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ダイバー

作者: コンテナ店子

 とても都会とは言えないような町にある、目立った観光地や注目するような物もないような住宅街に建つ一軒家。そこの三つのベッドが置かれた寝室でのこと、まだ小学校に入って間もないくらいの年齢に見える長髪で女の子が布団の中に入っていた。だが、目は開けられていて明らかに起きていることが傍から見てもわかる。

「優菜、まだ起きてたの?」

 部屋に一人の女性が入ってくる。少女と似た髪のこの女性は、ベッドにいる優菜と呼ばれた子供の母である。薄暗い部屋の電気を付けずに娘が入っているベッドのそばまでより、縁に座った。

「……寝れないの」

「学校で、何かあった?」

 専業主婦をしている彼女は一人娘が学校から帰ってからずっと一緒だったが、不安の種になりそうな様子はなかった。だとしても、ずっとその素振りを見せなかったとはいえ、学校で何かったのではと考えた次第である。

「先生が、私はおかしいって」

「そんなこないわ。ただ、先生がほかの事で怒ってただけよ」

「でも、みんなも、女の子は木登りなんかしないって言ってた」

 昔から優菜は泥だらけになって帰ってきたり、怪我を作って帰ってくることは何度かあった。だが、彼女がいじめられているという話は本人からも先生からも聞かない。だがそれもいつまで持つか。自分の娘の将来を考えるとシーツを強く握りしめてしまった。

「お母さん、私どうしたらいいの?」

「大丈夫よ。母さんも大人になれたんだから」

「でも、お母さんは泥んこになったりしないよね」

 二人が話している間に家の玄関が開く音が聞こえてくる。それを聞いて、優菜の母親は少し待っててねと言い残して優菜のそばを離れ、そのまま部屋から出て行った。

 部屋の灯りは添い寝してもらっていた時代に親がそうしていたからという理由で付いている常夜灯だけの部屋で一人の優菜。布団を被れば、さらに一人ということが強調されてしまう。

「やっぱり施設に連れていくべきよ。例え軽度でも見てもらうべきだわ」

「なぜだ。私がそんな欠陥がある子供を産んだなんてことを親戚に知られたりしたらどうするつもりだ? それに、お前も近所の人からおかしな目で見られるに決まってる」

「でも、私たちの勝手でこれ以上娘を苦しめていいの?」

「だったらもっとお前がしっかりしつければいいだろ。あれだけ苦労したが、ここまでやってきたんだ。今回だってしばらくすれば落ち着くはず」

 扉越しでも、優菜に父親が離れていく足音がしっかりと耳に入る。布団の中は狭くて、優菜には居心地が悪く感じるし息苦しい。だが、瞼がお落ちそうになるたびにその中から外へ出る気持ちはどんどん離れていった。


 それから数日後、優菜はこの近くでは一番大きな総合病院へ来ていた。学校はお母さんがなんとかしてみるからもう少し頑張ってと母親に言われて、今日までなんとか行き続けている。

「お母さん、ちょっとトイレ行ってくるね」

 座る場所がなく立っている人がいるほどに込み合う待合室で母親と二人で座っていたが、言葉通り席を離れていったので、優菜が一人になってしまった。周りを見回すと、老若男女問わず体調が悪そうな人が色々いて、足を前後にぶらぶらさせながらそれを少女が二つの目で見つめる。

 病院特有の白い壁や偉い人の話を取り上げるニュースが映ってるテレビや花瓶が描かれた絵。それらを見つめるが、彼らが動くことはない。視線を前へと戻し、そのまま優菜は立ち上がって歩き出してしまった。


 世界はあまりに広すぎて、ちょっと高い所に行ってもちっとも遠くは見えなかった。それはこの前知ったはずなのに、知っていても優菜は病院に併設された広場に植わっている木に登っていた。ふらふらと興味が引かれそうな物を探して歩いている間にここへとやって来てしまったのだ。

 駐車場を行きかう車を眺めていたが、すぐにその視線は自分が幹に座っている木の根元に行く。そこには、優菜自身と同じくらいの歳の女の子が一人でいた。

「あの、同じクラス、だよね……?」

 目の前にいるのは彼女の言う通り、クラスメイトの女子の一人である。特に話したことはないけれど、特に仲のいい友達という人はいないように見えるし、休み時間に何をしているのはよくわからない。

 彼女の問いにそうだよと優菜は答えた。

「そこから何が見えるの?」

「何も見えないよ」

 前は何か見えていたけど、今は何も見えていない。

「いいなぁ……」

「えっ?」

 数日前に怒られた時はクラス全員いたし、この少女がいなかったなんてことはないはず。それを知っていたから優菜は明らかに驚いている声を出してしまったのだ。

「だって、私何もできないから。見てるとすごくいいなぁって思う」

「でも、先生は怒ってたよ」

「私はいいことでも悪いことでも、出来るだけですごいと思う。本の中の人みたいで、憧れちゃう」

 そういえば、この少女は教室でよく本を読んでいたなということを思い出した。優菜はじっとしてられないから読めないが、その中の冒険や戦いはかっこいいと思う時もあった。

「あの、もしよかったら、私もそっちに行ってもいいかな……?」

「えっ、でも、登れるの?」

 先ほど何もできないと言っていたから優菜は疑問に思ったのだ。それに、彼女は見るからにどんくさそうで、いつも体育の時間で後ろを走っていたはずである。

「えっ……。ごめん、無理だった……」

 ちょっと挑戦して、ダメだと諦めるように芝生に座り込む少女。しかし、すぐに立ち上がり膝を軽くはたいて建物の方へ体を向ける。そして頭だけ優菜の方へと向けて一言いう。

「ごめん、変なことしちゃって、帰るね」

「待って!」

 少女の姿を見て、慌てて木から降りる。そして、短い距離ではあるものの、離れていた彼女の元まで慌てて走った。そして、片手を掴む。

「あの、もしよかったら、私が登り方、教えてあげる」

 

 クラスでいつも目立っている女の子に声をかけて、それから十分くらい母親が用事を済ませたと言ってやってくるまでの間、その娘とあまり友達がいない鈴鹿は一緒に遊び、彼女が母親に引っ張られて建物の中に戻っていく姿を眺めてから帰ることになった。

「あの、お母さん」

 母親が運転する車の助手席に乗り込んですぐに、優菜といた時はしていなかった不安そうな表情で鈴鹿が話し始めた。一方母親の方は、車を運転しているため鈴鹿の方を見はしないが、その言葉に返事はしている。

