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李斯 3

閑話「李斯」最終話です。

書籍3巻、コミカライズ1巻好評発売中です。よろしくお願いいたします。

「起きろ」


 冷たい水を掛けられ、意識が戻る。


「お主の長子、李由(りゆう)は楚を名乗る賊軍の西進を止められず、蹂躙され死んだ」


 趙高は李斯の濡れた髪を乱暴に掴み、顔を無理矢理上げると、もう一度丁寧に説明した。


「あぁ……」


 再び意識を手放しそうになる李斯の耳許で趙高が囁く。


「万策尽きたであろう。賊との交を認めれば楽に死なせてやる。お主の一族についても悪いようせぬ」


 趙高は項垂れ反応のない李斯の様子に、つまらなそうに頭を放し、獄を跡にした。




 李由という光明を失い、李斯は最後の願いと獄吏に頼む。


「書を……最後に……上書をさせてくれ……」


 もう一度だけ、二世皇帝の理性と良心ヘ訴えかけたかった。


 罪人とはいえ元丞相である。最後の願いとなれば獄吏も無碍にはできぬ。

 今さら書の一つで覆ることもあるまいと、筆を渡した。



 能筆家であった李斯の最後の書は震え、揺れ、乱れ、辛うじて読めるというようなものであった。


 しかしその内容は、先代を佐けて領土を広げ、文字や度量衡(どりょうこう)を統一し、宗廟そうびょうを整え、いかに秦という国を愛し、貢献してきたかということ。


 そして今、その功労者が虚実きょじつの自白を強要され、その生命が獄中にて打ち捨てられようとしている愁嘆しゅうたんに暮れるもので、読む者のあわれみと義気ぎきを誘う名書であった。


 二世皇帝もこの名文を読めばまなこを湿らせ、李斯を獄から解き放つであろう。



 そう思わせるほどの魂の書は、誰にも読まれなかった。



 いや、ただ一人。

 官吏から書を受け取った趙高以外は。



 李斯の上書は二世皇帝の手には渡らなかった。


 獄吏は深く考えず書を官吏に手渡し、託された官吏は当然のように趙高の下へ届けられた。



 その書をなんの感傷もなく流し読んだ趙高は、


「囚人が上書なぞできるわけなかろう」


 そう言うと李斯の未来のように暗い闇夜の中、篝火(かがりび)に投げ入れた。



 そして苛立たし気にその足で獄へ向かう。



「諦めの悪い男よ!」



 突如現れた趙高は獄吏から笞を奪い、振るい始めた。


「たかが宦官と! 不能者と見下し続けた! 私に! この私に! 笞を打たれている心地はどうだ! 宮中のむじなと蔑んでいた宦官に! 命を握られている気分はどうだ!」


 目を背けたくなるような恐ろしい笑みで笞を放つ趙高。


「汚い字で書かれたお前の書は私が火にべてやった!」


「あ、ああっ!」


「気分はどうだ……と聞いているのだ!」


 耳を覆いたくなる甲高く濁った狂声と悲鳴が獄に響く。




「趙高様、これ以上は罪人が死んでしまいます」


 居たたまれなくなった獄吏が止めに入る。


 どれほど笞を振るったのか、乱れた息を整えた趙高は、先程までとはまるで別人のように冷静な声で囁いた。


「お前がだくと一言認めれば、この苦痛も終わる」



 長子の死。

 届かぬ上書。

 笞打ちの苦悶。


 李斯の心は折れた。



「み……みとめる……。もう……殺してくれ……」


 李斯の降参の言葉を聞いた趙高は、耳まで裂けたかのように大きく口端を吊り上げた。


「聞いたか! とうとう言いおった! 認めおったぞ! この大逆人め! 腰斬ようざんに処してくれる! 三族余さず誅殺してやる!」


 李斯の顔をのぞき込み、人が変わったように喜色満面に小躍こおどりに回る趙高。


 深衣しんいの裾が黄色く滲んだが、ここ獄中は悪臭が充満しており、興奮している趙高自身も失禁したこと気付くことはなかった。



「親族は……助けると……」


 倒れ伏した李斯は目だけを趙高に向け、一族を悪いようにはしないと言ったはずだと訴えかけた。


「逆賊と取引などはせん。お前の得意であったろう? 駆け引きよ」


 狂気から冷めた嗄れた声が、獄に響いた。



 ◇◇◇



 冠も(きん)もなく、(まげ)も結わず、乱れた髪。

 襤褸(ぼろ)のような衣を纏った老人が、市中を見世物のように運ばれていく。


 その人物は恰幅の良さそうな老人であったが、縄で縛られ肩を落として(うつむ)く姿は、実際よりひと回りもふた回りも小さく見えた。


 一族なのか、少なくない人数がその後ろを同様に縛り上げられ、続く。

 中には降嫁した元皇女までおり、民衆の注目の的となっている。




 李斯が(うそ)の自白を口にしてからさして日も経たず、処刑の日が訪れた。


 李斯は抵抗することもなく、一族と共に刑場への道を連れられていく。

 咸陽の市中を一回りし、刑場(けいじょう)へ辿り着いた李斯は、同じく囚われた次子李執(りしつ)へポツリと呟いた。


「お前とは故郷でよく猟犬を連れて、兎狩りをしたな」


 とりとめもない思い出を語る。



 精も根も尽き果てた。


 身体は笞で打たれていない箇所はない。

 一目でそれが始皇帝に仕え、権勢を振るった李丞相だと判らぬほど、顔も腫れ上がり、血を滲ませている。


「もう、そんなこともできぬのだな」


 野心家で厳しい李斯が、最後に見せた家族への想いに李執は涙が溢れた。



 多くの咸陽の民が見物する中、李斯は最も残酷な腰斬に処された。

 その様を見た李執の慟哭(どうこく)が咸陽の街に響く。



 李執の泣き叫ぶ声を止めたのは、やはり処刑人の振り下ろした凶刃であった。

度量衡 (どりょうこう)

長さ、容積、重さの単位。


深衣 (しんい)

士大夫や官吏が日常的に登庁する際の常服。


腰斬 (ようざん)

重罪人に対して執行される処刑方法。長く苦しめるため、即死できないよう腰の部分で切断される。

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