110話
岡山のタウン誌のWeb版、『日刊Webタウン情報おかやま』の企画『編集者にまかせてちょ~査団スペシャル』にて取材して頂きました。活動報告の方へURLを記載しておりますので、読んで頂けたらありがたいです。
「これで落とせねば、俺は終わる」
劉邦は独りごちる。
その呟きは誰にも聞かれなかったが、劉邦軍はこれが豊邑攻略の最後の機会であることを共有していた。
項梁は寛大ではない。
景駒の下から項梁に降った余樊君と朱雞石は魏の救援という名目で、章邯の強さを計るために使われ、余樊君は戦死、逃げ帰った朱雞石は処刑された。
彼らのように敵対していた訳ではないが、これだけの兵を借りながら邑一つ落とせぬとなると、劉邦は項梁からの興味を失い、二度とその視界に入ることはないだろう。
劉邦とその配下は腹を括り、豊邑攻略に挑んだ。
その覚悟は天に届いた。
その頃、魏では秦軍の攻撃が激化し豊邑への援助を行う余裕がなくなっていた。
そこへ項梁配下の十の精鋭軍と後がない決死の劉邦軍。
劉邦は兵だけでなく攻城兵器も借りてきていた。
火矢が降り注ぐ中、土で塗り固められた城門に大型の衝車が激突する。
轟音と白い土煙を落としながら門は破壊された。
開け放たれた門に劉邦軍が殺到する。
「雍歯を探せ! 奴の首を持ってこい!」
劉邦の大声が響く。
やがて、周囲を囲む項梁軍も城壁を越え始め、大勢は決した。
四千に満たない兵で抵抗を続けていた豊邑は今までが嘘だったかのようにあっさりと落ちた。
しかし、自身の護衛まで回して捜索したが憎き裏切り者の首は届けられることはなかった。
「逃げられただと?!」
劉邦はこの圧倒する包囲の中、姿を消した雍歯に砕けんばかりに奥歯を軋ませながら邑内に入った。
――こいつらは俺を否定し、門が崩れる最後の時まで抵抗した。
戦闘の収まり、重暗く沈静した豊邑を劉邦もまた鬱々と歩く。
そこへ現れたのは劉邦の父と兄だった。
劉邦は驚き、駆け寄る。
「親父殿、兄上御無事でしたか!」
父は無言で頷き、兄は憮然と言い放った。
「お前のお陰で針の上に座っているような生き心地であったが、手は出されなんだ。家族は皆無事だ」
雍歯も邑民も、劉邦の家族に手を掛けることはしなかった。
「そうですか……」
劉邦はどこか気の抜けたような返事をし、事後の処理がありますので、とすぐに自陣へ戻っていった。
「雍歯の捜索は手配しております。恐らくは臨済へ向かったものと思われます。……御家族が御無事でしたのに浮かない顔ですな」
自陣に戻った劉邦に蕭何が報告する。
「あぁ、ちょっとな」
ドサリと座った劉邦は、蕭何に告げる。
「……すぐに豊邑を発つ」
蕭何は劉邦が故郷に居心地の悪さを感じていることを察するが、それだけではない気がした。
「折角の御実家です。少しはゆっくりされてもよろしいのでは」
劉邦は暫し無言で空を見詰め、語り始めた。
「親父殿は俺を好きにさせてくれたが、いつも黙って土を耕すばかりでよ。生真面目な兄とは性が合わん。……てっきり雍歯に殺されたとばかり思っていた」
劉邦は言葉を切り、ため息を吐いた。
「俺はもう父と兄は諦めていた。忘れていたと言ってもいい。……なもんで今はちと親父殿の顔が見れねぇな。元々、奴とは武侠仲間だった。忘れていたような家族だが、それに手を出さんくらいの侠気は残っておったか……」
「雍歯の捜索を止めますか?」
心情を慮り、蕭何は問う。
「いや、裏切り者で見付けたら殺すのは変わりねぇよ。だが、殺す前に礼は言おう」
劉邦はそう言って疲れたように笑顔を作った。
「それより張良はどうだ? 良くなったのか」
豊邑へ向かう辺りから、体調が優れぬと幕舎から出てこぬ日が続いていた。
「生来の病弱さにこの遠征続き。疲れが出たと仰っております」
「……そうか」
劉邦は少し眉を寄せたが、バンと自身の顔を叩くと勢いよく立ち上がった。
