109話
「ああ、この男は沛公と呼ばれておる男です」
范増はその確かな記憶力で、数日前にやって来た男の情報を項梁に教える。
◇◇◇
寧君の助けで景駒から兵を引き出した劉邦は、裏切り者で故郷の豊邑を占拠する雍歯を攻めた。
「くそっ! 借りた兵の質が悪すぎる」
しかし、景駒の弱兵では豊邑の低い城壁は抜けない。
自前の兵でも無理だったではないですか。という言葉を呑み込み、蕭何は劉邦に告げる。
「沛公、日を追うごとに逃亡する者は増え、兵糧も心許ありません。このままでは豊邑を落とすどころではなくなりますぞ」
「……くっ、覚えてろ!」
捨て台詞を吐いた劉邦はまた故郷を後にし、兵糧と兵を集めるためその近場の制圧に乗り出した。
時に秦軍に追いかけられ、時に土地の小勢力と共闘しながら漸く豊邑の南にある碭の邑を占領し、更にその北の下邑も落とし、それなりに兵と兵糧を得た。
「これだけいれば……」
人と腹の膨れた劉邦軍は、今度こそと豊邑を攻めた。
しかし。
「なんなんだ、あの邑は! それほど俺が嫌か!?」
それでも魏の援助もあり、雍歯を中心によくまとまった豊邑は落ちない。
劉邦は豊邑を囲む陣中で空に叫ぶ。
「働かず、大言を吐き、酒ばかり食らっていた若き日の沛公を見ていた豊邑の民は、沛公より雍歯に邑の未来を委ねているようですな」
「ここぞとばかりに……」
日頃の仕返しか、蕭何の嫌味な言葉に耳を塞ぐ。
「低い城壁とは言え、一つにまとまった邑を落とすというのは困難。孫子の教えは真理ですね」
続けて語る張良の涼やかな声に劉邦は喚く。
「喧しい! その色っぽい口を開くなら嫌味でなく、何か策を出しやがれっ」
張良はニコリと微笑み、劉邦に応える。
「ならば質の良い兵を揃えましょう」
「何処で揃えるというのだ。これ以上の遠征は秦の大軍とぶつかる。そうなれば兵が増えるどころか減る可能性がある」
曹参の反論に張良は微笑みを崩さず、東を指差した。
「かつて孟嘗君が本拠を置いた薛にて項梁が諸将を集め、亡き楚の王族を立て真の楚を復興するようです」
「景駒を一蹴した項梁か。あいつらの名乗った楚とは正しさも強さも違うってことか」
張良は頷き、
「既にこの辺りで秦に対抗する最大勢力となっております。加えて正統な楚王を奉戴すれば、その数は更に膨れ上がるでしょう」
その言葉を聞き、劉邦は顎鬚を扱き思案を巡らせる。
「張良、お前は項梁の親族に知り合いがいると言っていたな」
「項梁の庶兄、項伯殿と縁がございます」
張良は微笑んだまま、ゆっくりと頭を下げる。
「景駒の時のように兵だけ引っこ抜くとはいくまい。しかし早いうちに勝ち馬に乗るのも一つの手か……」
「項梁の下に付こうと言うのですか」
これまでどうにか独立を守ってきた。そしてそれに貢献してきた自負がある。
曹参は感情を出さないように声を抑えたが、低く響いたその声には不満の色が見えた。
蕭何も曹参と同じ眼差しで劉邦を見つめる。
そんな曹参と蕭何に劉邦は頭を掻き、苦く笑いかけた。
「仕方あるまいよ、曹参、蕭何よ。俺ぁ、ちと自信を失くしたぜ……。これだけの兵とお前らみたいな有能で勇猛な手下が揃っていながら、故郷一つ取り返せねぇ」
「それはっ我々の不甲斐なさで……」
曹参は否定しようとするが、劉邦は手で制す。
「このまま豊邑に執着しても埒があかんし、仮に取り戻したところで、これ以上時を掛ければ世間からは取り残される気がする」
劉邦は力なくそこまで語った。
しかしその眼がギラリと光り、言葉を続ける。
「かと言って雍歯を生かしてもおけん。……あと一度。あと一度だけ、配下になろうが項梁に兵を借りて豊邑を攻める。勝っても負けてもそれで仕舞いだ。その後のことはその後だ」
そう言い終わると、先ほどまでの苦笑いとは違う人を食ったような笑顔に変わった。
