131話
「項羽殿、まぁ落ち着きなされ。一人で弁明に来た度胸に免じて話を聞いてやってはいかがですかい」
劉邦が間に入り、項羽を諫める。なんだかんだと面倒見のいい男だ。
「この田中は中々使える男だ。武信君の側には武を振るう者は多いが、弁知を振るう者は范増殿くらいでしょうよ」
武信君の側にというのは、楚王側の顔色を伺わずに……ということか。
「舌を回し、唾を飛ばす時ではない。剣を振り弓を引き放てば、口は閉じられる。令尹もそれを理解しておらん」
過激だな。力で全てを解決しようとするか。
「なにを仰るか!」
突然の雷のような怒鳴り声に俺達三人は首を竦める。
な、なに? 誰?
見れば陣幕の入口に声の主が立っていた。
その人物は透けるような白髪の老人。
しかし背筋はピンと張っていて、エラが張った顎と爛々と光る瞳が、老人らしからぬ精力さをみせる。
「范翁……!」
その老人の名を呼ぶ項羽の声は今までの剛胆な声とは違い物怖じしたような、なんともばつの悪そうな声色だ。
「今、武に重きがあるのは認めますがな。それでもいらぬ敵を作ることは回り道であり、武信君もそう考えているからこそ斉に使者を通わせておる」
突然現れた范増は項羽を叱るように諭し始めた。
「舌を回さなくてよい時などあろうものか。対話するのが人というもの。牙を剥き、爪を振り下ろすだけなら獣でもできますぞ」
「っ……」
項羽の顔が苦々しく歪む。
これは、心強い味方の登場……かな?
「は、范翁、なぜここへ?」
范増はギョロリとした目で項羽を見据える。
見られた項羽の顎がグッと引かれたが、力を込めて范増を見返す。
この老人は楚の将皆が憚る存在なのか、なんか逆らえない怖さがあるな。
「この地に令尹が来訪した。あの男のこと、もしこちらへ嫌味を言いに来ても相手になさるなと項羽殿に伝えに来たのだが。斉から珍客がおると聞いて覗かせて頂いた」
「令尹についてはもう遅い。散々言って去っていった」
項羽は憮然と応える。
「そうですか。手を出したりはしておらぬでしょうな」
「出すものか! 范翁、私にも分別はある」
そう唾を飛ばす項羽に、頑固そうな顔をくしゃりと歪めてみせた。
「ふむ、それは重畳。少しは将としての自覚が出てきましたかな」
項羽は顔を赤く怒らせながら何か言いたげであったが言葉にならないようだ。
そんな項羽を無視し、范増は俺の方へ向き直る。
「斉の田中殿であるな。以前一度お会いした」
「はい、東阿救援の折に。その節はお世話になりました」
范増は片眉を上げ、
「借りができたと思っておるならば、素直に返せばよい。言葉遊びをしている暇はない」
そうピシャリと言い放った。随分手厳しい爺さんだ。
「うむ、そ……」
その言に便乗しようと項羽が何か言いかけるが、白い眉の奥で光った睨み一つで止める。
「そうは言っても国と国。様々な思惑が絡み、事は単純ではございません。私はそれを説明のために武信君の元を訪れたのです」
「ふん」
俺の釈明に范増はそんなことは百も承知だという風に鼻を鳴らす。
「ならばその複雑な理由を、武信君の耳に入れる前に先ずはここで聞かせてもらおうか」
そう応える范増のギョロリとした目に俺も思わず顎を引いた。
ち、ちょっと落ち着いて考えよう、っていつの間にか劉邦がいねぇ!
逃げたのか? やっぱ面倒見よくない! 勝手な奴だ!
いや、それは後だ。今は目の前のこの爺さんをなんとかしないと……。
うーん……范増なら斉が兵を出せないけど楚とは繋がりを絶ちたくないという思惑は、俺がここにいる時点で理解しているだろう。
『武信君の耳に入れる前に』ってことは武信君とは面会に反対ではないということだよな。
ということは范増も積極的ではないかもしれんが、斉との断交は望んでいないと思っていいのか?