「さぁ、先ずは薛へ戻り、項梁殿に礼を言わねばならん。礼は兵糧が良いか」
蕭何も居住まいを正し、はっきりと応える。
「はっ。あれほど人が集まれば、兵糧の確保に苦慮しているでしょう。事実、甥の項羽殿の遠征の目的の一つが穀倉庫の襲撃とのこと。兵糧が何よりの礼品となりましょう」
劉邦はニヤリと笑い、
「そろそろその項羽も帰って来ているかもな。あの若造、強面に反してなかなか面白い奴だからな。カッカッ」
留の酒家での出来事を思い出したのか、劉邦は楽しげに笑った。
「項羽殿は楚の主催者の甥。そのような言い方はお控えなされ」
蕭何は窘めながらも、気力を取り戻したように笑う劉邦に安堵の息を吐いた。
◇◇◇
新たな楚を興した項梁は、前線から離れた盱眙を新たな首都とした。
即位した懐王と旧貴族を安全のためと体よくそちらに押し込んだ。
その中には上柱国となった陳嬰もおり、そう勝手な真似は出来ないだろう。
軍の元帥であり、即ち国の中心はあくまでこの武信君であることを見せ、それぞれの本拠に戻る諸将を見送った。
そこへ項羽が西から戻ってきた。
「叔父上、ただいま戻りました」
驚くべきことに項羽は陳を遥かに西へ越え、大きな穀倉庫がある襄城まで侵攻していた。
「大量の兵糧を手に入れましたぞ」
「羽よ……」
報告を聞いた項梁の背中に冷たい汗が流れる。
この数ヶ月で襄城まで行き、城を落として帰って来たのは善い。無茶な行軍だが、大量の食糧を得たのは嬉しい誤算である。
しかし、落城後の項羽の行動が項梁の顔を歪ませた。
抵抗の激しかった襄城に苛立った項羽は、落城させるや、降伏した数千の兵を残らず坑に埋めて殺した。
「また反抗するかもしれませんし、生かしておけば穀を食みます」
まるで畑を荒らす蝗を大量に駆除したかのように語る項羽。
項羽には項羽の理があり、自軍のため、項梁のために行ったに過ぎない。そこに悪意はない。
父代わりの項梁にはそれが分かる。
分かるがここまで凄まじいとは。
項梁はこの誇らしげな甥に掛ける言葉が見付からず、
「うむ。わかった」
とだけ、声を絞りだした。
項羽は項梁の返答に、
――褒誉の言葉を期待していた訳ではないが、何かもう少し……
とも考えたが、沈着冷静で表情を変えることの少ない叔父だ、と思い直し拱手をしてその場を離れた。
◇◇◇
項羽の過激な行為によって得た食糧で項梁軍は一つの難題を解決した。
お陰で焦って動く必要もなくなり、項梁好みの慎重な、言い換えれば受け身な立ち回りが可能となり、薛にしっかりと腰を据えようとした。
しかし、争乱の時代はそれを許してはくれない。
魏王咎の弟、魏豹が薛へやって来た。
魏領の豊邑を攻めた攻められた所の話ではない。
首都の臨済が落ち、魏王も死んだという。
以前項梁は一度、魏の要請に応える形で余樊君と朱雞石を章邯率いる秦軍に当てた。
しかし、景駒の部下であった二人には荷が重すぎたか、章邯に一蹴され余樊君は戦死、逃げ帰った朱雞石は処刑した。
その後、臨済が包囲されたのを知った項梁は一族の項佗に兵を授けて救援に向かわせた。
この時、魏の宰相周市は斉を口説き、斉王田儋自らが軍を率いて臨済に向かっていた。
だが、今や百戦錬磨の秦将章邯はこれを夜襲で撃破。周市と斉王田儋を討ち、敗残軍を追撃し東阿まで到った。
項佗はこの時、魏斉連合軍に合流はせず遊軍として章邯軍に付かず離れず追跡していた。
孤軍となった項佗は臨済の近くで潜伏するが、魏王咎が自らを犠牲にして臨済の民を守り、薪に焼かれて自害したのを成す術なく見届けるしかなかった。
その後、兄の犠牲で死を免れた魏豹は臨済を脱し、項佗によって保護された。
魏豹は清らかな表情で炎に呑まれていく兄の最期を目に焼き付け、その赤く染まった目で項佗に嘆願した。
「項梁殿へお引き合わせ願いたい。兄の無念を……魏の再興を、どうか援けて頂きたい」
その迫力に項佗は首を縦に振るしかなかった。