101話
今週26日、いよいよ第2巻の発売です。よろしくお願いいたします。
「急ごう。あれでは彭城も一日持つまい。項梁の兵が留へ辿り着くのに、そう時は掛からんだろう」
田横と急ぎ留に向かう。
留に残した従者達と合流し、莒にいる華無傷達の下へ。そして臨淄へ戻る。
臨淄に一度戻り、項梁達との関係を協議しなければ。
俺はこれからを思い描きながら、緑の濃い草原の中を馬で駆ける。
まずは項梁と対等な同盟を結び、対章邯と咸陽攻略に兵を出す。
斉が咸陽を落とせば最高だが、何かしら功績を残せば後に大きな顔はされないだろう。
斉、楚、魏、趙、それから燕か。
今興っているこの五ヵ国で安定させるような方向が現実的か。それとも秦を存続させ、あとは……韓か。韓を復興させて秦統一以前にあったらしい七国でもいい。
劉邦は歴史の陰に埋もれてしまうが、あいつの総取りを阻止すれば田一族の滅亡は免れるだろう。
まずは秦を倒さなきゃな。
よし……今まで漠然としていた方針が具体的になってきた。臨淄へ戻ったら、もう少し細かく詰めて提案しよう。
懸念があるとすれば田假達だが……。
先程の戦闘で倒れたと考えるのは虫が良すぎるか。
離脱した一団が田假達だとしたら、また兵力を得たことになる。行方を追おうにも斉国外でのこと、探し出すのは難しい。
再び国内に戻ってきたところを叩くしかないだろうな……。
俺は漸く見えてきた田氏存続の光明と、そこに落ちる一筋の陰に頭を悩ませる。
おっと、いかん。馬を操る手綱が疎かになり田横に遅れ出した。
「おい、中! 遅いぞ! 置いていくぞ」
あ、待って。
◇◇◇
田中達が臨淄への帰路を急ぐ頃。
遠征を一旦終え、臨淄へと戻った斉王、田儋は玉座に座り、魏の周市と対峙していた。
「わざわざ魏の宰相が参られるとは余程の大事。何はさておき要件を聞こう」
周市は頭を恭しく下げ、話し始めた。
「斉王のご配慮、感謝いたします。ならば早々に。今、我ら魏は存亡の窮地」
「……秦軍か」
「はい、陳王を破った章邯の軍が魏に侵攻してきました。その圧倒的な数と苛烈さに我が城は次々と陥落、本拠を置く臨済を包囲されております。魏を助け、共に秦を撃ち破って頂きたい」
田儋は周市の胆力に感心した。
危機的状況に、心情は焦燥感に胸を焦がしていようが、それを面に出さず淡々と語る。
「しかしあなたは以前、斉の領土を侵した。互いに矛を収めたとは言え、つい最近争った我が国に援助を頼むとは少し虫が良すぎる話ではありませんか」
斉王の傍らに立つ宰相、田栄が指摘する。
周市は狄に迫るほどの侵攻を見せ、斉の領地を刈り取ろうとした。
田儋、田栄が迎撃して周市は退き、和平を結んだがそれがつい数ヶ月前である。
「魏王咎のため広く領土を得、強国を創ることに心奪われておりました。斉王に諌められ、今この胸中にあるのは合従の策。各国と結び、秦を打ち倒すことです」
田栄はその言葉を聞き、周市を警戒する。
合従策自体は悪くない案だ。強大な秦には生まれたばかりの一国では立ち向かえない。
しかし戦国時代それを提唱し、秦を除く六国の同盟を実現させた蘇秦という縦横家はその盟の長となり、六国の宰相も兼任した。
そんな壮大な野心を隠しているのかと眉をひそめ、周市を見据える。
「蘇秦の合従策ですか。では他の国へも援軍の要請をしているのでしょう」
周市は僅かに眉を寄せ、首を左右に振った。
「確かに広く各国へ援軍訴願の使者を派遣しましたが、趙は内乱から立ち直っている最中で燕は遠方。楚は未だ兵少なく、その王景駒も信を置くにあたわず。なれば義と仁を持って斉を隆々と治める王の御心にすがるしかございません」
田儋は静かに周市を観た。
自身が魏王を名乗っても可笑しくないこの時世にあって、公子咎を王へ即位させるため陳勝に何度も使者をやって粘り強く交渉し、漸く魏を再興させたと聞く。
溢れ見えた苦悶の色に、田儋は魏を、魏王を想う周市の本質が見えた気がした。