「何、楚の将軍って地位も悪くはあるまいさ。活躍すれば侯にでも列せられるかい? カカッ」
そう笑う劉邦に蕭何はため息を吐き、
「故郷一つ落とせぬ人が、将軍だの諸侯だの。気楽なことですな」
「俺が侯ならお主は侯の宰相だな。邑の官吏からは大出世だ! カッカッカ!」
こうして劉邦は諸将の揃う薛へと向かった。
薛へ着いた劉邦は先ず、上柱国となる陳嬰と面会することになった。
行動を共にする寧君が陳嬰と同郷の東陽出身ということで、その誼である。
「声望高い陳嬰殿を介しての方が項梁様の印象が良いかもしれません。私は私で項伯殿へ働きかけましょう」
張良は劉邦にそう語り、陳嬰との面会を勧めた。
劉邦と対面した陳嬰は、その尋常ならざる何かに惹き付けられた。
風貌は野暮ったく見えるが、雅味がある。
荒々しい大きな瞳にはどこか温かみがある。
そして何より付き従う部下は揃いも揃って英雄に見える。
陳嬰は粗野な口調で人懐っこく話掛けてくる、自身とはかけ離れた劉邦にどこか憧れのようなものを感じた。
「項梁様から兵を借りたい」
劉邦の願いを届けてやりたい。
劉邦のような配下が居れば、項梁にも益になる。
陳嬰はそう考え、項梁に引き合わせた。
◇◇◇
「そうか、陳嬰が連れてきたあの男か」
項梁はその記憶から、独特の雰囲気を持った男を思い出した。
本人もその配下も大物然とした風貌は良い。
しかし実力は伴っているのか定かではない。
官職を与えるには余りに未知。かといって無下にするには何か惜しい気がする。
項伯からも便宜を、と言われている。
どうも恩人が劉邦に付いているらしい。
「ふむ、項伯殿の顔を立てる意味でもこうしてはいかがか」
范増は、歩兵五千と五大夫十人の貸与とした。
歩兵五千というのは多くはない。
しかし、五大夫は下級ではあるが将。それぞれ一軍を率いる。
つまり、五千の直属の歩兵の他に十の軍が劉邦の下に付くということである。
「篤すぎぬか」
項梁の懸念に范増は、
「不義を討つ新参を援助すれば、その評判で更に人が集まります。それに魏の出方も見ることができるでしょう」
秦と交戦中である魏の領地を攻め、魏がどのように反応するか。敵対するか、目を瞑り秦への共闘を優先するか。それを確認したい。
「羽の側近にはああいう男が合うかもしれん」
項梁はふとそう思い、范増の提案を受け入れた。
◇◇◇
「甥の項羽は威風堂々とした大男であったが存外、背の低く根暗そうな男であったな」
劉邦は項梁に面会後、その印象を周囲に漏らす。
「口を慎みなされませ! 誰に聞かれているか分かりませぬぞ!」
慌てて窘める蕭何の言葉も意に介さず、劉邦は続ける。
「まぁ、雰囲気はあったな。直属の兵もよく鍛えられていそうだ。同じ楚でも景駒のところとは大違いのようだ」
張良が頷き、涼やかな声を響かせる。
「この薛は孟嘗君の食客になろうと国中から侠士が集まった地。今も荒い者が多い土地柄で、更にこの会合で勇士、壮士が集まっております」
「俺もその一人って訳かい」
張良はカカッと笑う劉邦に微笑みかける。
「江東から付き従っている兵は鍛えぬかれ、それらをしかと抑えているようです。幕僚も陳嬰殿のような徳望高い篤実な人物から、賊の頭領のような黥を受けた者まで広く従えており、なかなかの器量の持ち主かと」
劉邦は張良の言葉にまた笑い、
「ならばこの俺を上手く雲に乗せてくれるか。先ずは兵をどれほど貸してくれるか、期待しようかね」
そして兵の貸与の内容を聞いた劉邦はその手厚さに喜びを隠さず、項梁の使者の手を取り肩を叩く。
「流石、項梁殿は見る目があるねぇ! これならあの憎たらしい雍歯と豊邑の奴らにも負けねぇだろう。早速行って故郷を取り戻す。項梁殿にはすぐに戻るとお伝えしてくれ」
痛がる使者にそう伝えると、今度こそと勇んで豊邑へ向かった。