121話
コミカライズの情報が公開となり、イラストと共に活動報告に挙げております。
また今週18日には、ノミネートさせて頂いている「日本タイトルだけ大賞」の放送がニコ生にて行われます。こちらも一つ前の活動報告にバナーを付けていますのでご興味のある方は是非。
少しでも触れて頂けたらありがたいですね。
――いつかは。
――勝ち続けるしかないとはいえ、全ての戦に勝てるとは思ってはいなかったが。
――ここで敗けるか。
章邯は退却する戦車の上で臍を噛んだ。
亢父の項梁軍と東阿から引き返してきた項羽軍に挟撃の形を作られた章邯は僅かの間、逡巡した。
――私が命を賭けるのは失わぬための戦いではなく、何かを得るための戦いが善い。
迷いが命取りになると素早く判断した章邯であったが、その一瞬の逡巡すら許さぬ者がいる。
「敵の追撃が迫っております!」
臆病な狗のように腰の引けた項梁の軍が、今や虎の如く追いかけくる。
そして驚くべきことに、後方から迫っていた項羽の軍もその勢いのまま追ってきている。
「東阿で一戦交えて来たのだろう……くそっ、楚兵の足は食らった猪の足とでも取り換えたのか!」
章邯の罵声は頭上の厚い雲に阻まれ、迫る楚軍には届かない。
林でもあれば弩兵を潜ませることができようが、大軍が通る道。広く開けた風景が続く。
やがて殿軍が捉えられたと報告が入り、章邯の強く噛み締めた唇から血が流れた。
◇
殿軍の命を犠牲に時を稼いだ。
その時を使っても体勢を整える暇はないと判断した章邯は、
「濮陽まで退く! 駆け続けよ!」
鉅野沢の北で挟撃された章邯は南西の城陽へは退かず、掌握した魏国内や趙を攻めている王離からの増援を考え、ここから真西の濮陽を選んだ。
連戦連勝であった章邯の初めての敗北。
これによって活発に動き出すのは、各地の反逆者達だけではない。
章邯が警戒しなければならないのは、目の前の敵だけではないのである。
――宮中の蛇が動き出す前に、この敗北を取り戻さねばならん。
昼夜問わず濮陽へ駆ける章邯は、反撃のための思考を巡らし続けた。
◇◇◇
章邯を追いに追った項羽軍だが、さすがに連日連夜の強行軍に限界を迎え、濮陽までは追いきれず、その足を止めた。
しかし項梁軍と合流した項羽達は、この流れを止める手はないと話し合う。
「今が攻める好機」
自身の献策が見事にはまった項羽は気も充実し、疲れも知らずにさらなる攻勢を提言する。
軍議の場が小で大を討った達成感と項羽の覇気に支配される。
その熱は、自身が兵を率いて章邯を追撃し感じた手応えと相まって、項梁の慎重という鎧を脱がす。
「まずは十分な休息を取る。その後項羽、劉邦は城陽を獲れ。黥布は私と共に定陶を攻めよ」
「はっ」
――項羽は手元に置くより自由にやらせた方が善い。
再び軍を分けるという項梁の命に、諸将の腹の底からの応答が熱波のように空気を震わせた。
陳勝、呉広が創った反乱の炎は、章邯によってこのまま消されていくかにみえたが、項梁という火種を手に入れ再び燃え上がろうとしていた。
しかしその火種ですら、次の時代の主を照らすための物でしかなかった。
◇◇◇
東阿を囲む秦軍は、俺達が姿を現すと激しく動揺したようだ。
日数、勝敗、全てが裏切られ、目に見えて慌ただしく誰もが陣の中を駆け巡っている。
東阿城に近付く無数の楚の旗、そして一つだけ掲げられた斉の旗。
秦軍に囲まれた城壁の上でもそれが認めたのだろう、遠目に見える兵から声が上がる。
「田横将軍」
