Part.1 少女と男
陽が沈みかけた薄暗い森の奥、その崖の近くで1人の少女が座り込んでいる。
すぐ近くには大きな灰色の狼が血を流して、力なく倒れていた。
少女は短い赤い髪をしており、普段は勝気なイメージを与える大きな目に涙の痕が見えるが、いまは落ち着いているようだ。
『…つまり、オレは神様に呼ばれてこの《世界》とやらにきたんだよ』
男性の少々かすれているが、優しげな声が少女の頭の中に響く。
少しだけ身体を反応させ開けていた口を閉じてこくんと頷くと、ふっと息を漏らす声が響き男性が話しだす。
『それにしてもアイちゃんが怪我をするのを防げたのは神様に感謝だな。こんな状態でも魔法が使えるのは、そうだね…アイちゃんの日頃の行いが良かったらだと思うよ』
最後におどけるような言葉にアイと呼ばれた少女はくすりと笑う。
それに反応するかのように少女の周りに風が吹き、木の葉を巻き上げた。
『しかし、ここでは魔力ではなく精霊の力を借りて同様の現象を起こすとはなんと興味がそそられる。肉体さえあれば研究し続けたいほどに面白い!』
言葉の通りその場にはアイが1人いるだけであった。
彼が存在しているのは少女の身の内、つまり魂のみで憑依しているのである。
二人が出逢ったのは少女が不運に見舞われた時、そしてこの数奇な運命の物語はその数時間前から始まる。
今年で10歳となる少女アイは獣人が多い地区の小さな町で両親、祖父と共に宿屋を経営している。
今回は家の手伝いで小枝と自生しているハーブを集めてくるため、陽の高いうちに森の浅いところへと足を踏み入れていた。
数日前に大人数の冒険者を迎え入れた直後ということもあり、いつもより多く拾うために普段では入らない場所まで足を延ばしていた。
さらに間が悪いことに2日前に大きな雨雲が通っており、表面は乾いていたが日陰になっていた崖の付近はまだ地面が柔らかかったのだ。
ハーブの群生地を見つけ喜び駆け寄ったことで、崖の周囲は崩れてしまい、自身の身長の2倍ほどの高さから滑り落ちることになる。
ただでさえ陽の光が届きにくい森の奥で、手の届かない崖から落ちた衝撃、普段は心地よいと思える虫の音色が不気味に響く。
まだ10歳の少女の心を弱らせるには十分な環境であった。
そして、気を失ってしまった。
目を覚ました時には既に陽は沈みかけており、虫の音色も昼間とは別のモノになってきている。
泣き出しそうになるのをぐっと堪え、立ち上がろうとした瞬間
がさり、と目の前の茂みが揺れ、灰色の狼が顔を覗かせていた。
「…ぁ…い…いや、こな……こない…で」
そう懇願するアイに向けて涎をたらしながら灰色の狼はのそり、のそりと少女の身体より大きな身を近づけてくる。
そして狼がその身に力を入れ、飛びかかってきた。
「いやあぁぁぁぁ!!!」
叫ぶ声が響く間にも両者の距離は縮み、アイの目の前には大きな牙が迫る。
もう助からない、助けてくれる人なんていない。
少女が絶望した時、ふわりと頬を撫でていた風が強烈なものとなり、飛びかかる狼にぶつかる。
ギャンと鳴き、横に吹き飛ばされた狼は起き上がろうとするが、またも風が吹きその首に大きな裂傷をつけ血を流しながらそのまま倒れた。
ほんの数瞬に起きた出来事がアイに理解される前にやや掠れ気味の男性の声が響いた。
『もう大丈夫だよ。君はオレが護るからね。だから、もう大丈夫なんだ』
優しい大人の男性の声。
安心した少女は恐怖した心を発散させるように大きな、大きな声を上げて泣き出す。
それに気が付いた冒険者が近づいてくるのはもう少し後のこと。
魂だけの男性が熱い魔法議論を幼い少女に語り、訳が分からないとひとしきり笑った後のことだった。