98話
二巻発売まで一ヶ月を切りました。作業も急ピッチで進めております。
書影や書き下ろし、特典SSなどの情報ももうすぐお届けできると思います。
「田横殿、どうだい。鼻の痛み止めだ」
「いや、今日はもう酒はいい」
田横は劉邦から勧められた酒を断る。
断られた劉邦はつまらなそうに口を尖らせる。
「お主が稼いだようなもんだろうに。呑まんとは惜しいことを。田中、お主は呑むだろう。ほれ」
そう言って杯を差し出す。
現世でもこんな面倒な上司いたな……。断ると余計に絡まれる奴だな、これ。
俺ももう酒はいいんだけどなぁ。
「はぁ……一杯だけ頂きましょう」
俺はため息を吐きながら杯を受けとる。
「カカッ、そうこなくてはな」
劉邦は嬉しそうに受けとった杯に酒を注ぐ。
あぁ、入れすぎだよ! 溢れるって!
「ところで、なぜ劉邦殿は留へ?」
俺は杯に口をつけ、濡れた手を拭いながら劉邦に伺う。
置いた俺の杯に、劉邦の隣に座る張良が流れるような美しい所作で酒を注ぐ。
……一杯だけって言ったのに。
劉邦は俺の問いにばつが悪そうな表情を浮かべた。
「ああ、その、あれだ。ちと景駒ってのに兵を借りに来たんだがな」
ん? 沛の統治が上手くいってないのか?
「沛公の勢力は未だ大きいとは言えず。孤立を避けるため、勢力拡大のためにもどこかと共闘せばならぬのは明白です。まず沛から最も近い楚王を訪ねました」
酒瓶を置いた張良が劉邦に先じて説明を始める。
ふむ、そういうことか。
共闘とは言っているが、兵を借りるってことは風下に立つってことだろう。
俺達斉に来てくれればいいんだけど、以前に断られている。
「沛公は楚王を名乗る景駒の器を測るためにも、兵をお借りしたいと申し出ました」
うーむ、あの秦嘉が沛を治めているとはいえ、未だ無名の劉邦に兵を貸すかね? それよりは……。
「沛は元々魏の地。魏に参入とは考えなかったのですか?」
「魏には付かんよ」
劉邦の声が低くなる。
「魏は沛公を無視して各邑に帰順を迫り、すでに交戦、敵対状態です。なんとか撃退しましたが、またいつその手が伸びてくるか」
なるほど……。魏の侵攻がきっかけでどこかの傘下に入る決意を固めたってことか。
しかし張良の話しぶり。
嘘は言っていない感じだが、聞くまでは応えないって感じだな。なるべく小出しにして不利な情報を渡さないようにしてるのか。
「で、景駒には会え、兵は借りられたのか?」
田横が景駒との会談の結果を尋ねる。
劉邦はハッと鼻で笑う。
「あれは御飾りだな。その上宰相の秦嘉は鼻持ちならん。兵を貸すどころか兵を寄越せと言ってきやがった。あれは駄目だ」
秦嘉はもちろん、やはり景駒も質が良い人物とは言えないようだ。
「では別のところで兵を借りるので?」
「いや、たまたま既知の寧君という男が景駒の下にいてな。寧君が上手く話をまとめ、兵を率いて合流することとなった」
劉邦は酒で口を湿らせ、少し声を落として続ける。
「寧君は楚の噂を聞きつけ参入したが、どうも思っていたようではなくてな。景駒や秦嘉と距離を置きたかったらしい。そこへ俺が来たので絶好の機であったそうだ」
ここでも劉邦の強運と顔の広さが功を奏したか。
「では沛に戻られるので?」
「そうだな。多くはないが兵は得た。とりあえずはこれで豊……沛周辺の鎮撫を進められる」
豊? 劉邦もなんか隠してるな。
しかしこれは……。
「劉邦殿は景駒の勢力に参入ということになるのですか?」
俺は疑問を口にする。
「ん、いや? 寧君が景駒から兵を借りたんだ。俺ではない。付いてきてくれとも言っていない。向こうから申し出てくれたんだ。下に付く理由もない」
おお、すげー屁理屈……。まぁでもそんな屁理屈が大事なんだろうな。
「景駒の下では沛公の空を狭めることになりましょう。沛公の翼を大きく拡げるため、新たな空を探さねばなりません」
張良が微笑みながら、大言を吐く。
この間俺が劉邦と会った時は居なかったんだから、劉邦と張良が出逢ってそう時は経っていないはず。
それなのに劉邦の王器を疑いなく信じているようだ。
劉邦もかなり信用している様子だ。
この二人、出逢うべくして出逢ったということか。
「ところでそちらは何故、留へ?」
今度はこちらが苦い表情だ。
「……一族の揉め事だ。それ以上は言いたくはない」
田横が渋々という感じて応える。
「そちらもどうやら不調であったようですね」
張良が田横の返答から察し、苦笑する。
「まぁ秦嘉の人となりが分かり、楚全体の雰囲気も掴めました。共闘するには値しない、というのはそちらと同じ見解ですね」
共闘どころか敵対したんだけどな。
張良は頷き、
「この勢力とは距離を置いた方がよろしいでしょう。遠からず消え失せる気がいたします」
その後も話せる範囲での情報交換を交わしていく。
劉邦が言った通り張良は各地に間諜を置いているようで、かなり詳しい。俺達が知っていることは大体知っていた。
あ、そうだ。最初に聞こうと思っていたことを忘れていた。
「ところで張良殿、横殿と腕相撲した若者のことをご存知なのですか?」
俺は注がれ続けた何杯目か分からない酒を呑み張良に尋ねる。
「ふむ、お会いしたことはありませんでしたが外見の特徴から推測するに心当たりはございます」
やはり張良が知ってるほどの有名人か。
「以前彼の伯父の項伯という方と交友を結び、一時匿っていたことがあります」
ほー、秦の転覆を狙う過激派仲間かね。その項……?
