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103話

書籍版「項羽と劉邦、あと田中」第2巻。

「若き田横と彭越」「二人の軍師」(張良)(范増)の3話の書き下ろし付きで好評発売中です。

よろしくお願いいたします。


 空には満天の星がかかり、辺りは虫の鳴き声以外は響かない月夜。

 普通なら決して訪問すべき時間ではない夜中。

 俺は蒙恬(もうてん)の屋敷を訪ねた。


 夜遅くにも関わらず、嫌な顔一つせずに迎えてくれた家僕(かぼく)に連れられ一つの部屋に通された。


「田中様」


 その部屋で弾むような笑顔で出迎えてくれたのは、婚姻の約束を交わした美しい女性。


「蒙琳殿」


 その少し明るい色の大きな瞳が、薄暗い中で蝋燭の温かみのある光に(ほの)かに揺れる。


 その瞳に吸い込まれそうになった俺は、少し焦りながら話し掛けた。


「お元気でしたか? 臨淄までの道中、何もありませんでしたか? 戻ってから不自由はありませんか? 蒙家のこと、警備は十分でしょうが不穏なことはありませんか?

 あ、蒙恬殿は? もうお休みになられてで?」


 蒙琳さんは俺の矢継ぎ早な質問に少し呆気にとられ、そしてふふっと笑った。


「はい。護衛が増えて少し仰々しいですが、私自身も気を付けて過ごしております。田中様、まるで父上のようなことを」


 そう言って蒙琳さんは亡くなった父、蒙毅(もうき)を思い出したのか懐かしむように目を細めた。

 親馬鹿だったもんな……蒙琳さんも慕っていたし。

 いい親子だったよな。


『これからは蒙毅殿に代わって貴方を守ります』


 そんな格好いいことが言えればいいんだが。


 照れ臭さと不甲斐なさで頭を掻く。


「明日にはまた出立されると……」


 そんな俺を憂わしげな表情で見詰める蒙琳さん。

 また婚姻が伸び伸びになってしまう。

 それどころか無事に帰って来れるかも……。


「はい。斉王を追いかけ臨済(りんせい)へ向かいます。……あの、婚姻をお待たせして申し訳ありません」


 俺の謝罪に蒙琳さんは首を振り、


「いえ、田中様は国の中枢を担う一人。私もかつては公官の娘。個人の事情を考慮している時ではないと重々承知しております」


 そして俺の胸に手をあて寄り添う。


「祈ることしかできませんが、ここでお戻りをお待ちしております。どうか、ご無事で……」



 俺の帰りを待ってくれる人がいる。

 それだけでこんなに嬉しいものなのか。


「必ず……戻って来ます」


 俺はその肩を抱き、唇を重ねた。



 ◇◇◇



 斉王田儋(でんたん)が臨淄を発って二十日余り。

 軍は臨済まであと二、三日というところまで進んでいる。


 周市(しゅうふつ)が臨済外でかき集めた魏軍と合流し、斉軍を案内するように先行している。

 それを追うように少し離れて、田栄(でんえい)が前軍。さらに後方、斉王田儋は後軍に控えている。



 太陽が傾き始め、行軍を停めた田儋は低い丘に陣を張った。


 その丘に収まりきらない田栄軍は丘からやや離れた平地へ、さらに離れた場所に先行している周市軍の陣が広がる。



「包囲軍のうち、三万ほどがこちらに向かっており、明日には対峙することになりましょう」


 田儋の陣中、軍議のため後軍に訪れた田栄と周市は幕舎の中で斥候の報告を聞いていた。


「三万とは……。二十万の兵を擁していながら……何か策略があるのでしょうか」


 田栄が訝しみ、考え込む。


 周市軍が約一万、田栄軍が二万、田儋自ら率いる軍が二万である。

 確かに周市の魏軍はかき集めた連携の拙い軍ではあるが、合わせて五万の軍を三万で迎撃しようというのか。


「我らを弱兵と侮り、章邯が直接指揮を執るならあり得うる事かもしれませぬ。それだけ章邯には自信があり……実際に強い」


 周市がどちらに言うでもなく、悔しげに呟く。


 田儋は鬚を撫でながら、斥候に問いかける。


