134話
本書3巻&コミック1巻が6月26日発売となります。
書影など情報公開となりましたら、また詳細を活動報告にて公開させていただきます。
宋義は組んだ手を開くと一つパチリと手を打った。
「さて、武信君の身の安全も確保したところで斉との話に戻りましょう」
宋義は福々しい笑みで、そう切り出した。
そしてゆっくりと諸将を見回した視線は武信君へと移した。
先程までの重い空気を忘れたかのように優雅に両手を広げ、慶事でも祝うよな声色。
この切り替えの早さは、できる奴のそれだな。
こっちはもう忘れたんだからそちらも切り替えろよ、と暗に強制するようなやり方だ。
引きずればこちらの器が小さいと思われるし、無理に気分を改めると必要以上に提案に対して甘くなりかねん。
「使者のことかな、令尹」
しかし流石の項梁は戸惑った様子もなく、先程までと同じ低く冷静な声で応える。
鉄面皮で心を読ませない項梁と、仰々しい仕草や声色で揺さぶる宋義。
端から見ているだけで胃がしくしく痛むわ……。
「然り。先程武信君が仰っていた田中殿の身分と、斉への交友を確かめるために使者を派遣せねばなりませぬ。その役目、私に任せて頂きたい」
おっと、これは意外だな。
宋義はどちらかと言えば裏で手を回して、人を使うタイプかと思ったが。
しかも令尹という立場なのに自ら動くのか。
「ほう、令尹自らとは」
項梁も予想外だったようで眉をやや上げて、その理由を問うように宋義を見る。
確かに楚の宰相が使者ということになれば斉も疎かな対応はできないだろうし、対外的にも斉と楚の繋がりの強さを強調できる。
問題は宋義が何を考えて手を挙げたかだ。
「王の御意志を精細に伝うることができるのはこの宋義を於いて居りませぬ」
ふむ……斉と項梁との関係ではなく斉と楚、つまり楚王との関係強化というところか。
それと田安達に対する楚王の見解か。
楚王の意向に沿う処遇を求めるというか、探るためかな。
確かに交渉力の高そうな宋義なら、上手く事を収めれそうだが……それだけのために臨淄まで行くかな。
よく性格は知らないが、気位が高そうだし余程のことではないと自ら出向くってことはない気がするが。
それだけ斉との関係、田安達の処遇を重要視しているということか?
若しくは、これを切り口に項梁との派閥争いで何か優位を見出だしたのか。
いずれにせよ腹に何か抱えている感じに見える。
「わかった、令尹にお任せしよう。斉へは再度、早急な派兵を要請してもらいたい」
項梁からしてみれば章邯との戦いに専念したいというのが本音だろう。
秦を追い詰めるということに勝る実績、名声はない。
揉めている外交を代わりに収めて点数稼ぐならば、勝手にやってくれってところか。
俺としては、一国の宰相が訪れるという利益の大きさからしても反対する理由も、権限もない。
項梁の返答に俺が口を挟める筈もなく、斉の使者は宋義ということに決定した。
宋義は再び拱手で応え、笑顔を俺に向ける。
「では早速、斉とのことを田中殿と子細打ち合わせをいたしたく存ずる。田中殿、我が幕舎へ案内しよう」
そう促され、宋義は議論の場から退出していく。
え? 今から? 会議の続きは? 俺、行っちゃってもいいの?
俺は付いていっていいものか戸惑い、視線をうろうろさせるが目の合った范増が渋い顔で頷いた。
あ、いいのね。はよ行けって?
あぁ、俺が居ちゃできない議論もあるものね。
◇◇◇
幕舎へ案内された俺は、宋義と向き合う。
「田中殿には気兼ねなく話してもらいたい。厳つい輩が睨んでいては口が渇いて回らぬだろう」
俺にそう微笑むと、宋義は護衛を幕外へ出るよう指示する。
しかし護衛は難色を示した。
まぁ護衛からしてみたら、そりゃ警戒するわな。
身元も確定していない縦横家気取りの怪しげな男と国の宰相を二人きりするなんて。
幾人かには顔は知られているが、今はただの無位無官。
何をしでかすか分かったものじゃない。
「そう心配するものでもない。多くの令尹を輩出した宋家は文だけで国を支えていた訳ではない。私の剣技も捨てたものではない」
宋義はそう言って腰に帯びた剣を軽く叩く。
優雅な見た目に反して武芸にも自信があるようだ。
俺は剣も預けているし、無手の無職如きに遅れをとる訳ないだろうってことだ。
合ってる。正解。
護衛は改めて俺を下から上に、上から下に探る視線を往復させると、小さく溜め息を吐いて幕舎を出ていった。
ちょっと! なんか傷つくんですけど!
「さぁ田中殿、慣れぬ地に一人で心労も深かろう。どうかこの場だけでもゆるりと過ごされよ」
「は、はぁ、ありがとうございます」
なんか項羽の所ですれ違った時と態度が違うな。
自分が斉に行くことになったから、少しでも情報を引き出そうって腹かな。
「まぁ、ゆるりと申しても得意の口は回してもらわねばなりませぬな、ははっ」
「ははは……そうですね」
俺は笑いどころの解らん冗談に頬を引きつらせながら、問われた斉国のこと、斉王や田栄、田横など主だった人物の紹介をしていく。
知りたかったのはこんなことか?
宋義からしてみれば知っていることの確認くらいなものだろう。