「お姉ちゃんは病気なの?」

 母親はため息をつく。

「違うわ。ちょっとみんなと違うだけ」

「じゃあ、なんでこんなことになってるの?」

 赤信号で車が一度止まる。それもあって、母親が手を伸ばして、鈴鹿をなだめるかのように頭を撫でた。

「これも、鈴鹿を守るためだから……」

「そんなのおかしいよ。私のためにお姉ちゃんが嫌な思いしなきゃいけないなんて」

 車が走り出す。それと同時に鈴鹿の元から手が離れ、それと同時に会話も終わってしまった。鈴鹿を守るためなら本当はどうするべきなのかなど、どちらもわかっている。しかし、現実はそうはいかなかった。

 次の日には学校で楽しいことを教えてと向こうからやって来たので一緒に遊び、そして次の日も、その次の日もと二人はいつも一緒にいるようになったのだ。


 今日は日曜日。多くの人にとって学校や仕事が休みなように、女子中学生である鈴鹿も例外ではなかった。

 お下げの髪型以外あまり特徴的なところはない彼女がこの休日をどう過ごしているのかというと、自宅である小さな一軒家のリビングにあるソファに座って何やらそわそわしていた。その視線の先にあるのは自身の携帯電話。ピンク色で可愛らしいそれを手にしたのはかなり最近のことで、それがこの年代でも当たり前のように普及するようになって間もないこの時代の流行に便乗してみたと言ったところである。

 良くも悪くも静かなその時間は、とても簡単に崩される。理由はひとつ。携帯の着信音だ。

 全く音がなかった部屋に満ちたそれにびくっと体を震わせた鈴鹿は、携帯を手にして一同心を落ち着かせるために深呼吸。それから電話に出た。

「もしもし?」

「もしもし? 優菜ちゃん?」

「鈴鹿、私だよっ!」

 そこから流れてくる元気一杯な声を聞いて、自宅で休日を過ごしていなさそうな緊張した顔から、口と目が開かれる。電話の相手は彼女の親友である優菜。いつも何をするにしても一緒にいる二人。こうして遊ぶことはよくあることなのだが、今日は自分から誘ったこともあって、電話しながらも周りや自分の様子を何度も見ていた。

「こっちはね、今家出る準備してるとこ」

「ほんと? こっちは準備できてるからいつでも来ていいよ」

 今日は先日鈴鹿が楽しみにしてた映画のdvdがレンタルで出回ったので、二人で一緒に見ようという話になっている。

 今鈴鹿が着ている服は、お気に入りのブランドで買った水色のシアーギンガムトップスとスカート。そこそこいい値がするが、以前の学校のテストで高得点を取った時に親からお金をもらったので、少し恥ずかしかったがこれを買ったのだ。


 ほどなくして家に呼び鈴の音が鳴り響く。その音は何度も聞いてるはずなのに、まるで美しい舞で聞く鈴の音のように鈴鹿を引き付けて。勢いよく走るというほどではないにしても、彼女はいつも歩く足が速くなっているようであった。

「おはよっ、鈴鹿!」

 鈴鹿の目の前にある長髪が、持ち主の動きを強調するように揺れる。腰の辺りまで伸びたそれは、物とは思えないほどにふらりと舞い上がった。

 幼馴染である二人の関係は雨上がりの景色のよう。どちらもまだ未熟という意味では一緒ではある物の、その性格は全くの正反対。そんな二人が存在し合うことで一つの物語を生み出すことができるのだ。

「鈴鹿? どうしたの?」

「えっ、ううん! 何でもないの。そうだ! 早く中に入って」

 なぜか立ち尽くしていた鈴鹿が、声を掛けられたのに反応して早口で捲し立てる。普段会う時とは違った対応に疑問符を浮かべながらも、優菜は特に言及せず中に入っていく。親友と過ごす時間は彼女にとってグリーンベルトを駆けているようであった。

「お邪魔しまーす。あっ、そうだ。ねぇ鈴鹿!」

 入ると同時に、優菜がその場でくるりと回転。スカートと髪の毛がふわりと揺れる。

「えへへ、どう? 新しい服、買ってみたの」

 キメポーズのように少しだけ前かがみになった。もちろん彼女のトレードマークでもある笑顔を添えて。それは後から付けた物ではなく、彼女の中から自然と湧き出た物である。

「うっ、うん! すっごい可愛いなって思って、その……。つい、見とれちゃった」

 太陽を照り返すように見える肌を露出しつつ、その色にシンクロするような白のワンピースと同色の麦わら帽子姿の優菜。彼女の性格にはぴったりと言ったところだろうか。

 そんな様子を目にし、夏の日差しで顔を覆いたくなったかのように顔を少し低くしてその前で手を合わせながらも、鈴鹿の目は優菜の様子から逃れられなかった。動きやすさに特化したような、背が低く無駄な肉が排除された親友の体を彼女は何度も見ている。よくじゃれ合っている時に感じる髪の毛のにおい、お風呂で流しっこする時に触れるぷにっとした二の腕の感触、そしてはしゃぎまわると見えてしまいそうな太もも。それらに視線がぶつかるたびに、そのすべてが少女の頭の中であらわになった。

 夏をイメージに直結するその姿はまるで物語の中から出てきた女の子のようで。そう鈴鹿が思うことを本人も知った上でこの服を選んでいた。どこにでもあるような一軒家の玄関と、決して誰もが振り向くほどの美人ではない女の子がそこにいたが、二人の間に動きはあまりない。

 鈴鹿がじっと優菜を見つめていて、その隠すつもりのない視線を感じて彼女も動こうとはしなかったのだ。

「ほんと? じゃあもっといっぱい見ていいよ」

「えっ、そっ、それは……」

 親友に声をかけられ、慌ててその顔を見る。だが、その視線がぶつかり合うと鈴鹿はどうにもその見慣れた表情を見つめ続けることができず、視線がそこからそれてしまった。

 こんなことは今までの自分にはなかった。優菜ちゃんが笑ってるのを見るだけで同じ思いなんだってわかるのに、今はそうじゃない。

「うん。その代わり、私は鈴鹿のいっぱい見るね」

「でっ、でも……。私、優菜ちゃんみたいに可愛くないし……」

 目の前の親友が着ている服はかわいい服だし本人も可愛らしいのに、自分自身は可愛くもないという思い。それがまだ年若く小さな体を巡る。

 いつも思ってること。優菜ちゃんは明るくて、誰とでも仲良くできて友達も多い。それに対して、私はただ大人しいだけ。私は十三の文字で片づけられちゃう。

 そう考えながら言葉を発するだけで、彼女の手が言葉に合わせて自然と動いてしまった。

「それでもいいよ。そのままの鈴鹿でも私は全然大丈夫だもんっ!」

 言葉が終わるとほぼ同時に優菜は自身の体を鈴鹿の物と重ねる。これは彼女が親友だけにいつもしている特別な物。有り余る元気のせいで言葉だけでは表現しきれない自分の感情をこうした形でよく表現するのだ。