「他に秦軍に動きはないか」


 問われた斥候は他の斥候から聞いた話を斉王に告げる。


「七日前、臨済を包囲している秦軍から七万程、北へ向けて離れたそうです。恐らく(ちょう)への援軍と思われます」



 趙では李良に裏切られ、趙王武臣を殺された張耳と陳余が真の趙王の子孫、趙歇(ちょうけつ)を探しだして王とし、信都を新たな首都と定め反撃に出た。


 彼らは裏切り者の李良を撃退し、李良は章邯の元まで逃げた。

 それに対して章邯は北から合流してきた王離を趙に差し向け、今は邯鄲(かんたん)で激しい攻防を繰り返している。


 章邯は臨済の膠着した軍から、さらに趙へと援軍を送ったようだ。


「なるほど。趙への援軍で攻城の兵が減り、加えて我らに大軍を出せば包囲がさらに薄くなる。そのためこちらに向かう兵が三万しか出せなかったのかと」


周市はそう納得した。


「しかし、それでも三万は少なすぎるのでは」


「そこに章邯の驕りがありましょう」


田栄の憂いを周市が一蹴し、斥候に続きを促す。


「趙のお陰で包囲軍の数は減少しました。そして臨済城内に我らがすぐそこまで迫っていることも伝わったようで、城内は最後の力を振り絞っている状態ですが、持ってあと十日程かと」



 報告を終えた斥候が退出し、三人となった幕舎で周市の声が響く。


「限界が近いようだ。先ずは迫る三万を蹴散らす。その後の臨済の戦だが……」


 田儋は周市を見、計策の有無を(はか)った。その視線を受け、周市は進み出た。


「斉軍は城の東から陽動を掛けて頂きたい。その間に我ら魏軍が南から入城し、物資と兵を届けます。それが渡れば臨済の城も息を吹き返しましょう」


 田栄は周市の無謀とも思える覚悟を聞き、憐憫(れんびん)の眼差しを向ける。


「陽動があるとはいえ、相手は未だ十万。……決死の突撃になりますよ」


 周市は静かに微笑み、首を振る。


「魏王が倒れれば私の生きる意味も無くなります。私が倒れても魏王が助かるのであれば、私が死ぬ意味はございます」


 決意の炎を宿した瞳は揺らがない。


「物資と兵さえ届けることができれば、このまま籠城を続けていられます。やがて各地の動きが活発になれば、秦軍もいつまでもここに留まることができなくなりましょう」


 田儋、田栄は掛ける言葉が見付からず、ただ周市を見詰めることしかできなかった。

 その無言を肯定と捉えた周市は一礼をする。


「陣に戻ります。まずは明日の野戦で圧倒し、城で待つ者達に希望の光を届けたい。どうかお力添えを」


 田儋はその覚悟を決めた瞳を見据え、応えた。


「……うむ。奢る秦軍に魏の底力と新たな斉の強さを見せてやろう」


 その言葉に周市は、再度礼をして幕舎を出ていった。



「まさに烈士よな」


「ええ、あのような男に(ちゅう)を向けられる魏王、そして王弟豹もまた徳のある人物なのでしょう」


 周市の去った出口を見詰め、二人は話す。


「私も自陣に戻ります。王も明日に備え、お早めにお休みになられますよう……」


「栄」


 一礼をして去ろうとする田栄の背中に、田儋が声を掛ける。


「死ぬなよ。いざとなれば逃げよ」


 田栄は振り向き、


「弱気は禁物ですぞ。ですが、もし逃げるなら殿(しんがり)はお任せを」


 そう言って微笑み、幕舎を離れた。


 田儋は、一人となった幕舎で呟く。


「悪い予感が消えぬのだ。栄よ、横よ。我が倒れても斉を……」




 夜の(とばり)は未だ上がらず、曇天の空は月明かりもない。

 しかし三万の秦軍と戦いとなる今日の朝日はあと一刻もすれば登る。夜が白み始めれば兵達も起き出し、戦の準備に入るだろう。



 寝床に腰掛ける田儋は、眠れぬ夜を過ごしていた。



 そして、まだ闇に包まれた幕舎の外から喧騒が聞こえた。

烈士 (れっし)

節義に堅く、激しい気性で自らの信念を貫き、それに殉ずる人。

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