったことになる。
馬糧 (ばりょう)
馬の飼料。