 一方鈴鹿はというと、立ったまま背中に体を押し付けられてるせいで、現在の本人がもっとも気にしている吐息はよく聞こえてくるし、体温もよく感じる。でもきっとそれは相手にとても同じだから、出来る限り心に落ち着いてと唱え続ける。

 でも、それだけで簡単に落ち着いたらどれほど楽だろうか。落ち着かなきゃと考えれば考えるほどに意識してしまう物だ。今回に限らず、明るい性格で、少し子供っぽさが抜けないせいか、よく自分に抱き着いてくる優菜。

 嬉しい。嬉しいけど、今回は違う。それだけじゃなくて、申し訳なさも鈴鹿の体に溜まっていく。でも、嬉しいけど苦しい。

「こうしてると、安心する……」

 頭の中が『優菜ちゃん』の一言でどんどん埋め尽くされていく。気にしていたはずの息もどんどん荒くなって、体温の上昇も傍から見てもわかるほどである。

「優菜ちゃん……」

「すずかぁ……」

 互いの名前を呼び合う。

「もっと強くしても、いい?」

 その問いには、自分の胸元にあった手を強く握ることで鈴鹿は答えた。そしてそれには、背中にかかる吐息で返事がされる。

「あっ、ふぅ……」

 その息を感じ取り、鈴鹿の口から声が漏れてしまったのだ。首元への温かな吐息が彼女の思考を奪う。そのせいか頭がぐるぐるして今この感覚を味わう以外のことなんて何も考えられなくなり、ただ互いの体温を求めあうかのように、無言で鈴鹿は手を、優菜は体を強く抱きしめた。

「もっ……」

 本能のままに声を出そうとする鈴鹿が途中でやめた理由は一つ。玄関に響いた二人の間を切るような、シャッターを切る音。自分のよく知る人物が目の前でスマホを構えているではないか。その姿を見た鈴鹿は慌ててその場を離れてしまった。

「おっおおお、お姉ちゃん⁉ なななななんでここに⁉」

 目の前にいるのは鈴鹿の姉である涼音。妹とは黒い髪の色以外はあまり似ておらず、髪型は腰まで伸ばしたロングであり、体は細く背の高い。そう聞くと美しく聞こえるが、髪ぼさぼさで、体は細いがスマートというよりは不健康そうである。

「なんでって、ここ、うちの家だし? まぁ、私の事は気にせず続けて続けて」

「むっ、無理だよそんなの!」

 慌てた様子で手を振りながら後退する妹を見て、姉の方は楽しそうにやにやしている。

 二人の見た目に関して体格はもちろんのこと、鈴鹿の物に対して涼音の服装は少しサイズの大きい無地のTシャツと縞履で全く違っていた。

「ちっ、普通のカメラだから……。まぁいいわ」

 その後も鈴鹿は文句を捲し立て続けるが、その一方で優菜は放されてからぼうっと自分の赤みがかかった小さな手を握ったり開いたりしながら眺めていた。


 それからしばらくして、鈴鹿と涼音の二人は暑い日差しに晒されながら閑静な住宅街の道端を歩いていた。なぜわざわざそんなことをしたのかと言えば理由は一つ。家の飲み物が切れていたのだ。今は近所のスーパーからの帰りである。

 優菜は別になくてもいいと言っていたが、それに対して咄嗟に鈴鹿がそんなことないと言ってしまったのだ。その時の事を考えれば考えるほどに彼女は前を向いて歩けない。

 私の事を友達と言ってくれる人に対して自分はなんであんなに居づらいんだろう。それに抱き着かれた時の、おかしな感じ。あれは優菜ちゃんなりの友愛表現なのに、きっともう抱き着くのはおろか、一緒にいるのすら気分が良くないと知られてしまったら。

 そういった考えが体を侵食し、帰る足を遅くしている。

「何悩んでるの?」

 妹とは真逆で、何やら楽しそうな笑みを持って妹に話しかける涼音。今度はあまり驚かずに鈴鹿が反応した。

「えっ? 別に何も……」

「私に隠し事なんかできると思う? 鈴鹿のことはなんでも知ってるから」

 年上という壁はそれほどに大きいのか。それとも自分は少し抜けているところがあるとたまに言われるので、性格の問題なのか。どれが正しいのかはわからないけれど、その言葉に言い返す言葉はすぐにでなかった。

「うぅ……」

「お姉さんにこっそり話してみなって。何でも手取り足取り教えてあげる」

 なぜか鈴鹿の肩が揉まれる。だが、そうやって投げかけてみても、求めた物はすぐにはやってこない。

 先ほどの言葉は隠し事ができないという悪い面も持っているが、それと同時に理解しているからこそ一緒に考えてくれるというメリットもある。もちろん本人らもそれを理解していて、特に鈴鹿の方は姉に子供のころからずっと助けられてばっかりだからなおさらだ。

「話せないの?」

「あの、その、わからないの……」

 その言葉を言いながら、鈴鹿はお腹の中に何かを孕んでいるかのようにその前で腕を軽く組む。視線の行き場は自分が踏みしめる地面以外の他に、正面はおろかいつも見ている住宅街のどこにも行く場所がない。

「やっぱり?」

「知ってたのに聞いたの⁉」

「まぁね。この時期ってわからないこといっぱいあるから」

 姉の視線が自分から離れたことが気になる。だが、相手は空を眺めているだけで、本当はどこを見ているのかわからなかった。それを見ていると数年前にも彼女はよくこうしている時期があったことが鈴鹿の頭の中をよぎる。

「でも、わかんなくていいのよ。今はわかんなくてもいつかわかる日が来るから。私が話してほしいのは解決策じゃなくて、鈴鹿が話したいこと」

 本人はそこまで気が回っていないようだが、鈴鹿の遅く動く足と下を向いた姿を涼音はじっと見ていた。その目は無造作に伸びた前髪のせいでどのような姿をしているのかよく見えない。

