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111話

「楚は魏の再興をお援けするであろう。先ずはその心身を休め、その時に備えなされよ」


 項梁はすぐにでも逆襲に動こうとする魏豹を諌めた。


「はっご配慮ありがたく……」


 魏豹も、項梁の援助がなければ一城も取り戻すことは出来ぬと逸る気持ちを抑え、謝辞を述べ、楚に留まることとなった。



 この兄の仇と国の復興を目指す魏豹を眩しく見詰める男が劉邦の陣営にいた。


「魏豹殿が気になるのかい」


「いえ……」


 劉邦の問いにその長く艶やかな睫毛を伏せ、歯切れ悪く応える。


「最近身体が優れぬと言っていたが、それだけではないだろう」


 張良は躊躇いがちに劉邦へと願い出る。


「沛公……」


「いいぜ、行きなよ」


 驚きで、翡翠のような美しい瞳が大きく見開かれた。


「この間、項伯殿と言ったか? 項梁の親族にあったあとから様子がおかしかったからな。何か胸に秘めた大事があるのだろう?」


 人好きする笑顔で語る劉邦に、全てを見透かされた張良は揺れる瞳から静かに涙を流した。


 そして事の経緯を話し始めた。


「私は韓の宰相の家柄でございました。秦の侵略に国が滅ぶ時、私は弟に逃がされました。……歳若い弟は私に生きよと。生きて秦に雪辱を。韓の復興をと。それが、生かされ託された私の悲願であり、唯一の生きる糧でございました」


 貴方に出逢うまでは。

 という言葉を張良は呑み込む。


「項伯殿を訪ねた時に韓王の子、横陽君(おうようくん)せい様がこの薛へ居られることを知らされました」


 劉邦の耳は、張良の清流のような声の中に強い決意と決死の覚悟を聞いた。


「項伯殿も項梁殿へ援助を掛け合って頂けるとのこと。成様を奉戴し、韓の再興を目指したく。公からお別れしなければなりません」



 貴方の行く末を、貴方の描く未来を側で見てみたかった。


 また叶わぬ想いに口をつぐんだ張良。


 劉邦は一度、空を仰ぎ、


「ちくしょう!!」


 と大きく叫んだ。

 そして張良に向かい、変わらぬ柔らかな笑顔で頷く。


「お主の悲願が叶うよう、祈っておる」


 そう言ってカカッと大きく笑い、張良の背中を押した。


「本心では泣きたくなるほど残念だがな。韓が再興した時、俺が路頭に迷っておったら雇ってくれよ!」


 片目を瞑り、笑う劉邦に張良の瞳はまた涙で濡れた。


 ◇


「見栄を張りましたな」


 去っていく張良の背中を眺めながら、夏侯嬰が言う。


「うるせぇよ……。行くなと言っても、あのまま心労で死にそうだ。いつか外からの助けになるかもしれんだろ」


 劉邦は、夏侯嬰を軽く小突くと大きくため息を吐き、


「はぁ……。張良といい、田中といい、俺がこれはと思う者には唾がついてやがる。まぁそれだけ俺に見る目があるということか、ハッ……」


 そう自嘲するように疲れた笑いで自身を励ました。



 そんな数多くの出逢いと別れ、悲願と希望が交錯する薛の地にまた一人の使者が、強い決意を胸に東阿(とうあ)からたどり着いた。



 ◇◇◇



「田中様、もうちっと食事の量なんとかなりませんかね。あれぽっちじゃ力も出ません」


 昨日申し訳なさそうにそう言ってきた兵長が、今日の防衛で死んだ。



 昨日まで笑いあっていた人が、物言わぬ遺体になる。


 そんなことが、そう珍しいことじゃなくなってきた。

 悲しさはある。でも涙は流れなくなった。


 そのうちこの悲しさも麻痺して、何も感じなくなるのだろうか。



 食糧はまだまだ持つが、先のことを考えて配給している。

 幸い水路があるため水は豊富にあるが、燃料節約のため濡らした布で拭くだけ。


 もう鼻が慣れたのか、汗や垢、血の匂いも気にならない。



 籠城は続いている。


 今日で何日目……二ヵ月は過ぎただろうか。

 もちろん数えれば分かるが、そんな気も起きない。


「田中様、この籠城いつまでっ。……いえ、なんでもありません」


 俺と同じく初めての籠城を経験している同僚が、思わず出かかった言葉を飲み込む。


 俺は力の入らぬ頬に精一杯の笑みを作り、


「相手も疲れているようで、攻撃の手が弛んできています」


 まだ同僚を気遣う言葉が出る辺り、俺もまだまだ冷静なのか。


 田栄や田横がまだ王になっていない。


 すでに歴史が変わっている可能性も捨てきれないが、彼らがここで死なないということはこの籠城は負けないと思っている。


 助けは来る。

 そう信じている。



「中」


 背中からの声に振り向く。


 そこにはややくすんだ外見となった田横。

 肌や髪は汚れて乱れてはいても、その活力までは失っていない。


 機敏な動き、張りのある声、しっかりと見開いた目。


 そんな田横の様子を見るだけで、『まだ大丈夫、まだ戦える』と兵達は安心する。


 田横自身もそれを理解していて、活動的な様子を意識して見せている。


「兄上からの召集だ。行こう」



 城の廊下を二人歩く。


「お主の前まで虚勢を張っていたら肩が凝る」


 田横はそう言って、張った胸を少し萎めて苦笑いを浮かべる。

 ホント頭が下がるよ、この男には。


 俺は苦笑いを返す。


「終わりの見えないこの籠城に耐えることができているのは、横殿の精力的な姿に勇気付けられているからでしょう。実際、兵達は疲れてはいますが絶望した様子はありません」


 田横は頷き、少し考え込むような仕草で応える。


「将が諦めれば、兵はそれを敏感に感じとる。一緒に戦っていてそれがよく分かる。不思議なことだが、何というか、兵達に俺の気持ちが乗る(・・)というか、共有するというか。そんな時がある」


 俺の錯覚かもしれんがな、と笑う田横。


 スポーツとかでチームが一つになる的な? 一瞬で戦術を理解するみたいな感じかな。


 まぁよくわからんが、将として凄く重要な素質なのはわかる。


「流石、田横将軍ですなぁ」


「からかうな」


 肩で小突かれ笑い合う。たまには息抜かんとな。



「それにしても今日の軍議は早いですね。何かあったのでしょうかね」


 定時の軍議より早い召集に不安を覚える。


「ふむ、朗報なら善いのだがな」


 田横も顎に手を当て応えた。




 会議の室に着いた俺達に、先に来ていた華無傷が飛びつくように迎えた。


「やりましたよ! 高陵君殿がやってくれましたよ! 来ますよ! 楚の援軍が!」


 俺と田横は顔を見合せ、笑顔で頷き合った。


「この上ない朗報だ」

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