表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
125/169

118話

 章邯が三川郡の寄越した二万程の援軍と合流し城陽(じょうよう)へ到着する頃、項梁率いる楚軍によって亢父(こうほ)が陥落したと報が入った。


 ――ここから奴らがどう動くか。


 章邯は城陽でその眠たげな目を見開き、楚軍の動きを注視する。

 やがて亢父の楚軍が東阿へ向けて出発し始めた。


 章邯もそれに合わせ城陽を出、楚軍の後ろに付くべく軍を北に進めた。



 しかし続いて入ってきた報が章邯を迷わせる。


 亢父を出たのは前軍のみ。龍且を先陣としたおよそ五万。

 項梁がいるであろう後軍は亢父に留まったままだという。



 章邯は進軍を止め、項梁が亢父に残る意味を考えた。


 ――挟撃狙いか?


 それにしてはあからさま過ぎる。


 ――ならば亢父から動かぬか、それとも項梁軍のみで西へ向かうつもりか。どちらにしても軍を分けるのは悪手だろう。


 項梁軍が亢父に籠るつもりなら進路を変え、亢父を攻めればよい。西に向かうなら軍を(ひるがえ)して、東に向かい正面からあたる。


 ――項燕の子と買い被り過ぎたか。


 亢父に残る兵はおよそ五万。

 十万対五万であれば勝利ばかりか項梁の首を狙える。


 北に向かった前軍も五万。

 東阿の軍も包囲戦でいくらか減ってはいるが十万近くは残っている。


 ――どちらにしても前軍が戻ってこれぬほど進んだ後、動けばよい。しかし……。


 何か腑に落ちぬものを感じながらもそう結論付けた章邯は、城陽の東にある鉅野沢(きょやたく)と呼ばれる大湖に沿ってゆっくりと北上し、東阿に向かった楚の前軍に多くの斥候を放った。



 前軍が出発して三日目の朝、漸く項梁の軍が動いた。

 北へ向けてゆっくりと進軍を始めたのである。

 その数およそ四万。一万を亢父の守備を残したようだ。


 ――なぜ今更北へ? ただ出発が遅れただけなのか……?