「あのね……、えっと……、ごめんお姉ちゃん、心配かけちゃって。でも、いいの」

「……そう」

 優菜ちゃんの事を考えると、抱き着かれた時に頭の中がそのことだらけになったことが思い浮かぶ。彼女そのものも愛情も愛してあげられなかったら、自分に愛を注いでくれる人を愛するなんて何もない人でもできるほど簡単なことなのに。

 たまたま前を通ったパン屋のガラスに映る自分を、鈴鹿は出来る限りみないように歩いていた。


 鈴鹿が小学校低学年だったのころの思い出。彼女がまだその年齢であった一方で姉の涼音は高学年であった。当時から二人はこの家に住み、妹の方は優菜とまさに親友と言ったところ。その時の鈴鹿は家に帰ってすぐにお願いされたお使いの帰りで、現在の鈴鹿と似たような道を歩いていたところから始まる。その時の彼女は特に言うこともなくただ最寄りのコンビニから歩いていたが、とあることをきっかけに表情が変わる。

 視線が移ると共に出てくる小さな声。それらの先には親友である優菜の姿があった。その親友と一緒にいたいと思う足取りは軽やかで、そのクラスの中でも真ん中より少し小さいくらいの背をした三つ編み少女の見た目から察せられる、現在以上に静かな姿しか知らない人から見たら不思議に思うと考えられるほどである。

「ゆう、っ……」

 そのまま優菜ちゃんと呼ぼうとするが、足が止まった。今鈴鹿の目に写っているの優菜は一人ではなかった。そこにいるのはほとんど話したこともない明るいタイプの女子たち。それに男子もいる。今もそうだが特に当時の彼女は怖がりで、太陽のような少女以外の女子もそうだし、男子たちと関わることはもっての外と言える。

 優菜といたいという気持ちは確かにあるが、目の前で行われている光景が何かを理解して鈴鹿の足が止まる。トレードマークの長髪を動きやすいようにポニーテールで着ている服が学校の体操服な親友の姿と、周りの人々が発している声や様子で、男女対抗リレーをしていることが傍から見て理解したのだ。そして鈴鹿が応援したい人は片手にバトンを持って走っていて、前を走っている男子を追いかけている。

 きれいな髪を携えて走るその姿を鈴鹿の目が追う。前だけを見て必死になってる顔、何度も自分じゃ絶対出来ないような速さで動かされ続ける手足。どんどん遠くへ進んでいく体。ただその姿だけを二つの目が、ゴールを走り切るまで見つめ続けた。

 今優菜たちがいる公園はそこまで大きい物ではない。それもあって一人の走者が走り続ける姿を傍から見ることは最初から最後まで同じ位置でずっと鈴鹿は眺めていた。その後の走り切りって息を切らしながら、周りの優菜のがんばりで勝てたねという物や優菜がいなかったら負けてたよなどの色んな方向から次々飛んでくる歓声を笑顔だけで受け入れる姿まで。

 公園で一緒に遊んでいる人達に混ざろうともせず、じっと見つめる少女。そんな彼女には目もくれずに勝敗関係なしに和気あいあいとしているように見えたが、その中の一人が終わってからそこまで時間をかかっていないにも限らず、鈴鹿に興味を示す。

「あっ、鈴鹿!」

 先ほどまで全力で走っていた優菜が鈴鹿の元へと駆け寄る。それも、大勢の中で自分が目立てるように、大きく手を振りながら。一方鈴鹿の方も近づく親友のサインに、自ら近づくという形で返事をする。

「鈴鹿! 見てた?」

「うん、すごいね! 最後まで全力で走ってたもん。私だったら途中で疲れちゃうよ」

「えへへ……、ありがと!」

「くっ、苦しいよぉ優菜ちゃん……」

 言葉が言い終わると同時の飛びつきハグ。密着しているせいで互いの視線は合っていないが、互いに体温を感じ取れるほどの距離なので二人にとってそんなことは関係ない。

この時でも、優菜が抱き着き鈴鹿が受け入れるこの行為は二人にはよくあることで、彼女の明るく高ぶった感情を表現するのに使うことだ。

「それよりも、ごめんね。優菜ちゃんが頑張ってるのに全然応援できなくて」

「ううん、ちゃんとわかってるから大丈夫だよっ! それより、この前すっごくおいしいお菓子食べたの! お母さんがお友達から東京まで行ったお土産でもらったらしいんだけど、食べる前からにおいがすごくよくてもう驚いちゃった。クッキーなんだけどあんなにいいにおいがするの初めてだったよ。でね、さくって食べたら口どけがすごくてふわっと消えていく感じだったの! 隣町の駅地下のお店のより全然よくて、都会ってすごいんだなぁって感じで、それに名前は忘れちゃったけど外国の有名な賞をもらってるらしくて、鈴鹿にも食べてもらいたいなぁって思って」

「いいなぁ……。もっと聞かせてくれる?」

 鈴鹿にじっと見つめられながら、優菜はそのまま捲し立てるように話した。それを鈴鹿は「うん」や「すごいなぁ」などの相槌を開いたタイミングで入れて聞く。その相槌を聞くと優菜の話は続くし、鈴鹿はそれに気づいている。

「もちろん! でも、やっぱり今から私の家で食べて欲しいな」

「優菜? 何してるの?」

 二人が声のした方へと振り向く。そこには、先ほどまで優菜と一緒にいた人たちのうちの何人かがいた。共に遊んでいたうちの一人がふらっとどこかに行って戻ってこないので声をかけたのだろう。

 クラスでも明るい性格の人たちを前にした鈴鹿は、少し足が後ろへ動いてしまったこともあり、他の人たちの会話を聞くだけの立場へと回ることとなる。

「うん、鈴鹿がいたから」

 この二人が仲良しであることは彼女らも知っているし学年では有名な話だ。それもそのはず、いくら仲がいいと言っても抱き着いたりはしないし、それを嬉々として受け入れるなんてことは小学生でもそうそうないだろう。

「ほんとに二人は仲いいね」

「そうだよ。私と鈴鹿は親友だもん! ねっ!」

「うっ、うん。優菜ちゃんの言う通りなの」

 振り返って自分の方を見てきた親友に応えるように、様子を見ていた鈴鹿が慌てて前に出る。それも普段他人の前では使わないような少し大きめな声を出しながら。その一瞬が周りの様子が見えている物なのかそうでないのかはわからない。

