表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
145/169

李斯 1

書籍3巻とコミカライズ1巻の発売記念として閑話を3話ほどを公開いたします。

本編の進行にもにも関わる閑話となりますのでお読み頂ければ幸いです。

 ――()められた。


 暗い屋敷の自室、李斯(りし)は頭を掻きむしり、その場に両膝を付いた。

 ここ数年で特に細く白くなった髪は乱れ、幾本かの毛髪が床に抜け落ちる。



 李斯の(したた)めた二世皇帝への上書は、趙高(ちょうこう)によって最悪の都合を狙われた上で献上され、その諫言(かんげん)は意図が伝わらぬどころか誣告(ぶこく)と曲げられた。


 長子李由(りゆう)の背信の噂も、元を辿れば宮中奥深くから湧き出たものであった。



 趙高に上書を嘆願された時。


 ――心の奥底で、未だたかが宦官と侮っていたのかもしれん。あの場は留保し、少しでも調べれば踊らされることはなかったか……いや、どの道今の私ではあの毒蛇に喰われるのが宿命か。



 初代皇帝崩御以降、権力闘争に明け暮れる精力は(しお)れ、老いと恐怖と焦りが切れ味の鋭かった頭と舌に(もや)をかけた。


 白く濁る頭に唯一描くのは、初代を支えた丞相にして法家の権威という盛名と共に安らかな死を迎えるという望み。

 その望みのため趙高の専横に目を瞑り、老いた李斯を保身に走らせた。


 しかし。


 ――このまま逆心の汚名を着せられ誅殺されれば、我が名は。



 意を決して立ち上がった李斯は、老いさらばえ(あばら)の浮いた自身の胸を強く叩く。

 次いで、脳内にかかる霧を払うように乱れた白髪の乗る頭を数回小突いた。


 ――この枯れた脳漿(のうしょう)を絞り、知の一滴をもって主上の誤解を解かねばならん。


 そして頭髪を整え、家僕(かぼく)を呼び、筆を運ばせると渾身の想いを込めて、筆を走らせた。



 ◇◇◇



 李斯は無私の人ではない。清廉潔白でもない。

 どちらかといえば狡猾な人間である。


 始皇帝の下、競う相手を蹴落として左丞相の位まで登った。

 主上に讒言(ざんげん)を吹き込み、法家の同門を自殺へ追い込んだこともある。



 しかし為政者として野心と国益の天秤を上手く(なら)しながら、自己顕示欲や権力欲を満たしてきた人間である。


 李斯を押し上げた最たる武器。


 それが始皇帝すらも唸らせた鋭く理路整然とした弁であり、並ぶ者なしと言われた文であった。



 だが今ここに至って李斯渾身の理と知を載せた上書は、見識の浅い二世皇帝の心を震わせることはできなかった。


 二世皇帝の情動は趙高への甘えと根底にある恐れによって支配されている。


「お読みなれば怒りで心が乱れましょう。お耳にいれるのも憚られる、諫言とは名ばかりの誣言(ふげん)でございます。天子は(みだ)りに心動かさぬもの」


 正義や道理に訴えかけようにもそれは趙高によって歪められ、二世皇帝は幾度も諫言を重ねる李斯を疎ましく思い、李斯への疑念を高めるだけとなった。


 それでも最期の力を振り絞る李斯は諦めなかった。


 ――主上の目の前で直接、趙高を弾劾するしかあるまい。


 一瞬でも趙高を疑い、そして一言、


「調べよ」


 と、二世皇帝の口から発せられれば、李斯の勝利である。

 不正、非道、欺瞞が服を着ているような趙高を叩けば、罪の埃が山と出てくるであろう。



 久方ぶりに宮殿へ向かい、現在二世皇帝が離宮にいることを聴いた李斯は、年甲斐もなく小走りに足を滑らせた。


 老いた膝に響く痛みを無視して辿り着いた離宮で李斯を迎えたのは、冷めた目で行く手を阻む門兵達であった。


 それでも李斯は怯まず、遮られた()の隙間から宮内へ響き渡るほどの大声で呼びかける。


「主上に拝謁を願いたい」


 決意を固め趙高へ反撃に出た李斯であったがそれは余りに遅く、そして彼の天運は尽きていた。


 李斯の哀願ともいえる拝謁を望む声は、確かに届いた。



 趙高の息のかかった宦官によって。

 内庭で芝居や商家の真似遊びに耽る最中の二世皇帝へ。



「またしても……」


 二世皇帝は、まさに遊びを邪魔された子供の様に地団駄を踏み、


「謁見はならん! 追い返せ!」


 そう怒気を隠さず言い放ち、李斯が門をくぐる事を赦さなかった。





 二世皇帝に謁見が叶わぬと伝えられた李斯は一瞬、失意の表情を浮かべたものの眉間の皺をさらに深く刻み、歯を食いしばった。


「拝謁叶うまで、待たせて頂く」


 ――諦める訳にはいかん。主上に、いやこの国に絡みついて、じわじわと気付かぬように締め上げているあの毒蛇を断ち切らねば、主上が、秦が、死ぬ。


 不退転の李斯は門前に座りこんだ。



 ◇◇◇



「帰らぬというのか!」


 その様子を聞いた二世皇帝は最も信頼する者を呼ぶ。


「趙高! 趙高よ!」


 頼もしくもあり、恐ろしくもある父代わりのこの者に任せれば、自身を煩わす問題は大方、目の前から消える。


 それは問題が解消するのではなく、ただ趙高の肥肉(ひにく)を纏った醜い手の平で二世皇帝の眼前を塞ぎ、視えなくしているだけのことであるが。



 音もなく小走りに現れた趙高は深く頭を垂れた。


「主上が彼の言を取り上げず、私をお守り下さっていることにしびれを切らし、いよいよもって直接私を糾弾するつもりでありましょう」



「うむ。上書の内容の大半はお主への批判、誹謗中傷らしいな」


 そこで二世皇帝は言葉を切り、首を傾げた。


「趙高よ。李丞相はなぜそこまでお主を目の敵にするのだ。いやっ、もちろん丞相の言い分を信じている訳ではないが。……しかし丞相のお主への厭忌(えんき)は親の仇の如くだ。そこまでの恨みを買った由、お主自身は解っておるのか」


 趙高は頭をゆっくりと上げると、二世皇帝に向けて親愛な笑みを浮かべる。


「我が全身全霊の忠に、主上が聡慧(そうけい)な信によってお応え下さることに嫉妬してのことでしょう。そしてその嫉妬と野心が抑えきれなくなり、押しかけて参った様子」


 耳心地よい言葉が、また二世皇帝の視野を奪っていく。


 その目に映るのは、門前で座り込む嫉妬に狂った醜い老人。


「剥き出しの嫉妬か……。丞相も老いに乱れたか」


 憐れむように呟いた二世皇帝に、趙高は畳み掛けた。


「宮中に疑心を蔓延らせて主上と臣を貶め、地を乱し、天を代えようとする反逆者を今こそ捕える時かと」


 暫し、空を見上げた二世皇帝は、趙高へ頷いた。


「うむ……朕の忍耐にも限りがある。趙高よ。李斯の処遇は任せた」


 期待通りの言葉を引き出した趙高は再び深く頭を垂らし、地に向かって先程の笑みとは程遠い、残酷な笑みを浮かべた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