「恐らく彼はその項伯と会稽郡守項梁の甥の、項羽その人でしょう」
「ブハッッーー!!」
「おい、汚えな田中。いきなり酒を吐きおって。鼻水も汚え」
「どうした? むせたか?」
「ゴファ! ゴフ! す、すみません。き、気管に……!」
お、おおお、落ち着け。張良にあや、怪しまれる。あ、あいつに突っ込まれたらボロが出そうだ……!
俺は咳込んだ息を整えるため、大きく深呼吸をする。
「ふぅ、も、もう大丈夫です」
項羽……だったのか? あれが?
確かに鋭い目付きで強そうだったけど、田横を殴ったのも謝罪してたし、わりと話せる好青年だったじゃん!
あれが何十万も生き埋めにした、無慈悲で冷酷な「覇王」と呼ばれた男なの?!
田横が気絶するほど殴ったけど大丈夫なのか?
いやいや、殴ったのはあっちが先か。
これで後々関係が拗れたりしないよな……?
「大丈夫ですか? 急に顔色が悪くなりましたよ。汗もひどい」
張良が心配そうに聞いてくる。が、その瞳の奥は何を考えているのかわからない。
いかん、また混乱の極みだ。取り繕うこともできそうにない。
「少し飲み過ぎたようです……。今日のところはこれで失礼させて頂きたい。横殿」
「うむ、俺も流石に疲れた。宿に戻らせてもらおう。劉邦殿、張良殿、またいずれ」
俺達は席を立ち、足早に別れを告げる。
「そうか、仕方あるまい。まぁまた会うこともあろう。田横殿、その時はゆっくり呑もう」
劉邦が人好きする笑顔で応える。
「またお会いできる時を楽しみにしております」
張良がゆったりと微笑む。
二人の笑顔を背に俺達は酒家を出た。
よし、今日は寝よう! 明日考えよう! もう色々……。
色々ありすぎて疲れた……。
◇◇◇
田中と田横が去った酒家で劉邦が杯を傾けながら張良に問う。
「あの二人をどう見たかい」
「田横は英雄の資質十分。田儋、田栄を直接は知りませんが、田横が斉王ならばと思わずにはいられません」
「ふむ、王位が回って来るには遠いか。しかし将としても逸品だろうな。で、もう一人は」
張良の表情に珍しく困惑の色が映る。
「……彼は本当にわかりません。優れた洞察力を持っているかと思えば、自身の感情はすぐに顔に出る。弱気で臆病かと思えば、巨漢二人の間に割って入る豪胆さ。相反する二つの面が見えます。それに項羽殿の名を聞いた時の驚き様……」
劉邦が思わずといった風に笑う。
「カッカッカッ。面白いやつだろう。そういや俺と初めて会った時も青い顔してやがったな」
「おや、そうですか。……彼は英雄の資質を見極める何かを持っているのかもしれませんね」
様々な超常的な術を学んだ張良は、あの男に人知を超えた何かを感じる。
「ほう。となるとあの項羽とかいう若造も英雄ということか?」
「わかりませんが、項羽がここに現れたということは項羽の叔父、項梁は江水を渡りこの反乱に加わるつもりなのでしょう」
二人は既に項梁が道中の勢力を吸収しながら、下邳まで来ていることを知らない。
項梁軍はそれだけ素早く、そして整然と軍を進めていた。
「楚王を名乗る景駒の値踏みってわけか。項燕将軍の子、項梁とその甥、項羽か。そっちの方が楚らしいし、強そうだな。頼るならそっちだったかな」
「借りた兵で豊邑が落ちねば、そちらを訪ねましょうか」
「おいおい、縁起の悪いことを言うなよ。お主が言うと真になりそうで怖いぜ」
劉邦は苦笑いをつくり、また杯を空けた。