126話
「横殿」
会議の場から離れる田横に声を掛け、中庭へ誘う。
無言で先を歩く田横の背を見ながら、たどり着いた中庭で話を切り出した。
「あれでよかったのでしょうか」
振り返った田横は何か言いたげな、それでいて心内を明かすのを躊躇しているような、なんともいえない表情だ。
そんな田横に俺は本音をぶつける。
「今、楚の力は必要不可欠。先ずは兵を出し、心象を良くした後に田安達のことは粘り強く交渉した方が……」
田横にも分かっているだろう。
できれば田横にそれを強く主張して欲しかった。
「兄上はそういった表と裏を使い分けるようなことはできん。清廉で誠実で在ろうとする男の弟として、誇らしいよ」
誇らしいという言葉とは似つかわしくない、困ったような悲しげな笑顔だ。
俺は何も言わず田横を見つめ、次の言葉を待った。
その様子に田横は諦めたように本音を吐露し始めた。
「……今の兄上は余裕がないように思える」
吐き出された本音の言葉は中庭の土に埋まっていくように重い。
「……従兄の死と市の脆弱な態度が兄上の視野を狭め、心を固くしている。ああなってしまった兄上は、俺の言葉は勿論、従兄が生きていたとて、聞く耳を持たんだろう」
田三兄弟一の激しい気性というのは、このことか。
田横はその性格を知っているから、あそこで引いたのか。
「田安達に対しては楚の返答を待って対処するしかあるまい。向こうも戦力は必要なはず。首を送らぬにしても国外へ退去させるなど、何らかの妥協案がくるかもしれぬし、俺も時を掛けて兄上の心を解きほぐそう」
「……そう、ですね」
俺は、煮え切らない返答をするしかなかった。
その後田栄は、田安達を臨淄へ引き入れようとした田角、田間兄弟が趙へ逃れたと知らされると、趙へもその首を要求したらしい。
楚へ要求したなら趙へも要求する。
一貫して正義を通そうとする田栄の姿は、危うく見えた。
胸に残るしこりを抱えたまま、過ぎ行く日々は重苦しく感じる。
田横も同じなのか、いつもの明るさはない。太陽のような男が曇るとその周りも曇る。
連日の雨も相まって、臨淄の城はくすんだような重苦しい空気を纏っていた。
◇◇◇
城での気の乗らない役務を終え、家へと帰る。
とりあえず急遽借り受けた家であるが、家僕は田横が何人か派遣してくれたので不自由はない。
「お客人でございます」
家門をくぐり、家屋へ向かうと年嵩の家僕が入口で待っていた。
珍しいな。客なんて。
田横や蒙恬などからは、向こうの家に呼ばれるばっかりだしな。
何にもないからな、この家。
「中様」
「琳殿」
自室では蒙琳さんが待っていた。
臨淄へ戻っても仕事は多く、蒙恬の屋敷へ何度か会いに行ったが、婚姻の話もなかなか進んでいない。
蒙琳さんの方から訪ねて来るのも初めてだ。
「何かありましたか?」
「いえ……」
何か言いたげな憂い顔に、不安になる。
結婚待たせ過ぎて……あれか?
マリッジブルーってやつか!?
「あの、本当にお待たせして申し訳ありません。ちょっとその忙しくて、いえ、決して後回しにしている訳では……」
「いえ、そのことではないのです。……中様」
蒙琳さんは慌てて否定し、そして意を決したように俺の目をしっかりと見た。
「は、はい」
ううっ、蒙琳さんに正面から見つめられると、なんか緊張するな。
「何か……思い悩んでおられるのではありませんか?」
…………。
「何かを想い、何か為そうとされているのでは」
……参ったな。
最近、浮かない顔してたんだろうな。
「いえ……俺は何も…………」
何もできていない。
次は俺が、って思ってたんだけど、いつの間にか流れに身を任せてる。
あの時、田横に期待して口を噤んだ。
蒙琳さんは居住まいを正し、俺に向かって微笑みながら、唄うように、紡ぐ。
「中様。中様の言葉は風。心の暗雲を吹き飛ばします」
「中様の行いは水。心の渇きを癒すのです」
「あなた様の言動で誰が不幸になりましょう」
……あぁ、待って、待ってくれ。
これ以上、言われたら、泣く。
俺にそんな力はないよ。
蒙琳さんの買いかぶりだ。
……。
…………。
でも、蒙琳さんの言う力の百分の一でもあるのなら。
少なくとも大雑把な未来を知る有利があるなら。
黙ってる時じゃなかった。
「中様が何かを為せば、それは人々の祝福へ導きましょう。どうか中様の御心のままに」
蒙琳さんはニッコリと笑う。
「私はいつまでもお待ちしております、あっ」
俺は涙が溢れないよう、天井を見上げたまま蒙琳さんに近づき、強く抱き締めた。
◇◇◇
その数日後、楚の使者が返答を携え、再びやって来た。
俺は使者との交渉の場に参加を要請したが、すげなく断られた。
「王位を盗もうとする狗盗を匿い続けるなど!」
互いの譲歩もなく、交渉は決裂したようだ。
皆が集まる議の場に、田栄の辛辣な言葉が吐き捨てられた。
「こちらも兵を出すことはありません」
