106話
一週休ませて頂きました。今日からまた週一で更新目指して頑張ります。
項梁への使者は高陵君に決まったが、田栄の表情が今一晴れない。
「兄上?」
「高陵君の弁才は信用していますが、何か少しでも足掛かりがあれば……と。ましてや楚人ですからね」
高陵君はその整った眉を寄せる。
「残念ながら楚に伝はございません。真摯誠実に訴えるのみでございます」
あ、そうだよ。あれを高陵君に伝えないと。
アイツのこと。
「伝と言うほどではありませんが……」
俺の言葉に三人が一斉にこちらを見る。
「中、お主いつの間に」
田横が不思議そうに尋ねる。
いやいや、横殿の創った伝だよ。
「留で項梁の甥、項羽と横殿が揉めまして。貸しがあります。その項羽から手繰ってみてはいかがでしょうか」
俺は田横と項羽の腕相撲の経緯を説明する。
それを聞ききながら、田横は困ったような顔をしていた。
あ、揉めたのあんまり言われたくなかった?
「殴ったので援軍要請の説得を手伝えと? しかも横が殴り返して貸し借りなしとなったのではないのですか」
田栄が尋ねる。
まぁそれはそうだが、どんな小さなきっかけでも食らい付くのが営業のコツですよ。
「項羽という青年は根が純粋な武人です。殴り返されたとはいえ、気にしているかと。まぁ高陵君殿のやり方次第ですし、とっかかりにはなるかと」
三人は話の持って行き方に悩んでいるのか、眉を寄せる。
「……仮に中ならどうする」
田横、その聞きたそうな聞きたく無さそうな感じはなんだよ。
「そうですね……。殴り返されて終わったと言われたら、それは殴ったことに対しての貸し借り。腕相撲の勝負を反古にしたことに対してはどうなのですか? と」
俺は一度ふっと息を吐き、田横を項羽に見立てて話し始めた。
「あの後、あなたは気絶して気持ちよく寝ながら運ばれていきましたが、賭けを有耶無耶にされた客を宥めるのに酒家にあるだけの酒を振る舞いました。それについては何も思いませんか? と」
「いや、あれは賭けの銭で劉邦が……」
それについては項羽は知らんだろうし、
「横殿の無効でかまわんとの一声で振る舞われた酒です。横殿が振る舞ったも同然」
「お、おう、そうか……。そうか?」
田横は首を捻り一歩退がる。
俺はその一歩を詰める。
「思わず殴ってしまったのは武人として負けまいとした気持ちの強さ。これはある意味見事。武人としてはそう在るべきかも知れません。ならばその後の処理も武人として、人の上に立つ身としても、矜持を見せて頂きたい」
「矜持と言っても……」
田横の歯切れの悪い返答に畳み掛ける。
「とは言えここで酒代を返されても困ります。つきましては、私が何故ここに来たのかと申しますと、かくかくしかじか。……どうか項梁様に一言お力添えの程を。とかなんとか援軍の話に繋げていくと」
「なるほど!」
華無傷は無邪気に手を打つ。
「…………酷い」
田栄の疲れた顔はさらに疲れたように。
「うむ……。いつの間にか論点がすり替えられた気が……しかし、なぜか負い目を感じてしまった」
言葉を向けられた田横は苦い顔で胸を押さえている。
「しかし、それならば横が直接行った方が良いのでは」
立ち直った田栄が当然の疑問を呈す。
「いえ、横殿と項羽は張り合う対象になっていると思われます。横殿との問答となれば恐らく項羽は意地でも謝らず、また喧嘩となるでしょう。第三者の、落ち着いた高陵君殿のような方が間に入るのが効果的かと」
俺の予想に田横が顎を擦りながら呟く。
「……なるほど。確かに会えば喧嘩腰になるやも知れん。どうもあやつとは相性が悪い」
んー……悪いというか、似たところがあるからのように思うが。
まぁ田横が気を悪くしそうだから言わずにおこう。
「……わかりました。その項羽という男には気の毒なようだが、今は一兵でも援けが欲しい。高陵君、アレを真似せよとは言いませんが、中の悪知恵を念頭に交渉を頼みます」