龍且に促された田横は先頭に進み出、旗持ちの兵から受け取った斉の旗を天高く掲げ、大きく振った。
城壁の上に立つ兵が、次々に増えていく。
「東阿の兵よ! よくぞ耐えた! お主達を縛る秦の鎖はここに残る奴らのみだ!」
田横は振っていた旗を前方に傾け、空を震わす大声で秦兵を指す。
聞こえているのかどうかわからないが、その田横の姿を見て城壁に立つ兵達から一際大きな歓声が上がった。
「全軍前進」
龍且の太い声が響き、太鼓が打ち鳴らされた。
対する秦軍は、城に向けていた陣形を必死に転換しようとするが間に合うはずもない。
不十分な陣形に龍且と楚兵は鋭い槍となって突き進む。
鎧袖一触とはこのことか。
草木を刈り取るように秦兵は倒れていく。
城に籠る斉兵が、待ちに待ったその好機を見逃すはずがない。
城の門が開き、雪崩れ出る兵達。
今までの籠城で溜め込んだ鬱憤を、全て手に持つ武器に込めて敵にぶつける。
速攻の巧みな龍且軍と、最後の力を振り絞る斉兵に挟撃されることとなった秦の包囲軍は、さしたる時も掛からず駆逐された。
生き残った秦兵も攻城兵器もそのままに、定まらぬ方向へ逃れていく。
東阿の兵達が歓声を上げる。
耐えきった。
守り抜いた。
助かった。
その想いが叫びとなって、空と大地に木霊した。
◇
「横!」
俺達は東阿の兵達の勝鬨の声の中を進むと、城門の前に田栄が待っていた。
俺達が東阿から抜け出た時より一層やつれたように見えるが、その瞳には喜びと安堵の光を湛えていた。
「兄上!」
互いの腕を取り合い、しっかりと頷き合う兄弟。
「よくぞやってくれた」
「兄上こそよくぞ耐えられた」
田栄の賛辞に首を振り、田横は兄を称える。
じっと堪え忍ぶだけの日々は心を削られただろう。
体力的に厳しくとも、あちこち動き回れた俺達より辛かっただろう。
「際どいところであったよ」
安心からか、田栄の口から本心が溢れる。
「兵糧もあと一月程は備えがあった。しかし、人は食だけで生きていけるものではない。横、あなたが援軍を引き連れ帰って来る。それを支えに皆、耐えることができた」
田横は微笑み、またゆっくりと首を振る。
「王を喪った失意の兵を鼓舞し、纏め上げたからこそ。援軍が来ると励まし続けたからこそ。そして俺を信じ、待っていてくれたからこそだ」
田栄の腕を掴んだ田横の手に力が込められた。
「東阿を守ったのは、他でもない兄上だ」
その言葉に溢れる物を堪えるためか、田栄は顔を天に向けた。
籠城の辛い日々。
万感の想いが空に放たれ、溶けていく。
兄は弟を信じ、弟は兄を信じる。
いい兄弟だよな、本当に。
周囲からすすり泣く音が聞こえる。
あ、ヤバい俺も泣きそう。
「さぁ兄上、援軍の龍且将軍にお引き合わせしよう。礼をせねばならん」
田横はからりとした笑顔で気を取り直し、後方に控えていた龍且に振り向く。
……そこには。
とめどなく流れる涙を拭うことをせず、グシャグシャに顔を歪ませ泣いている龍且がいた。
「……龍且将軍この度の援助、誠に感謝いたします」
龍且の様子に田栄が遠慮がちに話しかける。
「ぜ、ぜ、斉をたすけるのば、ぶ、武じんぐんのい、いし」
泣きすぎて何言ってるのかわからん。
「……龍且殿も我らも疲労の極み。落ち着いてからお話しましょう。籠りっきりで少々荒れてはおりますが、城で暫しお休み下さい」
「う、うぶ。ぞうさていただこう……グズッ」
龍且は田栄の提案に鼻を擦りながら頷き、城へと案内されていった。
……たぶん、あいついい奴だな。