123話
コミックPASH!にてコミカライズがスタートしました。表情豊かな田中達の活躍を是非ともご覧下さい。
面を上げた趙高は重苦しく悩む李斯に、更に絡み付くように声を潜めて語りかける。
「それに実は……三川郡の郡主であられる御長子李由殿について、善くない噂が主上の耳を汚しておりまする」
「なに?」
予想外の話題に李斯は驚き、趙高に詰め寄る。
気の毒そうに眉間に皺を寄せた趙高は、その詳細を語る。
反乱軍の呉広が三川郡の滎陽を攻めた時、李由は城へ籠り続けて別部隊の周文に函谷関を奪われる事態となった。
その後も賊討伐に消極的であり、襄城へ向かう楚の軍を素通りさせ、全ての兵を坑殺される惨劇も生じた。
これは父、李斯が楚の出身であるため同じ楚人に手心を加えているのでは……むしろ裏では賊と繋がっており、国家の転覆を目論んでいるのではないか。
しかし李由一人でそんな大それたことができるであろうか。
となれば李由の父である、李斯の指示であるということも……。
「あり得ぬ!」
思わず立ち上がり、叫ぶ。
確かに野心を持ち、権力欲を満たすために人を追い落とすようなことを行ってきた。清廉潔白な身とは言えない。
しかし自身の出世が国のためとなる、と思ってのこと。この国の発展には、法と政の熟練者である私が必要なのだ、と。
国を、この秦を覆そうなどとは微塵も思ったことなどない。
「李斯殿、落ち着いて下され。これが全くの虚言であり、貴方にそんな気がないことは、私も重々承知しております」
趙高はゆったりと袖を広げ、微笑む。
現状、この宦官の粘つく甲高い声しか二世皇帝の鼓膜を震わすことができないのだ。
この李斯逆心の噂の出所も無論、趙高自身である。
趙高は、二世皇帝の思考へ幾つもの疑惑の種を埋めている。
その種に水をやり、芽吹かせようとする邪悪な醜い笑顔だが、激昂する李斯の血走った目からは慰めの笑みと映った。
「李家は秦の運営に欠かせぬ忠義の一族。しかし、ここ最近の李斯殿は邸宅に籠りがち。そして御子息の戦のまずさ。それがこの噂の種に水を与えおります」
「くっ……」
厳しく客観的な忠告をすることで、親身に悩む姿をとる趙高。
「国を想う気持ち、その身と御子息の潔白を証明するため、上書なさいませ。必ずや主上へお届けいたします由」
それが唯一の解決方法だと言わんばかりに趙高は語る。
その言葉に、李斯は自身の置かれている危うい立場を自覚し、また唸るしかなかった。
「では必ずや、献上いたします」
後日、李斯の上書を預り二世皇帝へ奉ずることを約定を取り交わした趙高は上書を手に、李斯邸から宮殿へと馬車を走らせた。
車上にて趙高は徐に李斯の書を開いて一読し、そして粘つく笑みを浮かべた。
「名文家で自信家の李斯らしい文ではあるが……さて、これがあの主上の胸を打つかな」
◇
宮殿に戻った趙高は庭園で美しい妾達と共に遊興に耽る二世皇帝の姿を認めた。
好機とばかりに小走りに進み、近づく。
「主上、左丞相から上書でございます」
楽しみを中断された二世皇帝は、趙高の手にある書を一瞥すると鼻を鳴らし、
「趙高よ、後にせよ。今は忙しい」
趙高は頭を下げて、退がっていった。
その日の午後、遊び疲れた二世皇帝は眠気を催し、寝室へと向かう。
そこへ趙高が現れ、また
「左丞相からの上書でございます」
と書を掲げる。
「朕は疲れておる。後にせよ」
そう言って、書を取ることなく二世皇帝は寝室へ入り惰眠を貪った。
そしてその夜、琴の音色を聴きながら良い気分で酒を呑んでいると再び、蛇の目をした宦官が近づき、
「上書でございます」
と恭しく書を掲げた。
流石に三度となると、二世皇帝は不機嫌に趙高へ愚痴をこぼす。