悪知恵……まぁ、いちゃもんみたいなもんだな。
しかし使えるものは使い、どんな手を使ってもここで秦軍を食い止めたい。
「とても真似はできませぬが……。参考……にはなりました」
高陵君も納得したのか、していないのか狐に摘ままれたような様子で応える。
高陵君には高陵君のやり方があるだろう。俺の営業術も選択肢の一つとしてくれたらと思う。
今項梁がどこにいるのかわからないが、往復で最低でも数ヶ月はかかるだろう。
それまでこの東阿が持ちこたえられるかどうかか……。
苦しい籠城が始まる。
俺も倉庫で備品を数えてるだけではないだろう。
……戦わなきゃいけない時が来る。
それでも。
俺は死にたくない。蒙琳さんが待ってる。彼女と現代日本へ、という微かな望みもある。
そしてこの人達が。
もう、親しい人達が死ぬのは。
田栄達が高陵君と使者の話を詰める中、俺は一人身震いをした。
「もう一つ。嗣王の件ですが」
田栄が話題を変え、先程とはまた違う緊張感に包まれた。
「次代の王は先王の長子、市様とします。……横もよいな」
何か言い含めるように田栄は田横に確認をした。
華無傷や高陵君の表情も固い。
田市が王か。
彼が国の一番上に立つ者として相応しいかと、皆思うところがあるようだ。
田栄が有無を言わさぬような物言いになるのもわかる気がするが……。
「もちろんだ、兄上。市様は太子。何の異存もない。確かに市様には未だ足りぬ所があるが、ああ見えて先代に同じく情の厚い男。時が来れば名君へと成長してくれよう。それまで我らが支えればよい」
田横は真っ直ぐ田栄の目を見て応える。
その返答に田栄の顔に安堵の色が見え、少し弛む。
長子継承は王国の基本だ。
それを曲げて国家が滅亡の憂き目に遭った歴史は数えきれない。
田横から以前聞いた趙の武霊王、晋の重耳や申生の父献公。
そして今、秦が末子であった胡亥を皇帝としてこの反乱が起こった。
田市の情が厚いところを俺は知らないが、人を見る目がある田横がそう言い、田栄、田横の優秀な兄弟が導けば名君とは言わないまでも暗君にはならないんじゃないだろうか。
しかし、やはりここで田栄が王になる訳ではないのか。
歴史が変わっている可能性もあるが田栄の元々の性格からして、田儋の子を差し置いて王になることは考え難いな。
ということは田市の身にも何かが起こるのか?
先が見えそうで見えない不安を抱えたまま、俺は軍議を終えた。
そして高陵君が旅立ち、秦軍が東阿に押し寄せ、籠城戦が始まる頃。
魏の臨済が落ちたと報が届いた。
◇◇◇
援軍が絶たれ、降伏を促す章邯に、魏王咎は臨済の民に手を出さないことを条件に首を差し出すと申し出た。
その条件を受け入れ、章邯が臨済の宮殿へ赴くとそこで待っていたのは、自らを縄で縛り、薪の山の上に座った魏王咎であった。
「章邯殿、我が民に対する誓約、決して違えぬよう」
薪の上からの凛とした声に、章邯は眩しそうに見上げ、
「承った」
そう短く応えた。
その返答に頷いた魏王の座る薪の山に火がかけられた。
背筋を伸ばして座っていた魏王咎は、やがて炎の中で揺れ落ちた。
「……」
立ち上る火柱の熱に顔を背け、章邯は無言でその場を去ったという。
章邯は誓約通り、臨済での兵による略奪を厳しく取り締まるよう厳命した。
「魏王は命と引き替えに民を守った。徳王と後世に称えられるでしょう」
田栄は思うところがあるのか感嘆の声をそう漏らした。
◇◇◇
「戦うだけが民を守る方法ではないと教えられた気がする」
田横も数日後、城壁の上で空を見上げ俺に語った。
「しかし、抗うべきことは抗う。戦わねばならぬ時は戦う。それをしてこそ命に価値がある。命を差し出すのはこの命を賭け、生き残った後だ」
そして視線を空から戻し、遠方に立ち昇る砂煙を睨み付けた。
斉の命運を賭けた籠城戦が始まる。