よつ葉 ハードボイルド
ハードボイルド風に仕上げてみました。
目先が変わっていいかと思って。
殴ったり撃ったり蹴ったりするシーンはありません。
夜、木枯らしが吹いていていた。
小さな下宿部屋の窓を、ガタガタと鳴らす。
窓は結露し、すりガラスのようになっていた。
炬燵に入って、ニットのショールを肩に。
天板の上には、食べかけの蜜柑。そして、看護師国家試験過去問題集。
冷たくなった指を擦り合わせ、
「寒……」
と、呟いて炬燵の中に手を入れる。
温みに血管が膨張しジンジンと指先が痺れる。
トロっと眠気が襲ってきた。
つけっぱなしのTVは、聞こえるか聞こえないか程度にボリュームを絞っている。
年末特番は、やかましいだけのくだらない芸人が騒ぐだけ。
国民的長寿番組の歌合戦は、上っ面を流れるばかりで、心に響かない。
だから、無言のパントマイムで十分だ。
たった一人、問題集を睨みながら過ごす年の瀬を、賑やかすだけなのだから。
うつらうつらしながら、脳は今年一年の記憶を掘り返している。
その画像が脳裏に浮かんでは消える。
――応用臨地実習は怖かった。
時には、逃げ出したいほど。
胃はキリキリと痛んだ。
先輩方は、どうやってその恐怖と向き合っているのだろうと思う。
座学は、一生懸命にやった。その結果は出している。
シミュレーションも重ねた。実戦で使えるレベルまで、技術を練り上げた自信がある。
だけど、実際の現場は違った。
怖かった。
怖くてたまらなかった。
でも……意外だったのは、自分の負けん気だ。
泣き虫。そう思われていた自分が、半べそになりながらも、逃げなかった。
まるで、私を試すように、わざと厳しい条件を突きつけてきた指導看護師の課題に、真正面から挑んだ。
まだ、学生なのだ。逃げたっていい。甘えてもいい。実際、逃げてしまった仲間もいたのだ。
私は逃げなかった。歯を食いしばって、踏みとどまった。逃げ癖など、つけてたまるか。
その結果、下された成績はS。
今でも、やはり現場は怖い。
怖いけど、その性質が変わったような気がする。
――実習を始める前の自分は、何が怖かったのか?
そのことを考える。
気が付いたのは、未知こそが恐怖の根源であるということ。
知らないから、怖い。
手探りだから、怖い。
実戦を潜った今は、自分の手に患者さんの命が握られていて、それを救うための『ベストを尽くせない事が怖い』に変わっている。
だから、座学は無駄じゃない。
経験とは、真っ白な紙に、自分の航路を描く行為。
そのための道標が座学。実際にペンを走らせる行為が実戦。
両輪なのだ。どちらが欠けても、ふらついてしまう。
未経験の私は、片輪だったから『怖かった』。それが、実感できた。
看護の責任。それが、どすんと肚に落ちてきている。
『命と向き合う覚悟』と、言い換えてもいいのかも知れない。
「担当患者、代わってよ」
そんな事を、言われたのを思い出す。
私が怖かった実戦の場で、全く物怖じしない人からの言葉。
怖がっていないのは、その人に勇気があったわけではない。
決定的に想像力が欠けているだけなのだ。
小さなカマキリが、人間に向って鎌を振り上げているようなもの。
そんなものは、勇気でも、覚悟でもない。
単なる刺激と反応だ。
窓を開けて、夜気を浴びる。
眠気は、ビリっと冷たい空気にはじけ飛んだ。
何の想像力も、危機に対するイマジネーションも無く、患者を代われと言ってきた人。
同じ看護師を目指す同志のはずなのに、私の担当患者が急変するという陰口を叩いた他校の学生。
患者さんや、そのご家族から吐かれた暴言。
そんな事が、ぐるぐると頭をよぎる。
それでも、なお、看護師という憧れは色褪せない。
私は、同じ方向に進む同志の誰より、高く、遠く、飛べる。
運などではない。
積み重ねてきた、経験によるものだ。努力によるものだ。
それを、誇っていい。自信に変えていい。
拳を夜空に突き出す。
「孤立と孤高は違う! オールSをなめるなよ!」
これは、私の凱歌だ。
人生を切り拓く戦の鬨の声だ。
今、この瞬間だって、明日への標となり、糧となる。
眠気は飛んだ。
心に湧いた澱みは消えた。
怯懦は去っていった。
いつでも私の胸にくすぶっている、看護師への憧れに、改めて炎が灯る。
「立ち塞がる奴は、誰だろうと、全部ぶっ倒す!」
宣言して、大きく深呼吸をした。
キリッと冷えた空気が肺に取り込まれ、頭がすっきりとする。
看護師国家試験過去問題集の今日のノルマはあと数ページ。
それに取り組もう。
どこか遠くで、殷々と除夜の鐘が鳴る。
新しい私が、再起動した。