113話
暗闇を小さな灯を頼りに進む俺と田横は、出口が近くなるにつれ、緊張が高まり無言になっていく。
「そろそろ外だ。明かりを消そう」
薄く月明かりが見え、田横の囁く声に灯を吹き消した。手探りで慎重に進む。
通路から出ると、そこは背の高い草の茂る河岸だった。
雲が薄くかかった月が頼りなげに河面を照らす。
今はその優しい明かりさえ陰ってくれ、と念じてしまう。
暫く動かず周囲を探る。
やがて誰もいないことを確認した俺達は立ち上がりなるべく静かに、だが駆けるような速度でその場を離れた。
「博陽まで歩けば時間が掛かる。どこかの邑で馬を手に入れよう」
前を走る田横は星を観、進むべき方向を指し示した。
◇◇◇
東阿の城を密かに抜け東に位置する博陽へ向かう。
秦軍の斥候を警戒し済水まではその足で歩いた。
済水を渡ればまだ秦軍の兵はいないだろう。
夜明けと共にこの大河を渡った後、斉の領地である邑で馬を借り博陽へ向けて駆ける。
「乗馬が上手くなった」
「これだけよく乗っていればね。尻の皮も厚くなりました」
馬上から軽口が叩ける程度には上達したな。
休憩もそこそこに、ひたすら駆ける。途中、また邑に寄り馬を交換してもらった。
その日の夕刻、博陽へと辿り着いた。
門兵は俺達を驚きと喜びをもって迎えてくれた。城へと伝令に走る。
城へ向かった俺達を出迎えてくれたのは、蒙恬がかき集めてくれた臨淄からの援軍。
その先頭に立つ、どこか見覚えのある男が手を組み頭を下げる。
「田横将軍、お尋ねしたいことは多々あれど先ずはよくぞ御無事で」
この援軍の隊長のようだ。
歳は田横と同じくらいか、少し上か。真面目で頼りがいがありそうな男だ。
「この兵を率いているのはお主か。順調に出世しているようだ」
ああ、思い出した。
この人蒙琳さんが誘拐された時に、事情を説明してくれた衛兵の人か。
確か元は田都に従っていて狄から臨淄を攻めた際、城の守備として捨て駒にされ田横に降ったんだったか。
田横が気にかけていたようだが、軍を率いる立場にまでなったのか。
「お主と話すのは急迫した時ばかりでまだ名を聞いてなかったな」
隊長の後ろで並んだ兵を見やり、田横はその整然さに頷き、尋ねた。
「田解と申します」
その名にほう、と声を漏らす。
「お主も田氏か」
田解は生真面目な表情を変えず応える。
「臨淄で石を投げれば田氏に当たると申します」
何それ。そんなことわざみたいなのがあるの? 実際臨淄には田氏がとても多いらしいが。
「いつ別れたとも知れぬ枝葉の家でありますが、田の氏を持つならばと田假に仕えておりました」
同じ氏を持つ誇りで、旧王族に仕えていたのだろう。しかし奴らは傲慢で酷薄で彼を使い捨てにしたと。
「そうか、お主の力量を見抜けぬ者に仕えておったのは不幸であった。しかしこれからは俺が見ている。蒙恬殿もお主を見込んでの人選であろう。励めよ」
「はっ」
田解は太い眉をキッと吊り上げ短く応え、また手を組み頭を下げた。
◇
「将軍の突然の来城、感嘆と歓喜で兵たちが沸いております。しかし将軍は東阿にて籠城中でおられたはず。蒙恬様は我らをその一助にと臨淄から送り出しました。……まさか東阿は」
俺達を博陽の城に案内した田解は、この予想外の来訪に東阿の落城を推測したようで固い表情だ。
田横は笑顔でその懸念を払拭する。
「大丈夫だ。東阿は落ちておらんよ。反撃の機が巡ってきた。俺と中はお主らと合流し、秦軍に一杯食わせるために東阿を抜けて来たのだ」
楚からの援軍が向かっていること、この二千の軍を斥候とし秦軍の動向を楚軍へ届けることを伝えた。
「それはこの上ない朗報。正直、この二千で何が出来るかと頭を悩ませていたところです」
田解は田横の言葉に張りつめた気配を緩めたが、すぐに気力を漲らせた。
「楚の出帥はすでに章邯にも伝わっていよう。章邯がどう動くかを探りたい」
田解は部下に声を掛け、地図を持ってこさせ俺達の囲む机に拡げた。
「楚軍は先ず全軍をもって亢父を獲るようだ。そこから西を窺いつつ、東阿に向ける軍を出す予定だそうだ」
高陵君から届いた楚軍の行軍予定を話しながら地図を睨む。
「常識的に考えれば東阿近くで全軍合流して、南から来る楚軍を迎撃です。ならば濮陽経由でしょう」
田解は地図上の東阿の南西、濮陽を差した。
「うむ、しかし章邯は策を好む」
素直に合流し、待ち構えているかどうか、か。
「章邯の得意は奇襲や挟撃……」
俺の呟きに田横が応える。
「小回りの利かぬ大軍相手。俺が章邯であれば今回も挟撃を狙う。北上する楚軍の背後に回れる場所へ向かうだろう」
夜襲は前回の今回で流石に警戒されると思っているかな。しかし田横の言うとおり挟撃を狙う可能性はある。
挟撃であれば、分かっていても動きの鈍い大軍。防ぎ様のないこともある……かも。
「中はどう見る」
田横の問いに俺は空を見つめ、自身を章邯の立場として考える。
田横の考える章邯は攻めの章邯。
ならば俺は守りや運用から考えてみるか。
うーん、章邯は魏の各所の守りに幾らか兵を置いていかねばならんが、それでも大軍だろう。
それが待機できる城で……
「北に向かう楚軍が西へも侵攻するのを警戒しつつ、しかも東阿へも軍を出せる場所。尚且つ背後から挟撃を狙うなら……」
いつの間にか出ていた声に反応し、
「となれば」
田横が地図のある一つの場所を指差す。
「城陽か」
俺は地図から目を離し、田横と頷き合う。
うん、同意見だ。
東阿のやや西よりの南。亢父からはほぼ西。
柔軟に動くならいい場所だと思う。
「素直に濮陽という線も捨てきれませんが……」
濮陽か城陽か。
俺の軍学なんて少し蒙恬に習っただけの付け焼き刃だ。
田横と意見が一致したのは安心したが、相手は百戦錬磨の章邯。
考えれば考えるほど自信がなくなってくる。
しかし話を聞いていた田解は納得したようで、
「いえ、お二人の推察ご慧眼と存じます。秦も大軍。城陽周辺を見張っておれば例え濮陽であったとしても対応できましょう」
そう言って、生真面目な表情を崩さず拝礼した。
「よし」
田横が結論を下す。
「城陽のつもりで探る。備えとして少数、濮陽の辺りも斥候を出そう。急ぎ動こう。できれば楚軍が亢父を獲る内に伝えたい」
こうして軍議を終えた俺達は、急ぎ城陽周辺を探るための準備を整え博陽を飛び出した。