99話
7/26日発売の第2巻の書影を活動報告にあげております。
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「夢じゃなかった……」
一夜明け、宿の一室で目覚めた俺は、まだボーとする頭で昨日の夜を思い返す。
項羽と出逢い。
田横と喧嘩になり。
劉邦が割り込み。
その隣で張良が佇む。
たいして大きくもない、ただの酒家にこの時代の主役級が四人。
そこに俺、田中。
何、このおまけ感。
それはまぁ、いいか。
それより項羽と揉めたことだよなぁ……。
先にあちらが手を出して来たんだし、逆にあちらが負い目に感じてくれればいいのだが。
「中、起きておるか」
部屋の入口から声を掛けられ、思考を中断する。
「横殿。鼻は大丈夫ですか」
田横にしては精気のない顔が覗く。
「うむ……鼻より頭が痛い。あの若造のお陰で二日酔いだ」
昨日は珍しくよく呑んでいたもんな。
田横は頭を抱えながらも俺に問う。
「中、昨日のあの若造、項羽は警戒すべき男か?」
俺が項羽の名に驚いた理由などは聞かず、ただそう尋ねてきた。
「……はい。劉邦殿や張良殿と同じく、最大限の留意を」
「そうか。ううっ、もう少し寝させてくれ。起きたら田假達の居場所を探ろう」
「はい。二日酔いには水をよく呑むことです」
田横は俺の言葉に背中越しに手を振り、部屋へと戻っていった。
背中を見送りながら、胸が熱くなる。そして同時に少し痛む。
あの項羽についての問いかけには俺への信頼が溢れている。
それから数日、俺達は連れてきた従者達と手分けをして、田假達の情報を集める。
城を見張り出入りする商人を訪ねたり、人が集まる酒家でそれとなく噂を聞き出したりと地味な諜報活動を繰り返した。
あの項羽や劉邦に出逢った酒家にも何度か訪れたがあの日以来、彼らと出逢うことはなかった。
既に留を離れたのだろう。
もう一度項羽には会って、関係改善に努めたかったが……。
俺達は宿近くの酒家で、集めた情報を整理する。
「やはり城中にいる線が濃厚ですね。それに何か慌ただしいようです」
「うむ……。我らを警戒して、という訳ではなさそうだが。どちらにしても現状では手が出せん。一度臨淄に戻り、王の許しを得て兵を率いてくるしかないか」
戦争になるのか……。
嫌戦の感情を抜きにしても、ここを攻め込む旨みは少ない気がする。
斉の領地にしても飛び地になるし、章邯率いる秦が動き出した今、兵を損耗するのはよくないだろう。
いや、しかし内紛の種を残したまま、秦と争う方が危険だ。ここは禍根を断ち、後顧の憂いを無くしておくことが肝要だ。
「勝てますか?」
同じく難しい顔をしている田横に問いかける。
「規律は弛く、質も悪い。ここの兵ははっきり言って弱兵だ。勝つのは難しくないだろう」
田横はこの数日間で見た兵の印象を語り、自信を覗かせる。
「なんにせよ、そろそろ軍に戻るか。華無傷達も心配していよう」
「そうですね」
田横が率いている東征の軍は現在、華無傷に指揮を任せ、莒の地を中心に無理のない程度に鎮撫に動いている。
「……二、三日中には彭城へ兵を進めるそうだ。負ければここも……」
俺と田横は、後ろから聞こえてきた不穏な会話に顔を見合わせる。
振り向くと行商人らしき男が二人、杯を片手に留を離れる算段を話し合っている。
俺達は頷き合い、席を立つ。
「すみません、我々はつい最近ここへ商売に来たのですが少し一緒に呑みませんか?」
酒瓶を彼らの前に置き、それを勧める。
「あん? おお、これは。まぁ座られよ」
酒を目の前に相好を崩した行商人らに相席させてもらう。
「先程、兵を進めると仰っていましだが」
座った俺は酒だけでなく、銭の入った小袋をそれぞれに渡す。
行商人はすぐに察したようで小袋を懐に納め、感触を確めながら話し始めた。