「わかった。兵を出そう」
田栄が逡巡する中、田儋の返答に戸惑いの声が漏れる。
「王よ……」
「栄よ。魏王咎とその王弟豹は仁徳の人と名高い。この周市を援けるのではない、魏王を援ける。どのみち秦にはあたらねばならん」
田儋はここで少しため息のように息を吐き、困ったように笑って続けた。
「この田儋は義に生きてきた。隣国が滅ぶのを黙って観ていては我が義が死ぬ。王となったとて、この生き方は変えられんよ」
地表に溜まった塵を一掃する、強く清快な風。
――そんな人こそ我が従兄にして斉王、田儋である。
田栄は胸を張り誇らしげに田儋を見詰め、頭を下げた。
「王のご意向のままに……」
それを見ていた周市は跪き、床に着くほど頭を垂れた。
伏せた周市の顔の下、敷き詰められた石床が、ポツリと濡れた。
援軍を約束された周市は、その吉報を急ぎ伝えるため、慌ただしく城を出ていった。
王の居室、田儋と田栄は二人きりで向かい合う。
「西征の軍に増員を加え、魏への救援軍とする。急ぎ再編を頼む」
「周市の話を聞くに、秦の兵数は数倍。あの陳勝を破り勢いもあります。勝てますか……?」
田栄が言葉少なに問う。
「正面から戦うのは避けたい。まずは臨済の包囲に奇襲をかけて穴を開け、魏王を救出する。その後は魏や近隣国と連携して少しずつ削っていく。一度の戦で勝つ必要はあるまい」
――厳しい戦いになる。
そのことは田儋にもわかっている。
しかし、援軍を送ると決めた。義に生きる田儋は約束を反故にすることはない。
「栄よ」
田儋が従弟の名を呼ぶ。
「はっ」
「我が死ぬことがあればお主が王として立て」
田栄は驚き、従兄に詰め寄る。
田儋の瞳に宿る厳しい眼差しが、冗談ではないことを物語っている。
「……何を仰います、王が死などと! それに太子市様が居られるではありませぬか!」
田市の名を出された田儋の顔が曇る。
「あれは……、市はいつも強がってはおるが、その根は優しい。しかしその分脆弱だ。人としては可愛げがあるが、上に立てる器ではない。我は育て方を誤った」
田市は口悪く、居丈高な態度を見せるが、その裏には田家や歳近い田広を憂慮する心が隠れている。
それは美点だが、その気持ちが強すぎて優柔不断で臆病になっている節がある。
田栄にもそれは解っているが、それでも長子継承は国の安定の礎である。
「王に危機が迫まるのであれば、まず私が前に立ち、盾となって死にましょう」
田儋は田栄の覚悟に静かに首を振った。
「仮の話だ。死にに行くのではない」
そして表情をふっと緩め、苦笑して言う。
「実はな……。お主は怒るかもしれんが」
「いえ、王のお言葉に怒るなど」
「本当は今直ぐにでも横に王位を譲りたいのだ。お主を飛び越えてな。あやつこそ真に王の器だ」
田栄は驚きもせず、怒りもせず。ただ目を伏せ、そしてあえて王とは言わず、
「…………弟は従兄を父として敬愛し、支えようとしております。どうか弱気なところを見せませぬよう」
田儋を従兄と呼び、諭すように応えた。
「怒ったか?」
田栄は微笑を湛えて否定した。
「いえ、従兄のお気持ちよくわかります。出来の良い弟を持つと兄として誇らしい反面、面目を保つ為に苦労します」
その言葉に田儋も嬉しそうに微笑む。
「ふっ、我は出来の良い従兄弟を二人も持ってお主の倍、誇らしく、倍、苦労している」
王の居室で笑い合う二人の間に、柔らかな風が通り抜けた。
合従策 (がっしょうさく)
戦国時代中期、強大になった秦に対抗するため他の六国が同盟を結んで秦に対抗しようとした蘇秦が提唱した外交策。
逆に六国が個別に秦と結び、自国を秦脅威から防ごうとする策を
連衡策といい、張義がその代表に挙げられる。
蘇秦 (そしん)
張義と共に鬼谷子に縦横の術(外交術)を学び、困窮した放浪生活の後、燕の文公に進言して趙との同盟を成立させた。それを皮切りに、他の五国の王を説いて回り合従策を成功させ、六国の宰相を兼任した。