そう皆に報告する田栄。
俺は決意を込め、強く息を一つ吐き、一歩前に出た。
「兵は出すべきです」
皆が俺を見る。
田横も表立って俺が田栄に反論すると思っていなかったのか、驚いている。
そして反論の先、田横と同じような表情で驚く田栄。
……似てないっていっても、やっぱり兄弟だな。ちらほら似た所があるよ。
心の中で少しだけ笑う。
「中、突然何を言うのです」
驚きの表情から、鋭い目に変わった田栄が厳しく嗜める。
イケメンに凄まれると怖いな。
でも、彭越や項羽の迫力程じゃない。劉邦みたいに得体がしれない訳じゃない。
もっと怖い奴らとやり合ってきたんだ。
口で。
「楚は斉を援けました。斉は楚を援けぬのですか」
現代で営業やってた頃の俺なら、前の会議の時に絶対これを言っていた。そして譲らなかっただろう。
これでも営業所一の営業マンだったんだ。
意見を押す時、引く時のタイミングには自信があった。
俺は臆病になっていた。
田儋や籠城でも少なくない兵の死を間近に観て、知らず知らずの内に臆病になっていたんだ。
俺との出逢いや会話で、死ぬはずもない人を死なせているかもしれない。
そんな思いがあったのかもしれない。
いや、ただ単に国同士の戦いのスケールの大きさにビビって漫然となっていただけかもしれない。
「……楚人は昔から信用できぬ。斉と楚の関係は中も知っているでしょう」
でも、蒙琳さんが言ってくれた。
俺との出逢いで生き残る人もいるかもしれない。
俺が田氏を援けるということは斉に、田栄に従うだけということじゃない。
改めて、自分自身に言い聞かせる。
「斉と楚が昔から争い合っているのはよく聞いています。その険悪な関係の楚が、怨みを置き捨て、斉を援けてくれたではないですか。斉のみが怨みを抱え、受けた恩を捨てようとしている」
俺が導くなんて烏滸がましいが、俺の武器はこの口車しかないんだ。
黙っていたら駄目だ。
機を逸したかもしれないが、まだ間に合うはず。
「項梁は殺人を犯して仇を持つ者。甥の項羽は殺戮を好む。将軍の黥布という男も黥を打たれた犯罪者です。楚は悪の国です」
田栄は楚の主要な人物の非を挙げる。
「論点をずらしてはいけません。国として援けられたのです。そして小事に囚われ大事を見失ってはいけません」
今は個人の資質を問う時じゃない。建前であっても国と国とのやり取りだ。
「王位を掠めとろうとする者を匿うことが小事か!」
田栄の感情的な言葉が俺に向かってくる。
これが斉が楚に協力できない要因だ。
今度は俺がその論点をずらす。
「小事ではありませんが、今の斉には民のために為し遂げねばならぬことがございましょう」
「王を脅かす害悪を取り除くことこそが国を安定させ、民の安寧を守ることになる。それ以上に為すことなどあろうか!」
俺はしっかりと首を振り、応える。
「秦を倒すこと。中華全土に平穏をもたらすこそが、斉の平和を守ることとなります。それに勝る大事がありましょうか」
詭弁だろうが、とにかく一番の大義は打倒秦なんだ。そこへ繋がる道へ目線を向けてもらう。
「楚を悪とするならば、悪を以て巨悪を討ちましょう。楚の力がなければ成せぬことです。斉だけに囚われすぎては時勢を見失います」
秦を討ち倒した時、発言力をどこまで持っているか。それが斉にとって重要になるはず。
国に籠って孤立すれば、次の時代に取り残される。
「中、あなたは…………」
田栄が突然口ごもる。
一瞬、視線が辺りを見回す。
「…………遥か東方から訪れ、知らぬのだ。田氏の、斉という国の、王族としての歴史の重さを……」
『一族の者ではない』
とは言わない。
知っているはずなのに。
言い争っている最中に見える、田栄の優しさ。
だからなんだよ。
確かに俺は斉という国の、田氏の血脈の重みを知らない。
俺が援けたいのは。
俺が出逢った人達で。
俺を援けてくれた人達で。
歴史上の田氏じゃなく。
今、ここにいる田氏なんだ。
田栄は頭を抱え、俺に諭すような視線を向ける。
俺はその瞳に、退かない意思を乗せた視線で応えた。
「楚の使者へはすでに兵は出さぬと応え、帰しました。今さら覆せません」
いや、間に合う。
兵は出せなくても、この口で上手く言い繕ってやる。
「中……あなたがそこまで楚に肩入れする理由は? 斉を出奔し、楚へ仕えようとでもいうのですか」
俺がやる。
俺が楚と斉の裁ち切れそうな糸を結ぶ。
俺が繋ぐんだ。
「……そうですね。楚へ行きます」
「中!?」
周りが騒然となる。
俺を揺らす程の田横の大声が届く。
「斉での職は全てお返しし、私個人として動きます」
田栄の問うような視線が刺さる。
「……清らかな水だけでは魚は死にます。どうか清濁併せ呑む度量を」
俺のこの言葉の裏を田栄は理解してくれたのだろうか。
「わかりました……。何処となりとも行きなさい」
田栄はその一言を残し、部屋を出ていった。