128話
意気揚々と臨淄を旅立った訳だが。
……これは寂しいな。
心細いことこの上ない。
思えばいつも誰かが隣にいてくれたもんなぁ。
しかしまぁ、あんな風に大勢に見送られて、
「怖くて帰って来ました」
って訳にはいかない。
田横じゃないけど、格好つけないとな。
さて、これからどうするか。
田栄があの正装をくれたってことはある程度斉の者、密使として動いても許されると解釈してもいいか。或いは俺がどこまでやれるか、試されているのかもしれん。
俺のやらねばならないことは、楚と斉の関係の悪化を避けること、田安、田都、田假の処遇、そして項梁を死なせないこと。
この三つが大きな目的だ。
田安達をどうするか。
やっぱ首をってのは楚も認めないだろうなぁ。
となると身柄引き渡しか、国外追放か。
いや、身柄を渡すのも首をとるのとそんなに変わらない。これも厳しいか。
斉としては楚に、
『田安達は人知れず国から出ました。後は知りませんので戦うなり、捕まえるなりお好きにどうぞ』
という体をとってもらうのが、ギリギリの要求かな。
斉が秦に対して兵を出してくれれば、要求しやすくなる。
そこは田橫の説得に期待するとして。
ともかく最優先なのは項梁の生存だ。
いつ章邯に倒されるかがはっきりわからない今、とにかく急ぎ項梁の元へ行き、前線から退がらせるか、少なくとも防備を固めてもらうよう進言しなければ。
それに軍事を担っている項梁に斉について好印象を持たせれば、楚王への色々な交渉材料にもなるだろう。
となると折角紹介してくれた高陵君には悪いが、宋義に会うのは後回しだな。
問題はどうやって項梁を説得するかだが。
……。
…………。
ま、まぁとりあえず楚の現状を把握しないとな。
項梁達は濮陽を攻めると言っていた。
濮陽は東阿からさらに南西だ。
大きな邑に寄りながら慎重に進もう。
どうか野盗や戦闘に会いませんように……。
「よし、行くか」
俺の寂しさを紛らわす独り言に手綱の先、馬車を牽く馬の耳がくるりと回る。
「一人きりって訳じゃないか」
その反応に少しだけ安心した俺は濮陽を目指し、馬首を南西に向けた。
◇◇◇
鉅野沢の畔で初の敗戦を喫した章邯は、楚軍の追撃に苦しめられながらも濮陽へたどり着いた。
野犬の群れのようにしつこかった楚軍の追撃軍も、さすがに濮陽までは追いきれず、一旦本陣へと帰還したようだ。
濮陽へは東阿で壊滅した軍の敗残兵が、十数人から数十人の集団となって逃れてきていた。
章邯は生き残った将から東阿での戦いの詳細を聞いた。
将は未だに信じられないような口ぶりで楚軍の強さを語る。
「まるで激流の如く、ただ押し流されるまま。気付けば兵は四散し、陣は襤褸布のように……」
――それほどか……。
追撃から受ける圧力を章邯は自身の経験不足かと疑ったが、楚軍を過大評価していた訳ではなかったようだ。
進軍の常外の速度に動揺していたとはいえ、
――やはり尋常な強さではない。
章邯は楚軍を率いる項梁を今までの賊徒とは違う、自身にとって最大の敵だと認識した。
その後も東阿の敗残兵は次々と現れ、その数はおよそ五万、追撃を逃れた章邯の軍と合わせれば十三万を超える。
章邯は濮陽の近く、大きく展開できる場所へ陣を布いた。
近く現れるはずの楚軍を迎え撃つために塁を築くよう指示を出す。
――ここで楚軍を食い止め、傾いた流れを取り戻す。
「防備を整えよ。奴らはすぐに来るぞ」
兵達を叱咤するが、連日続く雨のため営塁の作業は捗らない。
章邯は暗い天を仰ぎ、降り注ぐ雨粒を受けながら怨めしく顔をしかめる。
亢父を攻める前、咸陽で李斯の悪い噂が出回っていると司馬欣からの使者から聞いた。
趙高が権力闘争の仕上げに掛かったと見てよい。
――思えば焦っていたのか。いや、驕りもあった。
後方の喧騒と連戦連勝の驕りが章邯から慎重さを失わせ、敵の策にまんまと嵌まった。
無機質な趙高の瞳。
迫りくる楚の軍勢。
二つを思い出し、章邯の背筋を凍らせる。
屈辱と恐怖で上ずりそうになる思考を、頬を打つ雨と共に拭う。
「この防衛から再び始めるのさ」
雨音に消える言葉を自身に言い聞かせ、章邯は再び塁を築く兵達を督励した。
ひとまずこれで書き留めに入りたいと思います。
三巻の編集作業と書き下ろし、そしてコミックの書き下ろし、私事ですが確定申告などしばらく忙しくなりますが、なるべく早く再開したいと思います。
ご了承下さいませ。