「じゃあ鈴鹿、行こ」

「えっ、行くって……」

 先ほど優菜の家に行こうという話はあったが、これから二人が何かをする約束はないので一方はこんな反応だが、もう一方はお構いなしで手を握ってぐいぐい引っ張っていく。

「私の家でもいいし、そうじゃなくても私は大丈夫だよ」

「それは、そうだけど……」

 鈴鹿に向けられる万弁の笑顔。当然それを彼女自身も受け取っているが、左右をきょろきょろしていて、明らかにおどおどしているのが目に見える。

「えっ、優菜? 私たちは?」

 先ほどまで優菜と遊んでいた少女たちがこういう反応をするのも当然と言えば当然、実際に聞いているほかの人たちもあまりいい反応はしていない。大勢いれば一人くらい抜けたところで実害はないかもしれないが、この年でもそれ以上の物があることを彼女らも鈴鹿も理解はしているのだ。

「あっ……」

「まぁ、でもよくない? 優菜がそっちに行くなら」

 行こうとする優菜に対してこういった反応をする人もいる。二人の様子をあれほど見せつけられてしまえば、本人にとってはその通りにさせた方がいいことは誰が見ても一目瞭然。そして、口ではああ言うが、鈴鹿の真意も透けて見えるというレベルではない。

 そんな彼女らの態度を見て、今の優菜は答えを聞くように、鈴鹿の方を見ているのだ。

「そっ、そうだ! 私も今お使いの帰りだから、あんまり遊べないんだ、ごめんね優菜ちゃん」

「……そっか」

 しばらく全員の間に沈黙が訪れる。その理由はなんだろうか、きっとそこにいる人全員がそれぞれに違うのだろう。

「あの、優菜ちゃん……?」

「ううん、なんでもない! 勝手なこと言っちゃってごめん。戻るね」

 言い終わると同時に、すぐ振り返り優菜は公園へと駆けて行ってしまった。その背中を見て、まだ幼い女の子はどう思うのだろうか、そしてそれを追いかける彼女の友達たちはどう思っているのだろうか。ただ、鈴鹿は公園にある時計を確認すると思っていたよりも時間がたっていないなと考えていた。


 それからの鈴鹿は駆け足で家へと向かっていった。特に何かがあるわけではない。現在の自宅には姉の涼音しかしないことを知っているから別に少し遅くなったところで誰も咎めないが、何となく早く帰りたかったのだ。

 家に帰ると同時にただいまという声をだし、姉に合図をする。こうすると姉はなぜか二階の自室から降りてくるのだ。最近は親が帰ってきても降りてこないというのに。ある時からそうなってしまったことを鈴鹿は疑問に思いながらもあまり気にしないようにしていた。

「おかえりなさい鈴鹿」

「お姉ちゃん、ただいま」

 不健康そうな顔と動きやすさ以外いい所がなさそうなジャージ、そしてぼさぼさの髪を携えて姉が出迎えに来た。そんな姿でも自分の元へやってきてくれたことで鈴鹿の表情は明らかに変化している。

「今日は優菜ちゃんと一緒じゃなかったの?」

「うん、別の友達と遊んでて……」

「それで今日は一人で帰ったってこと?」

「……うん、そんな感じ」

 話し相手をあまり見ようとしない妹に対して、姉の方はじっと相手を見つめている。その見えない部分まで見透かすようなその目線に当の当てられている本人は気付いていない。

「……じゃあ、今日はお姉さんが一緒に遊んであげるわ」

「えっ? お姉ちゃんが?」

なぜかわからないが、誘ってもあまり外へ出たがらないし、姉が部屋にこもっていることが増えたから、こうして会話することはある物のわざわざこうして時間を取って遊べることはかれこれ一年ほどなかった。

「ええ。たまにはいいでしょう? 私がなんでもしてあげる」

「うっ、うん。わかった」

 一度は驚いたものの二回目には割とすぐ返事をした妹の声を聴いて、その後着替えてくるとだけ言い残し、そそくさと自室へと戻っていく姉の姿を鈴鹿は眺めていた。彼女にとっては、登校も学校が違うとはいえ、全く違う方向へ歩くわけでもないのにぎりぎりまで出たくないと言い訳して一緒ではないし、家族でごはんを食べるときもあまり話してくれない姉と久しぶりに二人で触れ合える機会であった。

 

 それからしばらくして、姉が前を行き妹がそれを追う形で外を歩いていた。なので、鈴鹿の目には肩の下あたりまで伸びた長髪が目に映り、普段は寝ぐせを放置しているせいで気付かなかったが彼女のそれはちゃんとすればそれなりに様になっていた。そのような姿を見ているだけで昔は彼女のこんな姿もよく見たなと思い出させられる。

「ねぇお姉ちゃん、昨日は何か食べた?」

 涼音は間食が好きで、夜中に色んなジャンクフードを食べているのだ。だというのに太っているかと言われると決してそういうわけではない。顔は不健康そうに見えるが、体格は割と悪くないのが彼女の特徴だ。

「昨日はカップ麺を食べたわ。うどんの」

「またそれ?」

「あれがないとやってけないのよ」

 それが姉の大好物であることは、ごみ袋の中に容器がよく入っているところなどから鈴鹿もよく知っているし、夜中に買いに出発する姿を見かける。そして、話を聞く限り七味唐辛子を多くかけていることも。妹は甘い物が好きで辛い物には少し引け目を感じているが、あっちはそうではないらしい。

「でも、あんまり食べ過ぎると体に悪くない? お姉ちゃんただでさえあんまり外に出ないのに」

「……考えておくわ」

 鈴鹿の歩く足が速くなる。だが、追いかける相手との距離はほとんど縮まらなかった。速度を上げてもその瞬間に対抗するかのように速度を上げられてしまうのである。それに気づくと、彼女は追いつこうとするのを辞めてしまった。その猫背の癖がついている背中を見ていると、自然とそれをやめてしまいたくなったのだ。

「あの、お姉ちゃん、どこに行くのかな……」

 二人が進んでいく先にはあまり人がいなくなるような、山道の方面であった。鈴鹿はこういうところに全く縁がないわけではないが、今はその時ではないことは本人が一番よくわかっている。その先に見える物はなんだろうと考えざるを負えない。

 そしてそれは涼音の方も同じだ。

「……だめかしら?」

「だめってことはないけど……」

 そこから先に言葉を紡ぐことができない。なんでこんなにも辛いんだろう。昔はこんなことなかったというのに。

「そうだ! もしよかったら、美味しいケーキ屋さんに行かない? きっとお姉ちゃんも気に入るよ」

 姉の姿をじっと鈴鹿が見つめる。それ以外の事は特にせずに。そして、そうしているのは鈴鹿だけでなく聞く側も同じくと言った所。足を止め、振り返る。それ以外にはしばらくの沈黙以外には何も渡さずに言葉を進める姿を見つめるその目に返された。

