表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
146/169

李斯 2

 門前に座る李斯が期待し、頭の中で思い描くのは、


「あの丞相が地に座してまで進言したいこととは何か」


 という二世皇帝の慈悲の声であったが、実際に聞こえてきたのは慌ただしい鎧の擦れる音と多くの衛兵達であった。


 屈強な衛兵の圧に李斯は、思わず立ち上がりそうになったが腹に力を込め、じろりと見上げた。


 それは睨みつけられた者がたじろぐ程で、敵対者をことごとく追い落としてきた全盛期の李斯の眼力であった。



 しかし後退る衛兵の中、李斯の強い視線を受けながら一歩も動かぬ小柄な人物が立っている。


「趙高!」


 弾かれたように立ち上がった李斯に対して、粘り着く笑みを浮かべた趙高はゆっくりと言い放った。


「李丞相、勅命により拘禁いたす」


「なっ!?」


 趙高はその場で一度、強く木製の底を貼った(くつ)を踏み鳴らした。



 その高い音は李斯による呪縛を解き放ち、我に返った衛兵達が動き出す。


 往年の鋭さを見せた李斯ではあるが、元々荒事には向かぬ上、既に老齢である。抵抗もままならず両腕を抑えられ、膝を折られる。


「うぐっ。待て! 判らぬのか!? 主上を、秦国を喰らおうと蜷局とぐろを巻く毒蛇が眼前に居るのだぞ。それを(ただ)すことができるのは今、私を於いて他に……」


 李斯は掴まれた腕を解こうと身動ぎ、左右の衛兵を見上げ、訴えかける。

 しかし正面を向いたままの衛兵達の表情は知れない。


「その毒蛇は今、首根(くびね)を捕まれ地に伏しておる」


 衛兵の表情を盗み見ようとする李斯の頭上から、趙高の嗄れた耳障りな声が降り注いだ。

 次いで言葉通り、李斯は首を捕まれ石畳へ抑えつけられる。


「……」


 地を舐めさせられた李斯から一瞬見えた衛兵の顔は、目の前の宦官と同じく嫌らしい、醜く歪んだ笑みであった。



「衛士までも……! 趙高、お主は」



 ――見誤った!


 李斯は趙高が宦官を遣って小賢しく主上の御言を捏造し、宮中を操っていると考えていた。

 しかしこの毒蛇は、衛兵すら意のままに動かすことができるほど宮中の奥深く喰らいついていた。


 たかが宦官という偏見を捨て一段高く見たつもりであったが、趙高はさらに上の悪であった。



 仰ぎ見た趙高の口が裂けたように開き、李斯とって絶望の言葉が紡がれた。


「獄にて賊との繋がりがあることを吐かせよ」


 李斯を抑えている左右の兵が両脇を抱えて、乱暴に立たせる。


 身体は人形の様になすがままに振り回され、自身の意思とは無関係に歩かされる。

 それでも諦めきれぬ李斯の口は願いを吐き出す。


「ま、待て! 趙高、趙高殿! 一度で、いや一目でよい! 主上にお目にかかりたい! 一言だけでも……」


 口の端に白く濁った唾を泡立たせながら叫ぶ李斯。

 その哀願を趙高は笑みを収めて、この場にいる全員が凍りつくような、宦官とは思えぬ低い声で応えた。



「逆賊の姿を主上の御目(おんめ)に映せるわけなかろう」



 全ての動きの止まった中、趙高が顎を少し(しゃく)ると衛兵はまた動き出し、李斯を連行していく。


「頼む……頼む! 誤解だ! お主ら判っておるのか!? 今ならまだ……!」


 嘆願、強迫、懐柔。


 自身の交渉術の全てを以て語りかける李斯の声は、聞く耳を持たぬ衛兵の足音と共に小さくなり、やがてその声も止み、消えていった。



 李斯を投獄した後、趙高の動きは迅速であった。


 咸陽(かんよう)にいる李斯の家族とその一門、そして客にいたるまでを捕えて獄へ投げ込んだ。


 さらに三公の残り、馮去疾(ふうきょしつ)馮劫(ふうきょう)へその魔手を伸ばした。


 この二人もそれぞれ二世皇帝へ諫言(かんげん)を呈したことがあり、趙高はそれを理由に反逆者李斯と繋がっていると二世皇帝をそそのかした。


群盗(ぐんとう)の台頭を許したのは人臣最高位の三公の責が重いはず。(しか)るに二人は主上を責めるばかり。これは怠慢であり、或いは李斯との密約もあったのではと推知(すいち)いたします。主上の足を引っ張っていた首魁の李斯を排した今、残りの二人になにができましょうか」


 小言のような二人の諫言を思い出し、二世皇帝は顔を顰める。

 その記憶は二世皇帝にとって、趙高の魅惑的な言葉に従い口煩い者を一掃しようと考えるに十分の理由となった。


「そうよな。彼らは賊を鎮めることもできぬにも関わらず、朕へは先帝の遺業を継ぐことを止めよという。それは朕ばかりか先帝へも不忠である」


 その一言で馮去疾と馮劫へ獄吏が向けられたのである。


 二人は李斯が獄へ繋がれたこと、そしてその獄でなにが行われているかも予期し、


「将相は(はずかし)められん」


 と獄吏が自家へ踏み込む前に自害した。



 ◇◇◇



 李斯は獄中で(むち)を打たれ、賊との内通としているという偽の自白を強いられている。


 身体に笞の跡がない箇所はなく、腫れ上がった肌は裂け、赤く血が垂れている。 老骨の身で耐えられるものではない。


 それを耐え、口を噤む李斯には一筋の希望があった。


 ――長子の李由(りゆう)が戦っている。


 章邯軍が東阿(とうあ)で敗戦を喫したようだが、三川郡の郡守の李由がこれを援け、共に賊軍を打ち破れば、身の潔白を証明する大きな材料となる。


 ――昇鯉(しょうり)の如く名を上げた章邯に恩を売り、彼が我ら李家の擁護に回れば、主上も耳を傾けるだろう。


 しかし弱々しい悲鳴しか口に出さず、獄吏の執拗な責苦に耐える李斯ではあったが、限界は近い。


 ――李由よ、早く……。これ以上は耐え切れぬ……。



「さすがは数多の政争を勝ち抜き、先帝の信を授かった男だな。よく耐える」


 ざらつく甲高い声に李斯は虚ろな目を向けた。


「ちょ……趙高」


 李斯はもう鼻が麻痺して解らぬが、血と糞尿の匂いのこもる獄中。

 口元を隠した趙高の姿があった。


「李斯殿、判っておるぞ。貴方が耐え忍び、待っているものが」


 趙高は、隠した袖からはみ出た口端を上げ、嫌らしい笑みを作る。



「李由は賊軍に敗け、死んだぞ」



 李斯はその言葉の理解を拒み、脳内で幾度か反芻した後、気を失った。

舄 (くつ)

古代の礼装用の靴。底が木や革ですね覆われている。


獄吏 (ごくり)

監獄、牢の役人。


将相 (しょうそう)

将軍や宰相、ここでは丞相のこと。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