「……趙高、趙高よ。朕が日々の忙しい政務から離れ、一時の安息の時に限って何故、李斯の上書を献ずるか」
「丞相からは何を措いても献上せよとの仰せ。何やら火急の案件かと」
趙高は下げた頭をそのままに語り、これが李斯の意向だと告げる。
「……ふん」
やや乱暴に趙高の手から取り上げた書を読み、二世皇帝はあからさまに顔をしかめた。
「これが火急な案件なのか? 記されているのは己の功績と先代の偉業。そして朕への戒め……か?」
李斯はこれまでの秦への貢献から、国への忠誠心を表そうとそれを記し、また始皇帝の業績をなぞり二世皇帝への諫言とし、上書とした。
直接的な言い訳を避けたのは、李斯の名文家としての拘りであろう。
しかしその回りくどい美辞では、二世皇帝が李斯の真意に辿り着くことはできない。
問われた趙高は、何やら考えるように虚空を見つめ、不吉なことに気付いたかの如く目を見開く。
「主上、左丞相には賊と繋がっていると噂があるとお耳に入れたことがこざいましたな……」
「うむ。そのような虚言、信じる朕ではない。趙高よ、それがどうかしたのか」
そう応える二世皇帝を余所に、趙高は「いや……まさか」と首を振ったり「しかし……そう考えれば」などと独り言を呟く。
勿体ぶった態度の趙高にしびれを切らした二世皇帝は、
「趙高よ、お主にはこの書の意図が読めたのか。教えよ」
と趙高に呼び掛ける。
躊躇いがちに二世皇帝との距離を詰めた趙高は、その耳に毒を吹き込む。
「……これは主上が先代どころか、丞相自身にも及ばぬと申しているのではありますまいか。そして諫言という形とし、謀叛を正当化しようと……」
二世皇帝は飛び上がらんばかりに驚き、酒で赤く染まっていた顔を青色に変えた。
その首元を締め付けるように、趙高の推測が続けられる。
「……思えば最近、丞相は邸に籠り、部下を呼び寄せ、政務を指示することが多ございます。そう、まるで自宅が政の中心、宮中であるか如く……」
確かに近頃、李斯が登城しているとは耳にしていない。
「なっ、なっ!? 趙高! 趙高よ! 朕はど、どうすればよい!? 」
二世皇帝は言葉の蛇に絡み付かれ、息ができないように喘ぎながら、趙高にすがった。
趙高はそれを諭すように、ゆっくりと拱手し、口元を隠して声を潜めた。
「落ち着き下さいませ。事を急いて問責すれば逆上し、この宮中へ賊や私兵を向けるやもしれませぬ。私兵だけなら衛尉の兵で守り通せますが、長子の李由が三川郡の兵を握っております。ここは機を見計らい、一気に追い詰めるのです」
「そ、そうなのか、大丈夫なのだろうな? そのこのまま泳がせて……?」
「先ずは三川郡の李由を調べ、賊との内通の証拠を。李由を誅せば李斯を守る壁は低くなりましょう」
既に二世皇帝の頭の中では、疑惑は確信へと変わり、趙高の提案は最善の対策となっている。
「そ、そうか。このまま、あの老獪な狢に秦を奪われるところであった。趙高、趙高よ、よくぞ察してくれた」
二世皇帝は趙高の助言に、落ち着きを取り戻し始めた二世皇帝は安堵の息と共に、趙高を賞嘆した。
趙高は亀裂のような口を曲げて笑みを作り、
「天に代わり、国を治める主上を煩わす危難を払い、安息を守るのが小職の任であり、生き甲斐でございます」
そう深く拝礼をした。
衛尉 (えいい)
宮門を守衛する兵を管轄する官位。九卿の一つ。
本年の更新はこれが最後となります。
この一年は書籍発売、コミカライズ、タイトルだけ大賞個人賞、このラノ掲載と「あと田中」にとって本当に素晴らしい一年でした。
来年も引き続きマイペースで執筆活動をしていこうと思います。
よろしくお願いいたします。ありがとうございました。