序章 人間ってホント愚か
ヨーロッパの皆さん、申し訳ありません。
――――二〇一六年五月、ヨーロッパ諸国が滅びた。
「フランス支部からの通信が途絶えました! 確認へ向かったヘリの消息も途絶えてしまっています!」
『L.A.W』日本支部では、それこそ他人事ではないほどの喧騒っぷりに包まれていた。ある者はマイク越しに必死に応答を求め、ある者は残されたデータから少しでも現地の状況を推し量ろうとしている。
一目で混乱しているということが察せられる。皆、鬼の形相で対処に当たっている。当支部の支部長を務めている男――入谷昴は各国に点在している支部と連絡を取り合っていた。
「アレクセイ局長。ではロシアでもまだ状況は掴めていないと?」
『その通りだ。どこまで近づいてよいのか、それすら掴めていない状況でね……。毒ガスにでも包まれているみたいに、ある一定範囲内に踏み入れると倒れて、そのまま目覚めなくなってしまうんだ』
くそっ! と彼は苛立ちそのままに机を強打した。原因不明、それが最も厄介だ。隊員にはどんな環境下でも動けるよう、特注のパワードスーツを着込ませているがそれも現時点で意味を為していないらしい。結果がそう物語っている。ヨーロッパとほぼ隣接しているロシアからでも判明していないとは、状況は極めて困難であると言えよう。
入谷の胸の内に宿る感情は、ままならない状況に対する憤りだけではなかった。それ以上に焦燥の側面が大きかったはずである。
(半信半疑……というより、今の今まで上層部のご乱心だと思っていたぜ。まさか地球意志なんてのが、俺たち人類を滅ぼそうとしているなんてな!)
それでも命令には従わなければいけないから、不満を隠して支部長を務めてきた。薄気味悪い異能者たちをまとめ上げてきた。いっそ現実にならなければ、単なる笑い話で済んだだろう。
平和ボケしていた脳みそに、今さらながら喝を入れる入谷。そのとき、局員の一人から声を掛けられた。
「支部長! 本部より通信が入っています!」
「こっちに繋いでくれ! ――こちら入谷、応答願います」
『こちら本部。緊急なので用件だけ手短に伝えます。そちらの支部の「言霊師」を数名ヨーロッパまで派遣してください』
「正気ですか? 未知の領域に彼らを投入するなぞ……吶喊を強要することには応じられません」
『我々はかつての日本人より遥かに理知的です。限りある命を無闇に浪費しようなどと考えてはいません。ただ「言霊師」がこの場面では最も適任である――少なくともそう理解していると考えていましたが』
そこまで言われて、まだ自分は常識で物事を計ろうとしていることに気付かされた。今のこの事態が既に常軌を逸しているのだ。縮尺の合わない定規をいつまでも重宝していても仕方がない。オペレーターの言う通り、『言霊師』であれば死神の腹の中に突っ込んでも問題ない者もいることだろう。
指揮官とは非情に徹することが求められる。立場と責任は比例する。元自衛官とはいえ、他人に命を捨ててこいとは到底言い慣れていない。オペレーターの正論に言葉を詰まらせていると、正面から凛とした声が飛んできた。
「――――支部長、俺で良ければ現地まで向かいましょう」
腰に帯剣をぶら下げたその男は、一瞬で只者でないことを悟らせた。低い位置で長髪を束ね、一糸の乱れなき着物を身に纏っている。いかにもサムライと思しき出で立ち。端正な顔つきは、しかしまだ幼さを残していた。
入谷は当然この男のことを知っている。部下だから、という理由以前に、この者こそ日本支部の最大戦力。三十名ばかり存在する『言霊師』の中でも一際別格な存在。だからこそ局長は彼の個人情報に関しては細かくチェックしてあるのだ。
「柳生武蔵……」
入谷は目の前の男の名前をポツリと呟いた。柳生の進言通り、不測の事態を一刻も早く脱するには彼の力が必要となってくる。ひいてはそれが兵の損失を防ぐことにも繋がる。
「できるのか? 目的地はまさしく死地。いかにお前と言えど、どんな過酷な環境が待ち受けているか――――」
「ですがこれ以上平行線を辿るわけにはいけません。この身は護国の盾にならんと決めた以上、俺が手をこまねいていることはできんのです」
静かな物言いだった。けれど、その内からは絶大な意思の強さが伝わってきた。何より入谷の不安を押し留めるのに充分過ぎたのである。
こうして一人の青年が志願してくれている、ならば入谷はそれを後押ししてやることくらいしかできない。支部長という肩書の割りにはちんけな仕事に、胸中で落胆する。
「ならば任せよう。ただ、一つだけ命令を付け足そうか。――生きて帰ってこい。若者は国の宝だ、決してその屍の上に国家は成り立ってはいけない」
「御意、――――御意」
深く噛み締めるように、柳生は頭を下げた。そのまま彼は通信室を後にした。入谷は即座に本部へ派遣する旨を報告し、移動用のヘリを手配する。
恐らくヨーロッパには各支部から選りすぐりの『言霊師』が派遣されることだろう。目には目を、歯には歯をというやつで、相手が『言霊師』であるならこちらも『言霊師』を以って対抗するまで。
そもそも如何にしてヨーロッパを通信不能状態にまで持ち込んだのか。単に妨害電波が流れていて阻害されているだけなら僥倖だ。だが、かの地球意思からの予告通り壊滅させられているのだとすれば、その手先である【十二使徒】も現地に留まっているはずだ。今までは手の込んだ悪戯とばかり思い込んでいたが――――