 いずれにしても好機である。

 現在、鉅野沢の西にいる章邯はこの大湖をぐるりと南に回らねば項梁の背後には回れない。

 流石にそれでは時が掛かり過ぎ、前軍と合流されてしまうだろう。


 ――ならば数の優位で正面から叩き潰す。


 楚の前軍はすでに引き返せる距離ではない。反転すれば東阿の迎撃軍が背中を襲う。


 ――強行軍が仇となったな。


 鉅野沢の対岸を北へ向かう項梁軍に合わせ、章邯も北へ。

 そして先行した章邯の軍は、大軍が展開できる場所を選び歩みの遅い項梁軍を待ち構えた。


 ◇


 項梁軍のあまりの遅さに待ち構える章邯軍の余裕が焦りに変わり始めた夜、項梁軍が漸く姿を現した。


「現れたと思えば……あれか」


 帯陣する章邯軍を前に項梁軍は遠めに構え、あからさまに守りの陣を敷いている。


 しかし、章邯軍と項梁軍の兵数の差は明らか。夜襲さえ警戒し、明日の朝を待って正面から衝突すればまず勝利は間違いないだろう。


 守勢に回ろうとも滅びの時が延びるのみ。逆転の余地はない。



「……何かを待っているのか? まさかな」


 あり得ぬと否定し続ける予想が頭から離れない章邯の元に、そのあり得ぬ報が届く。


 楚の先行する前軍に付けた斥候の一人が青顔で転がるように駆け寄ってきた。


「と、東阿の軍は楚の前軍によって壊滅! 前軍はそのまま反転し、既に我が軍の後方に迫っております!」


「なっ……!」


 亢父から東阿まで通常の行軍で十日。強行軍でも六日はかかる。

 あの前軍が亢父を出て、今日は九日目である。


「その間に東阿に着き、数で勝る迎撃の軍を下し、そしてこちらに折り返したというのか?!」


 章邯は普段からは想像もできぬ形相と大声で斥候に詰め寄った。



 ◇◇◇



 無茶苦茶しんどい……。


 亢父から項羽達の軍と出発した俺達、斉の軍団は互いに励ます気力もないほど消耗していた。


「東阿まで駆けるぞ」



 亢父から東阿までおよそ四百里。


 二日間駆けて、一日休息。

 また二日駆け続けた。


 楚軍から借り受けた馬車に乗る俺達や騎馬はまだいいが、歩兵達は声もなくただ荒い息だけが聞こえる。

 その場に倒れこむ兵が何人か出てきた。


 田横や俺に代わり馬車に乗せて休ませたりはしたが、その数は増え続け、


「後で追ってこい。待っておるぞ」


 田横は言葉を残し、置いていくしかなかった。

 楚の歩兵達は足が四本あるんじゃないのかと思うほど速度も一定に進んでいる。



 それを横目に見ながら、とりとめもないことを考える。

 中華南部に住む楚人は中華の中心部、所謂中原の人に比べて背が低く、体つきも細い。

 細いといっても貧弱ということではなく、引き締まっているという感じだ。


 長距離走とかに向いている人種なのか。


 それから食べ物。南部の人はこの時代でも米が主食だそうで北部は粟や麦だ。

 なんとなく米食の方が持久力がある気がする。


 まぁ、これは俺は研究者でも何でもないからあくまでそんな印象というだけだが。


 後は国民性か。聞いた話だと楚人は良くいえば情熱的で、悪くいえば執念深いらしい。


『家が三軒になっても秦を滅ぼすのは楚人だ』


 なんて詩もあるらしく、秦に対する怨みは相当に深い。

 最初に反乱を起こした陳勝(ちんしょう)達も楚人の集まりだったもんな。



 そんなとりとめもないことがポツポツと浮かんでは消える。


 自分の呼吸の音を(うるさ)く感じ、どうでもいい考えが余計にまとまらない中、馬車を()く。


 そ、そろそろ歩くの代わって欲しいなぁ……。


 馬車の中でへばっている兵をチラチラ見ていると、急に停止の命が出て行軍が止まった。


 おお、休憩か……。助かる……。



 しかしそれは休憩ではなかったようで、先陣の龍且から各将へ伝令が走る。

 斥候が東阿の近く、秦軍が陣を張っているのを発見したようだ。


 ◇


「あちらはまだ気づいておらん。捕捉される前にこのまま襲いかかる」


 将が集まり、項羽がそう宣言する。

 兵を休めなくて大丈夫か? 疲れて戦えないんじゃないのか。


「下手に休めば疲れが出る。まだ来ぬと、たかをくくって油断しているところを突いた方が勝ちやすい」


 ……一理あるか。


「先陣の龍且は敵陣を駆け、後方まで突き抜けよ。黥布はその支援と裂けた陣の傷口を拡げよ。乱れたところに私と劉邦殿で突っ込む。田横将軍は……」


 次々に指示を出す項羽。最後に田横へ顔を向け、問い掛ける。

 その表情は、

『お前はどうする。後ろで観ておくか?』

 と挑発しているようにも見える。


 男らしいイケメンなのに、損な顔だ。



「龍且殿に付き、共に先陣を駆けたく」


 田横は引き締まった表情で応える。

 挑発に乗った風ではなく、最初から決めていたようだ。


「大丈夫かい? 斉の兵達はこの行軍で相当へばっているだろう」


 劉邦が流石に茶化した皮肉ではなく、真面目に懸念を示す。

 足並みが揃わねば軍全体に影響が出る。


 田横はその不安を否定する。


「確かに慣れない強行で俺達は疲れているが、斉の存続がかかっている戦いだ。ここで後ろに隠れている訳にはいかん」


 項羽は少し考えた後、意外にもすんなり許可を出した。


「よかろう。我らの兵でも幾らか脱落者が出るほどの行軍を付いてきた。その気力は体力を凌駕し敵を打ち倒す力となるだろう。先陣に付いて頂く」


 そしてやはり一言続けた。


「しかし、気力は漲っておっても少数。龍且に従い、陣を乱さぬよう」


 無意識の癖はすぐには治らないよな。


 しかし田横は、その一つ多い言葉にも力強く頷き、軍議の場を後にした。



斉兵の元へ戻る途中、田横は付き従っていた俺に振り向いた。


「中、兵達の士気を上げられんか。疲れが吹き飛ぶような励ましがほしいな」


 んな無茶ぶりを……。

 しかし、まぁそうだな。


「うーん、こんな感じで……」


 俺は田横に向かい、激励の演説のようなことを語った。


「ふむ。さすがの弁だが、ちと大言すぎるというか、恰好付け過ぎではないか?」


 たしかにクサい文言だと思うが……それより、


「何を語るか以上に誰が語るかが大切かと思います。私が語るより横殿の言葉の方が効果的でしょう。横殿が語ってください。あと皆の前で語る言葉なんて大げさで、格好つけるくらいで丁度いいもんです」


 ふん、と一つ息を漏らし田横は顎を擦る。


「そういうもんか」


「そういうもんです」

里 (り)

古代中国の距離の単位。一里=約400m。

現代日本のでは一里=約4km。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