130話
「ところで今の戦況ですが」
俺は話題を変え、濮陽攻めの状況を聞く。
先ほどちらりと苦戦しているようなことを言っていたが。
「悪くはない、が良くもない。濮陽に迫ったのはよいが城周りに塁が固く築かれ、膠着しておる。正直俺からすりゃ、斉から数万援軍が来たところでこの戦況を覆せんだろう」
劉邦は面白くなさそうにため息を吐き、赤裸々に戦況を語る。
「武信君の指示はこのまま包囲戦ですか?」
できれば今のうちに武信君を戦場から遠ざけたい。
彼は俺の問いに片眉を上げて考えこみ、
「いや、どうだかな。楚の将達は座して待つ気性ではないからな……。そうだな、一番我慢の効かぬ将軍がそろそろ何か提言するかもしれん。挨拶がてら尋ねてみるか」
ポンッと手を叩くと、立ち上がって陣幕の出口へ向かう。
「お主も何を言われるかわからんから、武信君に謁見する前に会っておいた方がよかろう」
劉邦は肩越しに悪戯そうな笑みを向け、俺を外へ促した。
まぁ、そうか……先に会っておいた方がいいかねぇ。
劉邦に続いて陣幕を出た俺は楚軍一勇ましく、楚軍一の血気盛んな若者に会いに行くことにした。
◇
先ほどの劉邦の陣は活気に溢れ、時々笑い声も聞こえていたが、今訪れている陣は静かだ。
無駄話もなく、黙々と自分の仕事をこなしている。
しかし暗く沈んだ雰囲気でなく機敏に動く兵達は皆、昇り立つような活力を感じさせる。
俺が想像する軍隊といった感じだ。
自信とやる気に満ちている。
「将の色がよく出ているだろう」
見透かしたように劉邦が笑う。
「ええ、厳しい規律が楚で一番の兵という自負に繋がっているようですね」
「まぁ俺にゃ真似できんが、俺には俺のやり方があるしな。どちらが優れているって訳でもない」
畏敬と親近か。
田横の軍は敬愛といったところか。どちらかといえば劉邦に近いかな。
人の上に立つ将としてどちらが優れているかなんて俺にはわからんが、田橫の軍は居心地が良かったな。
現代での軍務経験なんてない俺にはガチガチのこの軍は、ちょっとキツイかもなぁ。
そんな話をしながら緊張感のある兵達の中を進んでいると、正面からこの軍とは異質な男が出てきた。
引き締まった鎧姿の兵達と違い、太めの身体を優雅な着物に身を包んだ男。
垂れた目が柔和そうだが、小さな鼻と厚い唇がその印象に違和感を与える。
総合的に見るとなんか暑苦しいというか、胡散臭いというか。
「令尹殿ではありませぬか」
劉邦は少し驚いたように数人の従者を引き連れたその男に拱手し、道を譲る。
え、令尹って楚の宰相のことだよな? この人が高陵君の言ってた宋義なのか? 盱眙にいるんじゃ?
なんにせよ、これはラッキーかもしれん。
高陵君の名を出せば、交渉とはいかないまでも話し合いの場が持てるかも。
「劉邦……殿か」
宋義は道の脇に退いた劉邦を一瞥し、大きな目を細めてどこか冷めた声で言い放った。
劉邦とは親しくないのか。
あまり接点もないだろうし、項梁の子飼いだからかな。
楚王と項梁に確執があるなら、宋義は楚王派の大物ということになるだろう。
しかし劉邦は気にした様子もなく笑みを浮かべ、宋義に問う。
「盱眙から来られたのですかい?」
その劉邦の態度が気に入らないのか、宋義は益々冷めた声で応える。
「王から我が軍を視察せよとの下知を受けてな。武信君に手が要るようなら援けよと」
劉邦を侮っているのか、それとも見せてもかまわんと思っているのか、宋義の口調に不満が見え隠れする。
しかし今の話を聞く限り、擁立してくれた恩もあるのだろうが楚王は項梁を悪くは思っていないのかな。
だとすれば王と項梁がというよりは、盱眙の宮中と項梁の軍閥が争っているのか。
その辺りも探れたら、今後の交渉に役立つかもしれん。
「ほう、してこの陣には」
劉邦は宋義がこの場にいる理由を尋ねた。
「東阿の斉を救い、常勝であった秦の章邯を破った我が軍きっての勇将に王から労いの言葉を伝えるためだ」
「さすが王は心篤い御方でらっしゃる」
劉邦は両手を拡げて楚王を称賛する。
「それから」
その大袈裟な態度を無視して宋義は続ける。
「楚軍の強大さを中原に響かせたが、同時に残虐な噂も世に聞こえる。軍の悪評は王の悪評。要らぬ荷を王に背負わせてはならぬと、言い聞かせて参った」
「……ほう」
まるでやんちゃな子供にお説教をしてきた、という風のため息混じりの宋義の様子に劉邦は笑顔のままだが、その笑顔がぎこちなくなる。
「あの名家の者に苦言を呈すのは難しいかもしれぬが、そのためだけに私が往復するのも骨が折れる。劉邦殿も出身は存じぬが今は将の一人。少しばかり諫めるのも忠の形ぞ」
名家に意見できる自分はさらに名家だとアピールしつつ、劉邦がどこの馬の骨とも知らんと暗に蔑む。
そんな素晴らしく嫌味な言葉を残し、宋義は従者を引き連れて去っていった。
なかなか辛辣な人だなぁ。
宋義が項梁や項羽に対抗心を持っているのは確定みたいだな。
そして名門意識が高い。
「全くもって嫌な野郎だ。二言目には名家だ、名門だと……」
彼を見送る劉邦から小さなぼやきと舌打ちが聞こえた。
宋義は敵が多そうだ。あまり近づきすぎると項梁側から変な目で見られそうだな。
接触はよく考えないといけないかもしれん。
「しかし、なんとも間の悪りぃことだ」
気を取り直して一度歩き始めた劉邦は頭を掻き、盛大な溜め息を吐く。
「と、言いますと? あぁ……そうか」
最悪なタイミングかもしれん。
「うむ、これから会う御仁は今、恐ろしく機嫌が悪そうだ」
だな……。
「将軍は居られるかい」
先に伝令をやり連絡をしていたお陰か、劉邦の言葉に護衛に立つ兵は拱手し、すぐに中へと促した。
「劉将軍、客とは……お主か」
挨拶もなく不躾な視線を俺に送る、楚軍一の猛将項羽。
俺を見るその鋭い眼は、普段より一層鋭利に細められている。
歓迎されてはいないらしい。まぁ、そりゃそうだ。
存亡の危機を援けたにも関わらず、斉は濮陽攻めの誘いを断った。それが原因とまでは言わないが、この膠着状態。
そこへのこのこ現れた俺。
加えて宋義の小言を散々聞いた直後である。
「何をしにきたのだ、斉人。援軍にきたのか? お主一人で」
機嫌が良いはずがない。
鋭い矢のような眼光と突き刺すような皮肉の槍に、背中に冷たく汗が伝う。
「武信君項梁様に兵を出せぬ弁明に。そして暫く楚軍の寝床を拝借いたしたく参じました」
項羽は、はっと呆れたように嘲笑する。
「弁明? 寝床だと? 斉兵が加わっていたところで戦局は動いてはおらぬだろうが、義を欠くお主らに怒っている者は少なくない。寝首をかかれに来たのか」
例えば目の前の……。
「なんなら私が、今この場でその細い首を捻ってやろうか」
ですよね! あなたがその急先鋒ですよね!