まったく、と彼は近くにあった椅子に腰を下ろした。背もたれに身体を預けてフウ、とため息を吐いた。
「冗談でないとするなら……怪物揃いだな、【十二使徒】という奴らは」
未だ確認の取れない脅威は、されど確実に足音を立てて近付いていた。
*
もはや自分が何者だったのかさえ、私には不確かだ。
始めは耳鳴りのようなものだった。ちょっとすれば収まる程度の、形を成していない声であった。それがいつしか頻繁に起きるようになり、次第に形を、生命を持つようにさえ成長していった。言語を獲得した『それ』は、まさしく囁くような声音で言った。
『人類はなんて愚かなんだろうね、ヨハネくん』
その声を聞いた途端、身体の震えが止まらなかった。単純な恐怖とでは言い表すことのできない、生物としての絶対的な格の違いを本能的に感じ取ったのか。
いくら耳を塞ごうとも声が途切れることはない。当然だ、その主は脳に直接話しかけているのだから。
男なのか女なのか。少年なのか老人なのか。善か悪か、機械か肉声か、夢か現か。どれも判別が付かない。聞いているうちに、きっと『それ』はあらゆるものの中心に君臨しているのだと気付いた。
しばらく『それ』は小難しい話を繰り返していた。聖書を朗読しているような、そんな感じだった。恐れ多い声が止むことはなかったものの、別段私生活に悪影響が出たわけではなかった。むしろ試験のときには手伝ってくれることすらあったくらいだ。
いつしかヨハネは『それ』に心を許していた。以前は身体を強張らせていたが、そのときには親友と共に過ごすくらいの気軽さを持っていた。――――恐らく、それが緩みへと繋がっていたのだろう。彼は次第に身体までも乗っ取られようとしていたのだ。
『それ』は待っていたのである。気を許す瞬間を、心に入り込む一刹那を。謀られた、と意識した時点で既に遅すぎた。
『心配しないでもいいよ。別に痛くしようとか、手荒な真似は一切しない。むしろ誇るべきさ、何故なら君は選ばれたんだ。【十二使徒】の一角に』
何を言っているのか分からない。理解する機能を掌握されているからだ。もはや反射的に感じたことくらいしか言葉にできない。
『「何故私なのか?」って? そうだねえ、まずは君の名前かな。ヨハネ、なんて十二使徒にはピッタリだろう? それに何より――――』
聖者か悪魔か、定かではなかった『それ』は、このときばかりは悪魔のような笑い声をけたたましく上げて、
『――――何もないというところが素晴らしい! 何もかもが中途半端で、空虚で、生かされているだけ! そんな人間が最も与しやすいからさあっ!!』
…………! もはや声にならない悲鳴を上げる。私は何て恐ろしい存在を受け入れてしまったのだ。これならいっそ自決しておけばよかった。こいつはまずい。こいつは間違いなく人類に害なす存在だ――――!
最期の抵抗も為すすべなく『それ』に抑え込まれてしまう。『それ』は平常通りの温和さを取り戻し――今の私にはそれでも悍ましく聞こえるが――――、愉しそうに笑った。
「これからも是非仲良くしていこうよ。末永く共生していく関係なんだからさ」
私の声がした。紛れもなく『それ』は私の喉を使って発声したのだ。私の意識下にある部位はもうほとんど残されていない。髪の毛一本動かすので精一杯だ。あるいは、そこだけが私に許された自由なのか。
「君はただ見ているだけでいい。これから起こる一部始終を、達磨のように眺めていればいい。だから――――思考能力も必要ないよね?」
ガリ、と確かに自己の認識としてあった私の全身が、足元から崩壊を始める。ゆっくりと化け物に食べられているかのような錯覚を受ける。
私が! 私が消えていく! 何故だ、何故このような酷い仕打ちができる!?
「嫌だなあ、これはとても名誉あることなんだよ? 人類浄化の全ての立ち合い人になれるなんて、かつての預言者たちのような奇跡なんだ。とはいえ、彼らのように何かを為せるわけではないけれど、ね」
止めろ、止めてください。あ、脚が……私の脚が! 消えるのは嫌だ――無に堕ちるのは嫌だ!
「恐れることなんてない。受け入れよう、全てを。君だって今までそうして生きてきたじゃないか。それが今になって嫌だ止めろと、君らしくない」
暗い……、怖い……。母さん、父さん。どこにいるの? もう何も見えないよ。私に似た何かが耳元で勝手に話しているんだ…………。
「――――我が躯はヨハネ・ラパウザ。神名は【災厄王】、現世に誕生を果たしました。使命は人類掃討、即ち世界の浄化である!」
それが私の聞いた最後の言葉であった。
一日目には昼と夜を。
二日目には遥かなる空を。
三日目には広大な大地と大海原を。
四日目には絢爛たる太陽と静謐たる月を。
五日目に鳥と魚を、六日目に獣と家畜、さらには神に似せた人を生み出した。
――――これにて天地万物は完成へと至った。そして地球は第七の日に安息を齎した。地球の中に不足なし。慎ましやかに生活を送るのなら、何ら過不足はなかったはずだ。そもそも地球の為すことに間違いなぞ有り得ない。
ただ、今になってこうも思うのだ。――――もしも七日目を安息日と定めずに、天地創造に改良を加えていれば果たしてどうなっていたのか、と。