「それは、無理そうね」

 何とか明るくしようという意思の込められたその行動は水の泡として消えてしまった。それどころかかなり雰囲気は悪くなっているようにすら感じられる。

 自分の好物である甘い物提案を拒否されてしまった鈴鹿はもちろんのこと、

「お姉ちゃんは、甘い物は好きじゃなくなっちゃったのかな……」

 少し遅れてから、視界を元に戻そうとする涼音は行動が止まる。その耳で小さな声を拾ったのだ。それに気づいた鈴鹿も落ち込んだ様子から慌てて暗い物を隠すために笑顔の表情を作ろうとする。

「聞こえちゃった!? ごっ、ごめん!」

「……いいのよ。謝るのはこっちの方だわ。ごめんなさい、こんな姉で。帰りましょう」

 その言葉は、日差しが苦手なせいか暗い態度を常に見せていた彼女の中でも一番抑揚がない物であった。そしてただ歩いて少し話しただけだというのに、音が出そうな息を吐いておでこに手を当てながら、踵を返そうとしていた。

「ううん。いいよ、ちょっとでもお姉ちゃんといれてよかった」

 だが、その言葉一つで引きこもり体質とは思えない速さで動こうとしていた足が止まる。人は一度思い込むと中々変わることはない。涼音が思っていることもきっとそうだということは自分自身も、妹もわかってはいるけれども、こうして口にすることも足を止めることもやめることはできないのだ。

「お世辞はいらないわ」

「知ってるよ。でも、本当によかったの。私ね、何もできないけど、お姉ちゃんと一緒にいられるだけで楽しいよ」

 またしても沈黙が訪れる。いったいこれにはどんな意味があるのだろう。

 鈴鹿と涼音。その間には何も動きがなかったし、周囲にも風すら感じられない。

 先に静けさを割ったのは涼音の方だった。突如妹の腕を掴み、そのまま四肢から力を感じるように強く地面を踏みしめながら歩き出す。

「おっ、お姉ちゃん!?」

 突然の行動に驚いている妹の声はもちろん耳に入ってはいるが、それに一切答えようとしない。これから何が起こるのかという不安が鈴鹿の体を巡るが、その答えを得ようにも涼音は前ばかり見ている。

 そしてそのまま、二人は人通りが少ないこの場所でもさらに光が入りにくく、人が少ない裏路地に入って行った。目の前の袋小路。それを見れば誰もがここで止まるのだと予想ができた。そして予想通り、先行する足は止まり、互いを繋いでいた手は自由になる。

「あの、お姉ちゃん……」

 自分が姉の視界に入っているのかすらわからないくらい驚いている鈴鹿。

「帰りたければ帰ってもいいわ」

 思いもしなかった答えが来て、一瞬だけ鈴鹿の動きが止まるが、すぐに再開される。

「帰るなら、お姉ちゃんも一緒がいいな」

「なんで」

「緊張しないで済むから、だと思う。驚いたり心配したりはするけど、お姉ちゃんと優菜ちゃんのは私がしたくてしてることだから」

 話を聞いていて、自由となっている両手が空を強く握り、再び自由を失う。それは、自分の気持ちを大事にしている妹がこの時であれば気づかないことを、涼音は知っているから出来たことだ。

 涼音が妹の物以上に細い自分の腕を振る。そのまま頭が思い描くと同じく妹の肩に手を置き、ゆっくりと上から覆いかぶさるようにすることでしゃがませ、そのまま尻餅をつかせる。さらには背中までも地面へと追い込み、結果的に押し倒す形になった。

 薄暗い裏路地の中で完全に影で覆われる鈴鹿の顔。だが、その顔が変化したのはそれだけであった。真上にある自分の目をじっと見つめる二つの瞳を自分も見つめかえす。涼音の息が鈴鹿にかかってしまうほどに近い二人の距離。だが、その二人が感じる距離はあまりに広すぎた。

「……今度こそ、帰りましょう」

 立ち上がってそのまま歩き出した涼音が、いつもよりも足音を大きめにしている妹の方へ振り返ることは自宅の自分の部屋へ行くまで一度もなかった。


 飲み物を買った帰り道。優菜に不審な感情を持ちながらも、鈴鹿が家へと向かう足を再度進めることができたのには理由がある。それは、最近始めた新しい趣味であるお菓子作りの一環で優菜のために用意した自作のケーキがあったからだ。まだ下手で恥ずかしいからという理由で誰もいないときにこっそりやっている物だが、今回初めて人に出すことにしたのだ。

 と言いたいところだが、人間そんなに上手くいけばどれだけ楽な物か。お金や努力や思いが無駄になってしまうとしても苦しみからは逃れたいものなのだ。言い方は悪いが、飲み物がなかったのは運よく不安から一時的に逃れたと言えなくもないし、本人もそういう考えがどこかしらにあったことを否定できない。

 結局のところ、ケーキがあったからというよりも、姉が歩いていくからそれを追いかけていただけということなのだ。それはもちろん本人も気づいているし、そこからやってくる無力感も感じている。

「ただいま」

 そのまま特に気にせず入っていく涼音に対し玄関の前で鈴鹿はためらうが、どんどん進んでいこうとする姉を見ると、慌ててその背中に隠れるようなそぶりを見せながらもそれに続いた。帰宅をしたことを家に告げずに、部屋をきょろきょろする鈴鹿。特にリビングの入口をよく見ている。

「優菜ちゃんが来ないわね」

「ほんとだ……」

 特に携帯に連絡はなかったからあまりないとは考えられる物の、いったん家に戻ったかもしれないとも考えられる。少なくても涼音はそうであった。

 その一方で、鈴鹿はまたしても自分を責めなければならない。

 なんで、なんで私はこうやっていつも動けないの。やっぱり私は優菜ちゃんの後ろにいるだけで、引っ張られてないと何も出来ない。結局特別に見てるのは自分だけで、向こうから見たらただの友達の一人なのかも。

 いつも優菜ちゃんと会えると溢れてくるものが出てこない。出てくるのは不安と自責の念だけ。いつまたあんな風におかしなものが溢れてきて、自分を見失ってしまうことがあったら。そもそもなんであんなのが出てきたのかもわからないのに。

