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104話

本日、電子書籍版はセールで半額となっております。

この機会に是非よろしくお願いいたします。

 外の喧騒に気付いた田儋(でんたん)は、寝台から立ち上がる。

 兵同士の揉め事かとも思ったが何故か胸騒ぎを覚え、幕舎を出た。



 そこで田儋は見た。


 陣を張る丘の下からゆらゆらと近づく無数の炬火(きょか)


 ――まさか。


 鬼神のごとき険しい表情で幕舎の前に立ち尽くす田儋に、一人の兵が転がるように駆けつけ、報告した。


「王よ! 我が軍の周りを正体の分からぬ軍勢が……!」


 それを聞いた田儋は、その正体をすぐに察した。そしてその身を(ひるがえ)し、幕舎へ向かう。


章邯(しょうかん)である。鎧を持て! 前方の田栄(でんえい)周市(しゅうふつ)に知らせよ! 夜襲だ!」



 ◇◇◇



「私は常に後がないのだ。驕ることなどできぬよ」


 暗闇の中、(たいまつ)の火に照らされた章邯は呟く。


 ――秦の影の支配者、宦官趙高(ちょうこう)に付け入る隙を見せぬため、勝ち続けなければならない。


 発した言葉はそれだけ。

 またすぐに押し黙り、奇襲に動揺する斉軍を目指した。



 七日前、北へ向かった七万の軍に章邯はいた。

 河水(かすい)を越え朝歌(ちょうか)の辺りで五万のちょうへの援軍に向かう兵と別れた。


「わざわざ河水を越えた軍にまで斥候はついては来んだろう」


 実際、斉の斥候は七万の軍が河水を北へ渡るのを見届けると、報告のためにその場を離れた。


 章邯は残った二万を率いて引き返し、再度河水を渡り、密かに魏斉軍の後方へと回り込んだ。

 そして動きを気取られぬために夜のみの行軍でジリジリと迫った。


 予定通り挟み撃ちの形を造った章邯は、前方から向かう秦軍が明日、魏斉軍と対峙することになった日、前方の三万の自軍に伝令を放つ。


「夜明け前に夜襲を掛ける。そちらも夜を駆け、混乱しているであろう魏斉軍に前方からあたれ」


 そう伝え、夜を待った。



 厚い雲が月も星も隠す真夜中。


 章邯は馬だけでなく兵自身の口にも(ばい)を含ませ、低い丘に灯る朱い光を目指し、動き始めた。


 丘の麓で兵は大きく拡がり、小さな丘を包囲した。


 そして枚を外し、一斉に松明に火を灯した。



 ◇◇◇



「夜襲だと!?」


 田儋からの伝令が届くまでもなく、丘の様子が変わったことに気付いた兵が周市に報告した。


 周市は飛び起き、自陣の幕舎から出て田儋軍のいる丘を見た。


 ――燃えている。


 離れて見るその丘は、全体が明かりを灯したように揺れている。


 その幻想的な美しい光景に周市の頭に浮かんだのは、目の前の斉王の安否より魏王(きゅう)のことであった。


 ――まだ臨済(りんせい)にたどり着いておらぬ! まだ魏王をお救いしておらぬのだぞ!


 不遜(ふそん)だと自覚しながらも、その焦燥感で荒くなった口調で部下に伝える。


「兵を起こせ! 急ぎ斉王の居られる丘へ向かう!」


 兵に戦闘準備を急がせ、隊列を組ませる。


 寄せ集めの一万の軍は、素早く準備できる隊もあれば、慌てるだけで一向に揃わぬ隊もあり、時だけが過ぎる。


「急げ!」


 焦る周市は、緩みのある隊列で斉王の居る丘に向け出発させた。


 しかし周市は、普段の冷静さであればすぐに気付くはずのことを失念していた。

 そしてそれに気付いた時には遅かった。


「いかん! 前方の秦兵が来る! 反転しろ!」


 急な反転命令を下した周市軍の後方。


 周市の絶望的な予想は現実となり、三万の秦軍が迫っていた。


 一万もの軍が、迫る敵を目の前に反転などできるはずもない。

 方向を変えようとする兵と、前に進もうとする兵とが衝突し、潰れた団子のようになった周市軍に、さらなる混乱と死を呼ぶ軍勢が闇夜と同化しながら襲いかかった。



 三倍の兵力差に加え、陣形の乱れ。寄せ集めの周市軍は為す術なく蹂躙されていく。


 その様子を眺めるしかなかった周市は、天を仰いだ。


「魏王を救えぬばかりか、斉王をも死地に招いた私は……。 私のしたことは……」


 悔恨に苛まれた周市の目から涙が伝う。



 ――だが、せめて。


 涙を拭い、前方の戦いに赤い目を向けた。


「逃げるな! 逃げても助からぬ! ならばここで少しでも斉軍を追う敵を減らす!」


 周市はそう叫ぶと、迫り来る暗い波に潜った。


 しかし秦軍という波は止まることはなかった。


 周市は押し流され、引っ掛かけられ、倒され、刺され、首を掻き切られた。



 ◇◇◇



 田栄は自陣に帰っても眠らず、明日以降の戦術を模索していた。


 周市に関しては、積極的に領地を拡げ斉にまでその触手を伸ばす野心溢れる男だと思っていた。

 しかし実際に会ってみると魏とその王のために奔走している忠の男であった。


 善い男である。

 そしてその男を宰相に据える魏王も好ましく思える。


 ――魏とは肩を並べて戦うことができよう。


 そのためにも周市をここで死なせたくはない。


 ――何とか周市を犠牲にせず臨済(りんさい)を救援する手立てはないか。


 そのようなことを考え、うつらうつらとし始めた頃。


「田栄様!」


 外から名を呼ばれ、ハッと目を覚ました。



 外に出た田栄は丘の様子を見た。


 ――従兄!