「ああ、それがな。下邳まで来ておる項梁という人物がここの楚王を偽りと断ずる声明を発してな、近々攻め込んでくるらしい」
「えっ」
「項梁はあの楚の項燕将軍の子。数は互角だそうだが、景駒に勝ち目はあるまい。ここも戦場となりそうだ。早々に離れた方がよいだろう」
項羽からの情報を得た項梁が動き出したようだ。
『真の楚を名乗るべき者は他にいる』
項羽はそう言っていたが、動きが早い。
田横は俺に視線を送る。俺は頷き、
「……なんと恐ろしい。では商売どころではありませんね。急いで宿に戻り旅立つ準備をせねばなりません。あ、残った酒はどうぞ」
行商人達に礼を言い、席を立つ。
「戦場は彭城辺りになりそうだ。ここには今日明日来るわけでもないのに随分臆病なこった。そんな強そうな護衛を連れてるのに」
「まぁ、慎重なのは商人にとって悪いことではない。兄さん、あんた大成するかもな」
護衛と勘違いされた田横は苦笑いで返答し、護衛らしく俺に付き従うように店を出た。
「どうやら先を越されたようだ」
田横は複雑な表情で宿の部屋で腰を下ろす。
「あの行商人達は景駒達に勝ち目はないように言っていましたが」
「張良の話でも項梁、項羽は江南を治めるのに負けしらずと言っておったが……。景駒の軍に負ける軍はそうそう居まい。まぁ実際に項梁の兵を見ないとわからんが」
田横は顎鬚を撫でながら思案する。
まず間違いなく項梁の軍が勝つだろう。
項羽が率いる軍はこの時代最強だったと覚えているし、ここで景駒達が項梁に負けるから俺の記憶にもその名がないのだろう。
それはそれとして、
「田假達がどう動くか」
「うむ」
俺達は複雑になったこの状況に悩み、腕を組む。
うーん……。
俺は暫く考え、幾つかの可能性を提案する。
「考えられる行動の一つは、景駒の勝ちを期待して、そのまま留の城に留まる」
「うむ、ただ田都がここの弱兵振りに気付いていないとは思えん。それを座して待つとは考えにくい」
田横の反論を受けて、俺は次の提案をする。
「では田都が客将として一軍を率いる」
「なるほど、田都は将としては有能。自身が率いれば或いは勝てると、自信家の田都なら考えるかもしれんが……」
将としての能力は田横も認めているようだ。
「どちらかと言えば田都は慎重派ですよね。勝てる賭けにしか乗らない。分が悪いなら逃げ道を用意する」
「そうだな。今回の戦は話通りなら、かなり分が悪い」
そして俺は最後の案を口にする。
「あとは、逃げる」
田横が大きく頷く。
「匿ってもらった恩など気にする奴らではない。また別の庇護先を求めて留を離れるというのは大いに考えられる」
傲慢な奴らなら、これが一番可能性が高いだろう。
「この状況で逃げるなら景駒達に言わずに密かに少数でであろう。そこを捕らえるか。こちらも少数だが、先に田都さえ倒せばあとはなんとかなろう」
危険な賭けだが好機でもあるか。
「しかし逃げると決まった訳ではありません。暫く留まり、引き続き城を見張っていましょう」
「うむ、そうだな。華無傷には悪いがもう少し代理をしてもらおう」
それからまた数日、城を見張る従者からの急報を受け俺達は大通りに向かう。
景駒の軍が出兵するようだ。
出兵を見物する人混みの中、隠れるように行進する軍を覗く。
そこで見たものは、兵を率いて鎧に身を包み馬車に乗る田安、田都、そして旅装の田假だった。
「意外だ。どういうつもりなのか」
軍を見送った田横が訝しみ、俺も頭を捻る。
「うーん……、勝てると踏んだのでしょうかね?」
「田安はともかく田都はそこまで楽観的ではないと思うが……」
「ですね。それに三人とも戦場に行くのも何かおかしい」
田横は通り過ぎる田都達を見送りながら、腕を組んで呟いた。
「こうなれば戦場まで行くしかないか……」
えぇ……、それはちょっと、いやかなり危険なんじゃ……。