132話
項羽も范増が許したならばという不承不承な態度で押し黙った。
ある意味、范増が来てくれたお陰かな。
とりあえず項梁との会談で糾弾の声を挙げられることはない、かな。
ここでふと、疑問が浮かぶ。
このまま順調に事が進むとして、各国を援け秦を討った最大の功労者である項梁はどうなるのだろう。
楚の臣のままでいるのだろうか。
楚に留まるとなると、王も憚る立場となるだろう。それを楚王や付き従う宋義などはどう扱うのか。
今でも楚王は気を遣っているようで、宋義はそれが面白くない様子だったしな。
下手したら国が割れそうだ。
その辺は項梁の考え一つだが、歴史が変わってしまうと先が全く見えなくなるな。
今も覚えていないことだらけで大して見えていないが……全く違う未来が来るとなると世界はどうなるのだろうか?
少し物思いに耽り会話に間が空く。項羽は興ざめしたのか、
「元々私は斉になど期待しておらん。お主も軍の端で我らの進撃を見ていればよい。せいぜい邪魔だけはしてくれるなよ」
そう言って俺に退出を促す。
はぁ……殺されなかっただけでも善しとしておくか。
っと、大事なことを忘れるところだった。
我に返った俺は慌てて二人に問い掛ける。
「ところで項羽殿、范増殿」
「……なんだ?」
項羽はこれ以上話すことはないとばかりに、面倒くさそうに返す。
范増もまだあるのかと眉をひそめる。
いやいや、ここからがある意味本題だから。
「武信君がいつまでも前線に立つのは危険だとは思いませぬか?」
俺は問いかけるよう、項羽と范増の二人に目を合わせる。
「楚軍が精強な軍と成しているその源は武信君でありましょう。少し危ういことを言えば、ここにいる将兵は楚王に忠を向けているというよりは……」
「おい、お主。やめい」
范増は俺の言葉を止め、項羽はチラリと陣幕の出入口を覗く。
宋義が頭を過ったのだろう。
「失礼、失言でした。しかし癖のある猛烈な将と兵を使いこなす武信君は、なくてはならぬ英雄」
「然り。地の名主から盗賊まで、玉と石が混じって尚一つと成しているのは武信君の懐の深さに因る」
猛獣のような項羽や、ぽっと出の劉邦の才を見出だして重用してる。
案外、劉邦の罪人や外聞の悪い者でも能力があれば拾い上げる器の大きさは、項梁に倣ってのことかもな。
俺は頷き、本題に入る。
「目下最大の敵、章邯の戦い方はお二人とも、項羽殿は特にご存知でしょう。彼は手強い敵と当たる時……」
項羽は俺の意図を察したのか、鋭く目を光らせ口を開いた。
「奴は一貫して軍の中心、大将を狙う」
項羽はその性格を利用して、章邯を破った。さすが戦術となると察しがいいな。
俺はその言に深く頷くと、意図が伝わったようだ。
斉の先王は予想外の夜襲に討たれた。章邯がまた何かしらの奇策で項梁本人を狙うことは大いにあり得る。
「武信君を戦場から遠ざけろというか」
范増が俺の言わんとしていることを口にした。
「我ら楚軍が叔父上を守り通せぬというのか。斉の弱兵と一緒にするな。と言いたいところだが……」
意外なことに項羽の声には怒気はなく不機嫌ではあるものの、その可能性を探っているようだ。
そして范増も思うところがあるのか、口をへの字に曲げ、腕を組む。
「戦場では何が起こるかわかりません。流れ矢一本で形勢が傾くこともありましょう」
「違いないが、それを気にしていては戦なんぞできぬ。武信君が退がれば将兵の士気にも影響が出る」
「叔父上も静かに見えて楚人としての矜持は大いに持っておられる。退がれと言われて首を縦に振るとは考えにくい」
二人は悩みながらも否定的な言葉を口にする。
項梁の身を案じながらも、前線指揮もやむなしといったところか。
「なにも武信君に盱眙まで退けということではありません。危険な戦場を避け、堅守な城にて指揮をとることはできましょう」
「しかし戦は拙速が肝要。その僅かな指揮の遅れが戦を左右する」
蒙恬から習った孫子にもあったね。
戦争において判断の速さが、生死を分けるほど重要なのは俺も理解している。
「楚軍の各将の現場での迅速な判断が、これまでの快進撃の根幹でありましょう。武信君が戦場に出なくとも項羽殿を始め猛将、優将がおられる」
項羽は猛獣のように荒々しくも、どこか冷静な直感的な理に従っている部分がある。
「うむ。まあな」
項羽は謙遜もせず肯定するが、満更でもなさそうだ。
「項羽殿の提した斉救援の策は見事に嵌まり、無敗の章邯を退けました。戦術、戦場での指揮に関しては武信君を凌ぎましょう」
俺のわざとらしい称賛に気を良くする項羽は、若干緩んだ頬をその大きな手で隠した。
范増の非難の目にも気付かない。
「叔父上は慎重であるからな。どちらが優れているというわけではないだろうが、あの時は私の大胆な勇敢さが功を奏した」
大胆な勇敢さというか無茶苦茶な強引さともいうがな。
しかしそれが楚兵の性格と相まって、その激しさと強さを生み出しているのは確かだ。
「武信君が大きく方向性を示しながら後方を支え、意図に沿って項羽殿が指揮する。現状とそう変わりはないでしょう。武信君が差配せねばならぬのは戦だけではありません。彼の御仁はより大きな視野でこの戦乱を見なければならない立場」
本当は王の役割だが、実質的な元首は項梁なのは疑いようがない。
「だからこそ一局の戦いにわざわざ出てくる必要性と危険性の軽重を今一度量って頂たく。できれば武信君にお目にかかる時に進言したいのですが」
范増の厳しい目が一層厳しく俺を射抜く。
「それをわしらに擁護せよと言うか。僭越であり不遜であることはわかっておろうに。何を図っておる?」
項梁が章邯に殺されたら項羽が後を引き継ぐんだろうけど、そうなれば理知的な外交が期待できない。
そして纏め役のいなくなった楚は割れて、さっき逃げたおっさんが台頭してきて中国統一してしまうから。
……とは言えない。
「斉に友好的と言えずとも敵対心を持たぬ武信君には長く立場を保って頂きたい。……という由では弱いですかね」
范増は厳しさを消さず、眼の奥に鋭さを湛えて応える。
「ふむ……。まぁそれだけではないようだが武信君が要であり、要を失う危険を避けねばならんのは確かだ」
やはりやりにくい爺さんだ。色々裏を探っている。
「項羽殿は?」
范増が項羽に尋ねる。
こういう時、項羽の意見もちゃんと聞くのな。
確か史実では項羽は范増を父に次ぐ人物、『亜父』と呼んで慕っていたんだよな。
小言ばかりじゃなく立てるところは立てるし、おっかないだけじゃない。
「……うむ。聞き届けられるとも思えぬが、叔父上に身辺を気を付けてもらうためにも一言申してもよいかと」
「ありがとうございます」
俺は二人に頭を下げ、礼を言う。そして、
「項羽殿が一段視野を拡げ、戦略を担えば武信君の負担も軽くなりましょう。これは楚の現在だけでなく、その先。未来の安寧のためにもご一考頂きたい」
先を見据えて、生き埋めとか皆殺しとかもう辞めてほしい。
「私の視野が狭いというか」
「もう一段階昇ってほしいと。将としてだけでなく為政者としての視野を持っていただきたいということです」
「その意見には全面的に賛同せざるを得んな」
俺の小言と范増の援護に、項羽は渋い顔で舌を打った。