 反射的に田儋の所へ駆けつけようと踏み出すが、前方からの三万も迫っているであろうことが脳裏に(よぎ)った。


 周市軍は一万。背を任せるには無理がある。

 逆に救援に向かわねば崩壊の危機だ。


 田儋側の敵の数は不明。炬火の数からして同数かそれ以下か。

 しかし体制の整わないままに奇襲を受け、不利は必至。丘を包囲されていれば逃げ場がない。


「迷っている時はございません」


 田栄の校尉(こうい)として従っている高陵君(こうりょうくん)が静かに決断を促す。


「身内を重んじるは仁。最も尊ぶべき道。自国の大事でもあります」

 

 田栄はいつもの穏やかな口調も忘れ、高陵君を睨む。


「周市を……、義を捨てよと言うか!?」


「我らが前方を救援しても数は互角。勢いを止めることができるかどうか。……ご英断を」


「…………」


 いつもは好ましく思う高陵君の冷静さが今は腹立たしい。が、その意見は正しい。


「……斉王の救援に向かう。王救出後そのまま駆け抜け、近くの城へ一時撤退する」


 田栄が絞り出すように伝えると高陵君は手を組み、礼をして素早く退がっていった。


 その後ろ姿を見送らず、幕舎に引き返した田栄は急いで鎧を纏いながら、


「すまぬ……」


 誰にも聞こえぬ声で謝罪の言葉を口にした。




 田栄は馬車に乗り込み、駆けながら思う。


 夜襲で特定の人物を狙って討つのは難しいが、あのように丘を包囲された状態では。


 ――間に合わぬかもしれぬ。


 田栄は首を振って不穏な考えを払おうとする。


 しかし、今夜の深い暗闇のように。

 重たく絡み付いたその憂いは、頭から離れてはくれなかった。



 ◇◇◇



 迫る炬火は朱い蛇が這うように丘を登ってくる。


 未だ陣は整わず、十分な灯りもないまま、田儋軍はその蛇に食われ始めた。


 怒声、悲鳴が丘の頂点にまで届いてきた。

 章邯の兵が斉王の兵を闇に沈めていく。



 鎧を纏った田儋は暫し時を忘れ、その妖しく揺れる火を眺めていた。


「王よ、お逃げ下さい! 敵の数すら分かりませぬ!」


 馬車を操り駆け寄った御者の言葉に我に返った田儋は、一度短く夜空を見上げたが、そこには闇しかなかった。


 ――せめて月明かりでもあれば……。章邯は天すら味方につけたか。


「田栄と合流する。丘を駆け降りよ」


 田儋を乗せた御者は、敵か味方かも分からぬ朱い光が交錯する隙間を縫いながら丘を下り、田栄軍のいる方向へと駆ける。

 しかし、章邯はその行動も予測しており、田栄軍側の包囲を厚くしている。


 炎に照らされた人影が次々に現れる。


 それでも御者は、斉王の馬車を任されるだけの男であった。


 人の塊を避けながら、右へ左へと駆け降りる二頭立ての馬車は確実に麓に近づいていた。



 そして麓まであと少しという時、大きく揺れる車にしがみつく田儋の耳に風切り音が届いた。


 闇を切り裂いて現れた矢は田儋の乗る馬車の馬の尻に突き立った。

 そしてもう一頭の馬を道連れに車ごと大きな音を立て横転した。


「ぐうっ」


 投げ出された田儋。

 天地が回転し、一瞬自身の居場所を見失った。


 気がつくと倒れ伏し、片足が馬車と地面に挟まれている。



 どうにか足を引っ張り出し、痛みを(こら)え立ち上がった田儋が見たのは、こちらに迫る幾つもの炬火。


 ――この足では、最早逃げることは叶わぬか……。


 田儋はもう一度、天を見上げた。

 やはり星は見えない。


「栄、横。斉を、(ふつ)を……頼む」


 曇天に想いを込めて言葉を飛ばし、腰から剣を抜き天に掲げた。


「我は斉王田儋である! 我が倒れようと斉は倒れぬ! 我が黄泉(こうせん)への道、供をしたい者はかかってくるがよい!」


 田儋は迫る秦兵に大喝を浴びせる。


 炬火はその大声にゆらりと揺れ、戸惑い止まったように見えた。

 しかしそれは一瞬で、またこちらに向かって動き出した。


 ――そういえば狄で斉の復活を宣言した日、あの日も雨で光はなかった。


 ――栄は、横には光が差すだろうか。


「おおおぉぉ!」


 ――願わくば今後の斉に光を。


 そんなとりとめのないことを想う。


 田儋は足を引き摺りながら、朱い光の中へ突っ込んでいった。

枚 (ばい)

声を立てないように兵や馬に咥えさせる木。

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