117話
先々週から体調不良のため、感想の返信が遅くなり、申し訳ありませんでした。
大分回復しました。
章邯反乱鎮圧は、表向きには順調に進んでいた。
魏の首都臨済を囲み、魏王咎を自決に追い込んだ。
その援軍に向かってきた斉王も奇襲で討ち、追撃で主力軍は東阿の城に押し込んだ。
粘り強く籠城しているが落城は時間の問題であろう。
頭領を失い、主力の軍も壊滅となれば斉は枯れた木のように容易く倒壊するだろう。
――魏、斉の次は張耳と陳余が強かに抵抗を続ける趙か。
魏国内の掃討に回りながら章邯は次の標的を探していた。
しかしその内情では様々な問題を抱えている。
一つは兵の問題。
最初から付き従っている罪人や奴隷上がりの兵達は幾多の戦闘を経験し、今やどこに出しても恥ずかしくない強兵となった。
激闘を共に乗り越え、自信と誇りを持ち始めた彼らは仲間意識が強い。実際、その仲間を想う気力が強さに繋がっている。
だがその仲間意識ゆえに、増員される新兵と馴染まない。
新兵の方も募兵、徴兵で集められた市民であり、この古参の兵達を未だ罪人、奴隷という目で見る者がいる。
古い革の穴に新たな革で継ぎ接ぎしたような兵達。
訓練などで多くの時を共有させればやがて馴染むであろうが、今現在そのような悠長な時はない。
互いに腹に暗い物を抱えている中で、実戦に投入しなければならない。
そしてもう一つ。
戦い続ける章邯の後方、彼を支えるべき咸陽の宮廷はより不穏さを増しているようである。
新兵の増員や輜重を要請しながら、その人脈を活かし宮廷の情報を集める司馬欣から度々文が届く。
ここにきて宦官趙高が丞相李斯派の者を排除する動きがあるようだ。
毒蛇がまた動き始めた。
――いよいよ秦の表裏共に支配しようというのか。
司馬欣からの文に目を通した章邯は舌打ちしたい気持ちを抑え、東に向かわせていた斥候の一人を部屋へ迎えた。
この斥候は驪山罪人上がりではなく元々軍属であり、その斥候能力の高さと弩の扱いの上手さを買われ章邯自ら咸陽の守備隊から引き抜いた。
ただ弩に対する執着心が強く、顔を合わせる度に、
「現場での応急処置では限界があります。一度咸陽の工房で調整をさせて頂きたい」
と口煩く要請してくる。
「わかっている。工房で新たな弩を造らせている。今に補給が来るだろう」
そう応えても『手に馴染んだ弩でないと……』『工房の者と相談しながら改良を……』と引き下がらない斥候を、のらりくらりと躱しながら部屋から追い出す。
そろそろ一度、咸陽に戻り兵を休ませたい気持ちもある。
しかし咸陽からは『引き続き賊を討伐せよ』
と漠然とした命があるだけで帰還の命は出ない。
仮に出たとしても鎮圧の最中だとか、周辺の守備に不安が残るだとか、何かしら理由を付けて拒否するだろう。
章邯が戻れば適当な罪を着せられ軍権を他の者に奪われるだろう。
あの蛇の息のかかった者に。
――勝ち過ぎた。誰もが無視できぬほどの功績を上げた。
それは現在の秦では、妬みや権力欲の渦巻く宮廷では、手放しに喜べることではない。
――しかし負けるわけにはいかぬ。
国家の存亡、兵の命、そして何より己の証明。
章邯は戦場に出て自身の内側に隠されていた顕示欲を自覚した。
「我ながら俗物だな」
斥候の去った部屋で独り、そう自嘲した。
◇◇◇
「楚の中心人物である項梁が、東阿に籠る田栄の救援に向かうという」
弩好きの斥候の報を受けた後、章邯は部下を集めた。
「陳勝の残党をまとめ、周辺の小勢力も次々に吸収し、楚王の末裔を擁立した男だ。そしてあの周文の主項燕の子でもある。ならば周文以上と見積もっていた方がよい」
今のところ章邯にとって、最大の難敵であったのは項燕の属官であったという張楚の周文である。
項燕の子がその兵法を学んでいないとは考えにくい。
「兵が互角以上のうちに一度、叩いておきたい」
楚王は領地の奥へ引っ込んだようだが、国を支える柱は明らかに項梁である。
「上手くすればその柱を倒せるかもしれん。柱を倒せば家は自ずと倒れ、中の鼠も四散五裂し再び大きく集結することはあるまい」
そうなれば残る目立った勢力は趙だけということになる。
その趙も補給路は確保できており、先日の援軍もあって王離軍が有利に事を進めている。
「あちらが巣穴から出てきてくれるなら、この機に狩るのが最善。江水の向こうに逃げられれば面倒だしな」
――どちらにしてもそのうち江水は渡らねばならんがな。
心でそう溜息を吐いていると、
「では、東阿の包囲軍と合流して迎え撃ちますか?」
部下の一人が尋ねてくる。
「いや、楚が真に斉を援けるために東阿を目指すかは未だ疑問が残る。突然軍を西に向ける可能性がない訳ではないからな」
そう言って章邯は机上の地図を指差す。
「我らは西への侵攻を抑えつつ北上するなら背後を突けるよう先ずは城陽へ向かう」
地図上の指が城陽から東阿へ弧を描いた。
その動きを見ながらまた他の部下が意見を述べる。
「しかし魏国の守りに兵を割かねばなりません。やや兵数に不安があります」
「大丈夫だ。三川郡に援軍を要請する。郡守の李由殿も手柄を挙げねば危うい立場だ。嫌とは言うまいよ」
以前、三川郡は陳勝の軍に郡都滎陽を包囲され、落城を座して待つしかないところを章邯に助けられた。
郡守の李由は章邯に感謝と父である丞相李斯の派閥に取り込もうという思惑のもと、城門の前まで迎え出るほどの歓待を見せた。
しかし章邯は宮殿での権力争いに巻き込まれまいと、その歓待を断り休息もせず滎陽を後にした。
李由にしてみれば最大限の謝意を袖にされ、章邯を腹立たしく思っていることは想像に難くない。
が、ここ最近の李由の評価は芳しくない。
陳勝の軍を相手に城に籠りっきりで助けられ、また最近では項羽の軍を素通りさせ襄城が略奪された。
そしてここにきての趙高派の父、李斯排除の動き。
ここで章邯に協力し手柄の一端でも担わなければ、自身の失策がその排除の一因として利用されると危機感を募らせていることだろう。
「四万ほど援軍を要請すれば、二万は寄越すだろう。それで魏の守りに割く兵数は補填できよう」
章邯は皮肉な笑みを浮かべた後、部下を見回す。
「さて、項梁の行軍は速いともっぱらの噂だ。準備が整い次第城陽へ急ぐぞ。東阿の軍は城の包囲に最低限を残し、南からの楚軍を迎え撃てる地にて陣を張るよう伝えよ」
章邯はそう言い、部下達を解散させた。