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135話

「なるほど、うむうむ。やはり耳にしただけの情報より実際に間近に居られた方の話は違いますな。そして貴方が如何に斉の中枢から信頼されていたかもよく知れた。このお話、楚と斉の親交に大いに役立ちましょう」


 大して目新しくもない斉の現状を聞く宋義は何度も頷き、俺に笑みを向ける。


「ありがとうございます。そうであれば私がここへ伺った意味もございます」


 俺は訝しみながらも表には出さず礼を言う。


 なんか表面的には和やかだし、ちょっと田安達のこと突っ込んで聞いてみようかな……。


 俺が話題を匿っている斉の旧王族の話に移そうとした時、


「ところで」


 それよりも早く、宋義が穏やかな笑顔で新たな話に持っていく。


「一先ずは武信君の元で客として席を置かれておくとして、いずれは貴方に似合った官職を推挙するつもりです」


 え? 俺、楚に就職すんの? 


「いえ、そんな……。官職などを頂こうとは考えておりません。軍に同行させて頂き……」


「古来、縦横家は訪れた国で重要な地位に就いてその役を果たし、また国と国は要職に就く者を交換しあって、強固な関係を築いておりました。ある程度役職がなければ国を動かす説得力がない」


 宋義は俺の断りを遮るように、秦が百里奚(ひゃくりけい)商鞅(しょうおう)、そして縦横家の張儀(ちょうぎ)など積極的に他国出身の者を宰相にまで就かせ、この中華統一を果たしたことを語る。


「共に秦にあたる国同士。それに倣い、内外に密な関係を見せるためにも人材の交換というのは善い案だとは思いませぬか」


 それはそうだろうけど……。

 なんというか、今さら斉以外の国の禄を食むってのは抵抗があるなぁ。


「そこで……」


 言葉を切った宋義の目が一層にこやかに垂れる。


「斉へは我が長子の宋襄(そうじょう)を送ろうと考えているのだが、斉王は受け入れると思いますかな」


 その言葉に背中に冷たいものを感じると共に腑に落ちた。



 そうか……これか。

 このための使者か。



 自身の血縁を他国へ送れば一族の対外的な地位の向上、それに項梁に対して外からも牽制できる。

 田栄が受け入れるかどうかだが、田安達の処遇に働きかけるとか、宋義のこの話術で交渉すれば……なくはない。

 宋襄の能力次第だが、楚との連携が密になることは歓迎すべきことだ。


 ……妙手かもしれん。

 この男やっぱ、ちょっと、いやかなり切れる。


 この時代は使えるものは子でも使う、というよりも家族、一族単位で物事を考えるという時代だ。現代日本の個人主義が染み付いている俺には、全然思い付かなかった。


「どうかな、田中殿。斉の宰相に一筆書いては下さらぬか」


 宋義は応答のない俺に、再び問いかける。


「……斉が楚と深く結びたいのは事実。しかし、それには幾つかの協議せねばならぬことがあります。宰相田栄が、それに目を瞑って宋襄殿を斉に迎えるのは難しいかもしれません」


 考え込んでいた俺は慌てて応える。


「田栄殿が清廉な人物だとは先ほどの話でよくわかっている。その協議のためにも我が子を受け入れて下されば綿密なやり取りができよう」


 そうだよな。

 宋義の、延いては楚王の代弁者として斉に留まれば、互いの意見の擦り合わせも細かくできるだろう。

 しかし宰相の長子と俺じゃ釣り合わんだろう。


「我が宰相がどう応えるか、心の内までは見透せません。ましてや私はすでに斉を去った身。要人交換という点では成立致しませぬ」


「ははっ、国を去った者は『我が宰相』とは言わんだろう。心は斉に置いてきているのは明白。そしてそれを黙って送り出した斉の中枢も貴方を信頼してのことであろう。十分に交換条件として成立すると私は見ておる」



『心は斉にある』


 そう図星を突かれて俺の引いていた血が上り、カッと顔が紅く染まるのを自覚した。


 俺の、田氏の想いまで予測した上で、か……。

 なんとなく気分が良くないが、宋義の提案は斉にとっても一考の余地がある。


 項梁が死なないとなると、彼の天下ということも十分あり得る。

 自分が交渉材料になるのが不本意だが、将来の一党独裁に対抗し得る存在を作っておくのも悪くはない。

 しかし現時点では宋襄の資質は不明だ。斉の内部をかき回す可能性もある。



 受け入れようと受け入れまいと憂慮する点は残る。

 ならば宰相の長子を手元に置いておく方が後々有利になるかもしれん。


 ……最終的な判断は田栄がするとしても、まぁ消極的に賛成といったところか。

 とりあえず楚が一枚岩ではないことと、宋義が使者となる意図なんかは田栄に伝えておいた方がいいな。


 俺が楚で出世したいと思われるかな?

 ……ないな。それはきっと大丈夫。


「文は書きますが、現状を伝えるくらいにしておきましょう。己の栄達に目が眩んだと思われたくはないですから」


 俺は宋義に苦笑いで応えると、宋義は笑みを深める。


「国のために働く者が相応の報いをうけることは悪ではなく、自然の(ことわり)ですぞ」


 俺の遠回しの嫌味にも宋義の表情は変わらない。穏やかな笑みを湛えたままだ。


 この男の中では国の興隆と自身の栄華は表裏一体なのだろう。

 随分な自信家だ。

 軍事についても覚えがあるようだったし、それに見合うだけの能力はあるのかもな。



 俺にとって、この時代の栄達は意味があるのかな。


 斉では分不相応によくしてもらった。

 離れがたくなるほど。なんとか恩を返したくなるほど。


 一人でこんなところに訪れるほどに。



 俺は心の中で苦笑する。

 昔ほど現代に帰りたい、帰らなければ、という気持ちが小さくなっていることを改めて自覚する。


 だがそれと同時に、


『帰るべきだ。お前はこの時代で独りきりの、異物なんだ』


 という自分の声が頭の中で響き、言い様のない焦燥感と不安感に苛まれる。



 ……いかんな。

 今は、こんなこと考えている時じゃない。


 俺は潰れそうな胸を掻きむしりたくなるのを抑え、宋義を見る。


 一つ一つすべきことをしていくだけだ。

 それしかないんだ。

百里奚 (ひゃくりけい)

春秋時代放浪の末、()国の大夫となるが|晋に国を滅ぼされて奴隷となり、晋の公女が秦の穆公(ぼくこう)に嫁ぐ際、下僕として秦に赴く。

ある時偶然、秦の臣下が百里奚の才に気付き穆公に推挙するもそれを拒んで国外へ逃亡する。

穆公は諦めずに楚でまた奴隷となっていた彼を探し当て、奴隷主に羊の皮五枚(五羖(ごこ))で引き取った。

七十余歳の元奴隷、百里奚と三日三晩国政について語り合った穆公は彼を宰相とし、後の秦の中国統一の礎を築いた。

五羖で引き取った逸話から五羖大夫ごこたいふとも呼ばれる。


商鞅 (しょうおう)

人物・用語説明集1 (~7章)参照


張儀 (ちょうぎ)

戦国時代の縦横家。縦横家とは各国を渡り、王や為政者へ外交などの策を説いた者達。張義はその代表的な一人で秦の宰相となり、同門であった蘇秦の合従策を連衡策で打ち破り、秦の中国統一に貢献した。

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