「おっ待たせ~」

「ひぇ⁉」

 部屋に涼音が声と共に入ると同時に予想外に大きい声がした。もちろん優菜の物である。その声に対して鈴鹿はびくっと体が反応してしまう。

「どうかした?」

「えっ、涼音さん、なんでも、ないです。お帰りなさい、です」

 口ではなんでもないと言っている物の、目をそらしているし、いつもより上ずったような声をしている。それにいつもの彼女ならあまり考えられないが、鈴鹿の姿を見てもなにやらソファに座ったまま動こうとしない。

「あの、ただいま……」

「あっ、鈴鹿……」

 互いに見つめ合う。確かに一瞬だけ言葉を交わすが、すぐに二人の視線は関係ない方へ飛んで行った。鈴鹿は先ほどと似た様子なので何もおかしくないのだが、優菜の方はいつもの明るさを失っている。しかし、ぱっと見たところではあまり家の中で変化が起きているとは思えない。

 涼音は妹の様子をちらと見てみる。しかし、とりあえず今現在では確証が得られないと言ったところだ。

「すっ、鈴鹿っ!」

「えっ⁉ なっ、何?」

「あの、その……」

 いきなり現れた大声とは打って変わって小さな、そして何も意味を持たずに発せられる言葉が口からこぼれる。だが、その一つ一つは鈴鹿の顔を動かしている。様子を窺うように見つめる鈴鹿とそれに気付いて視線を逸らしてしまう優菜。お互いに何もかもがかみ合わない。

「……ごめん、なんでもない」

 二人はほぼ同時に肩を落とす。その意味は、無意味に先送りにしただけという形で同じ物だ。

 その言葉に対して軽い返事をし、そのまま足を止めていた鈴鹿が冷蔵庫の方へと歩き出す。そそくさと動く手足には優菜のために用意したケーキを確認するという意味がある。

 しかし、親友の前から離れた物の彼女が安心することは残念ながらなかった。

「あれ……」

「どうかした?」

「あの、ケーキがないの。ここにおいて置いたはずなのに」

 言葉通り、鈴鹿がしまっておいたはずの場所にあったはずのケーキがなくなっているのだ。頑張って優菜のために用意したそれがなくなっているとなれば、本人にとっては状況と言う物を相まって、焦るに決まっている。

 驚いていてケーキの持ち主は気付いていない一方で、涼音は言葉に対して優菜の体が大きく反応しているのを見逃していなかった。

「ケーキ?」

「うん。私が作ったのを冷蔵庫にしまっておいたんだけど……。確かに家を出る前はここにあったのに、今見たらなくなってて……」

 冷蔵庫の中にあるケーキを乗せていた皿を見続けていると、落ち込みを大きくする考えが鈴鹿を襲う。私がしっかりしていないからケーキをどこかへやってしまったんだ、さっきから自分がどう思うかばっかり考えてて優菜ちゃんのことなんか何も考えてなかったから正しい場所を忘れてしまったんだ。

「じゃあ優菜ちゃんが何か知ってるんじゃないの? というより食べたんじゃない?」

「えっ……。それは……」

 食べたというフレーズを聞いて、明らかに優菜の体がびくっと反応している。そもそも家には優菜しかいなかった上、ないと言われてすぐに出さないとなれば明らかに怪しいと思うのは涼音だけではないだろう。

「優菜ちゃんが、食べちゃったの?」

「食べて、ないよ……」

 目の前から声をかけられ優菜の視線は一度上がった物の、それは声の大きさに比例するように下がってしまった。縮こまるように丸くなったその背中を見つめることしかできない鈴鹿。普段の姿からは想像できないような親友の様子を目の前にして、自然と思い詰めてしまう。

「でもそう言ってもねぇ。じゃあそのケーキはどこに行ったのって話にならない? ここには優菜ちゃんしかいなかったんだから他にないと思うけど」

 涼音の言葉に返事は帰ってこない。そうであるのならとどんどん話は進まる。

「それとも、どこか別の場所に移動させたとか? でもケーキを置いておくのに冷蔵庫よりいい所なんてある?」

 返事ができないせいでさらに詰め寄られていくが、優菜の視線が上がることはなかった。それどころか、小さな体に力が籠る物の、それがいつものように外へ出ることはない。

「私だって完璧じゃないし、間違ってるなら何か言ってくれない? 何も言わないとわからないわ」

「食べて、ないよ……。食べてないよ! 優菜ちゃんがそんなことするわけない! 私の大事なお友達をそんな悪く言わないで!」

 問い詰める涼音を止めたのは鈴鹿の叫び。鋭い涼音の目も、落ち込んだ優菜の目も、一瞬で似たような形になりながら声の元へ向けられた。当の本人はそれを浴びながら、肩で息をする。そして、先ほど自分で口にした言葉を頭の中で復唱していた。

 彼女の顔は下を向いているというのに、赤く染まっている。

「……じゃあなんでないのってことになるわね」

 一度は驚いたように動きを止めた物の、涼音の声色はほとんど変わっていないように見えた。その証拠だろうか、腕を組んで壁に寄りかかりながら身長を利用して上から小さな少女を眺めている。その差は見た目以上に大きい物。きっと上から見るのと下から見るのでは距離の見え方も違ってくる。

「それは……。でも、優菜ちゃんは……」

 そのまま鈴鹿は黙ってしまう。親友がやっているはずがないと信じたいが続く言葉が出てこない。周りを見回して見たり、優菜の様子をちらりと見てみたりするが、その現状は一切変化しなかった。

 肩を落としてしまう。自分がどうすればいいのかわからない。でも、どこもかしこも矛盾だらけで逃げ場がなかった。

 優菜ちゃんはいつも私を楽しい世界へ連れて行ってくれる。そんな優菜ちゃんが人の物を勝手に食べるなんてことするわけない。

 お姉ちゃんは食べたって、たぶん思ってる。でも、お姉ちゃんが私を無意味に辛い気分にさせるはずない。

「食べないって?」

 姉の問いに小さく頷く鈴鹿。共に出た声も似たようなものであった。しかも、言われた言葉から少し間隔が開いていて、それに続く物は言葉も目に付く動作もないただの変わらぬ姿だけである。

「そう言うのはいいけど、何かその根拠が必要じゃない? 現状だけ見ればどうしてもねぇ」

 そう言われても、当然ながら鈴鹿は何も言い返すことは出来ない。どうしようもなく、両手でスカートを握りしめてしわができそうなほどに強く目を閉じる。さらには息を切らしていて、その姿はまるで自分の体の中身を絞り出しているようだ。