小言はもらったが、ああいう爺さん特有の癖みたいなもんだ。
范増の物言いや態度にそこまで悪意は感じない。
より不満が大きいのは項羽だ。これは項羽に言い聞かせる体でいくのがいいかもな。范増相手よりやりやすいし。
俺は一つ小さく息を吐き、項羽に向き直って語り始める。
「武信君の目指すところはどこなのでしょう」
「なに?」
俺のいきなりの問いに、項羽が思わずという風に問い返す。
「武信君は秦を討ち倒した後、前時代のような幾つかの国で共存していく形を思い描いておられるのでは」
「その国々の先頭に立ち、覇を唱えるのが楚だ」
推測を否定せず、項羽は言葉を付け足す。
だよな。そうでなければ魏の魏豹、韓の横陽君などに兵を貸すはずがない。
「秦滅亡の先を見据え、各国の再興を援助する武信君の功績は疑うべくもありません」
佞言と捉えたのか、范増がまたふんっと鼻を鳴らす。
やりにくい……厳しい教授の前で論文発表してる気分だ。
「斉も危機に救援して頂き、その恩は必ず返す所存です」
「ならばなぜ兵を出さぬ」
俺の謝意に項羽は噛みつく。
「実のところ、斉はすぐには兵を出す余裕がありません」
「なに?」
「……」
疑わし気に項羽は眉をひそめ、范増は黙したままだ。
「章邯に先王を討たれ、主力軍は東阿での籠城戦で疲弊し、そして旧王族の臨淄強襲は火種を残して燻っております」
実際、田安達が臨淄を強襲できたのは田角田間兄弟以外にもどこかの邑が協力したからではないかと、調査隊を出している。
「王を継いだ田市様はまだ若く、先ずは足元を固めねば再びつけ入る隙を生むことになりましょう」
「……」
項羽は変わらず厳しい表情のままだが、口を挟まない。
多少話を聞く態勢に入ったかな。
「奴らが楚王の下にいる現状、楚に協力して兵を出すとなれば情報が筒抜けで隙を見せることになる」
「楚に協力するなら、斉の王が誰であろうとかまわん」
項梁もその考えだろうと劉邦が言っていたな。確かに楚にとっては協力的なら斉王が誰でもいいだろう。むしろ匿っている貸しの大きい田安達の方が都合がいい。
そのうち楚が斉の王位に口出ししてくる可能性は大いにあり得る。
でもそれは今じゃない。
「田安が斉王に成り代わるなら国の中枢が総替えとなり、国内を安定させるまで協力どころではなくなりましょう。それに我らも黙って席を譲る気はない」
まぁ、俺の席はすでに無いけど。
内乱となれば援軍どころではない。それは楚にとっても面白くないだろう。
せっかく秦を攻める機会に、後ろで内輪揉めしてたら五月蝿いことこの上ない。
「そういった理由で兵を出す気がないわけではないのです。国内が落ち着きさえすれば、田横が兵を率いてきましょう」
嘘は言ってないぞ。田横が田栄を説得して派兵してくれるはず…………多分。
田横の名に項羽は一瞬渋い顔をしたが、鼻白んで非難を浴びせる。
「では最初からそう言えばよいのだ。何度も使者を交わし、無駄なことを」
俺もそれは多少思わなくもないが。
「まぁ、そこは国同士の面子というもの。本音と建前の釣り合いですね」
「……実にくだらん」
項羽は苦虫を噛み潰したように、吐き捨てた。
納得はしていないようだが、多少の理解はしてくれたかな。
面子に拘る姿勢よりはこっちの理由の方が理解を得やすいと思う。弱味を見せる結果となったが、悪感情を持たれるよりはマシだろう。
黙って聞いている范増が気になり、俺は視界の端で様子を探る。
「実と虚を混ぜ合わせおって。いや虚とも言い切れんところが小賢しい。縦横家を気取るつもりか」
范増は辛辣な言葉とは裏腹に、うっすらと口の端を上げる。
「今は斉の職を辞し、無官の身。武信君のお許しあればこちらで世話になり、斉と楚をさらに強固に繋ぎたいと思っております」
「ますます小賢しいことを言う。が、しかし」
さらに口を歪めて続ける。
「無官の身ならばお主個人の思惑ということになる。書状も何もないのであろう。斉の首脳とお主の言動が一致しているという確証はない」
「っ……」
痛いところを突く……。田栄から書状なんてもらえないだろうし、せめて田横からでも書いてもらっておくべきだったか……。
「まぁ、それは斉に確認を取れば済む話であるし、虚実であれば名を落とすのはあちら側である。小賢しい口を利くお主がそこまで短慮には見えぬしの」
范増の厳しい眼が少し和らいだ。
はぁ……課題はあるが、なんとか及第点はもらえたようだ。
次話は来週月曜日の更新となります。