「言うことを信じたくないというわけじゃないけど、鈴鹿は子供じゃないでしょ? この状況を見たらどうしても……」

「やめて、ください! 鈴鹿に辛い思いをさせないでください!」

 吐き出されていた物が感じ取られたかのように、響き渡る優菜の声。手が差し伸べられたかのようにそちらに鈴鹿の顔が向けられる。

「そういうことを言うのは食べてないことを証明してからにして欲しいわね」

 先ほどの優菜の勢いはいつも以上のようにも見える様子であったが、涼音の反射的な言葉によっていとも簡単に吹き飛ばされそうになってしまう。実際にその足が一瞬だけ後ろに動いてしまうが、自分を見てくれている親友と目を合わせると、彼女はもう一つの足を踏みしめることができた。

「でっ、でも、鈴鹿は関係ないです! 鈴鹿を責めないでください! 鈴鹿の苦しい姿が見えないんですか!?」

 今まで自分がどこを見ていたのか、優菜の後ろに移動している妹の姿を見て涼音は考える。先ほどまでは自分の目の前にいたはずなのに、あのたった短い間であの距離を歩いて移動していた。

「……悪かったわ、ちょっと言い過ぎた」

 そう言って、涼音はこの部屋を去ろうとする。だが、その足は部屋を出ていく直前で止まることとなった。

「待って、お姉ちゃん」

「何か用?」

「あの、優菜ちゃんは食べてないから……。だからお姉ちゃんにも手伝って欲くて……」

 まさにおずおずと言った所だろうか。姉の元へ胸の前で両手の平を合わせて顔を伏せがちにしながら鈴鹿が小さな歩幅で歩いて行った。その姿を見て、この場から離れようとしていた足が止まらないであろうか。いや、本当は離れたいのかもしれないが、離れられないのだ。

「私ね、その、ミステリーとか全然わかんないし、頭もよくないから、お姉ちゃんの力がどうしても……。お姉ちゃんは嫌だと思うけど、でも、そうでもしないと……」

「それは、出来ないわ」

 妹が敢えて自分にお願いしてきた理由が涼音はわかっている。わかっているが、彼女はそれに頷けるような人間ではなかった。出来ることと言えば、そのまま振り向かないように、出来る限り急いで自分の部屋へと戻ることくらいであった。


 ケーキが入っていた冷蔵庫が置かれているキッチンに鈴鹿と優菜の二人はいた。数多くある戸棚や引き出しが目に映る。鈴鹿がここにいるのはこの中に間違えてケーキを入れているのかもしれないと考えたからだ。一方で、優菜はその後を着いてきているだけである。

 早速最初に目に付いた、目線よりも上に持ち手がある両開きの戸棚を開けてみる。だが、そこにはこの家で使われてる食器以外の物は入っていない。そして、それらは昨日鈴鹿がお母さんと一緒に洗った時から目に見える汚れを受け付けていなかった。

 その様子を見た鈴鹿は小さく、しかしいつもよりは確かに大きく息を吐く。吐き終えると、下を向いたままそのまま両方の持ち手動かなくなってしまった。

「あの、あのね、鈴鹿……」

 背中からかけられたその声に反応して鈴鹿は動きを取り戻す。慌てて後ろへと振り向いた。そこには相変わらず話しているのに目を見ずに少し下の方を見ている親友の姿。

「あっ、ゆっ、優菜ちゃん! うっ、うん! 大丈夫だよ。絶対誰も悪くないって私が証明するから」

 それだけ言って素早く戸棚へと視線を戻し、隅々までケーキが入ってないかを確認し始める鈴鹿。だが、すでに皿をはじめとする食器が入っているというのにどこにそんなものが入る隙間があるのかという問題は、優菜がその様子を見て思えるほどにわかりきっていた。

 そして、当然だがやはりそこにケーキはなく、鈴鹿はすぐに別の場所である流しの下へと移る。少し暗くなっているが、鈴鹿は電気を付けないで探していた。フライパンやボウルなどが入っているこの場所。様々な形の物がある上範囲もそれなりにあるため、彼女は自然と先ほどより念入りになってしまう。

 だが、そこにもお目当ての物は存在しない。別の場所、また別の場所とキッチンにある隠れられそうな場所を開けては閉めて、また開けては閉めてを繰り返していく。その姿を傍から見ると、進めば進むほどに顔がどんどん前へと出ていくよう。

「あっ、あの、鈴鹿……?」

 周辺の場所を調べ終えた鈴鹿の後ろから発せられる優菜の声。それを聞いた彼女は慌てて振り返る。しかし、先ほどのようなことにはならず、二人は何も声を発せずに無音で見ないで下を見ている時間がしばらく続いた。

 だが、お互いに相手を見ていないわけではない。むしろその逆である。

「こっ、これ……」

 最初に声を出したのは優菜の方。それと同時に小さな震えを伴った手が前へと出される。

 その行動に対して鈴鹿はというと、手の勢いに押されるかのように後ろへと足が下がり、一瞬だけ目をつぶってしまった。

 自分の方を見ているかもという様子すらなくなってしまった親友の様子を目にし、体から震えが消え、伏せがちだった顔もその姿をじっと見ている物へと変化する。

「これは……?」

 彼女の手には彼女自身の携帯電話があった。

「あっ、ちょっと、待って!」

 二人の手が重なろうとする時、暗くなっている画面が目に入った優菜が慌てて手を引っ込め、そのまま手元の機械を操作する。だが、そこで彼女が何をしているのかが機械音痴な鈴鹿にはわからない。ただ、操作がある程度進んだところでその手が止まっている姿は理解できた。

 しかし、わかってもそのことを口に出すことは出来ず、なんとかしなければとその様子を探った物の、自分ではなく機械に対してじっと目を向けていること以外にわかることはない。

 今までその苦手を知っていながらも克服しようとしなかった理由も今親友の感情が見えてこない理由は同じである。そんな少女は親友と約束して会うということで着てきたお気に入りの服の上から左胸に手が自然と動いていた。

 その後しばらくし、優菜の手からもう一度、今度は早い動きで携帯電話が渡される。それに対して先ほどよりもゆっくりと左胸から鈴鹿の手が差し出された。そこに表示されている物は、ミステリー作品で使われるようなトリックを数多く記してあるサイトであった。それを見てすぐに、鈴鹿の顔は本人の手元から上がる。

「優菜ちゃん、ありがとう!」

 目と口が先ほどまでと比べても大きく開いているその顔を見た優菜は、それとは違うように目が開き、慌てて駆けだした。その様子を見た鈴鹿の驚いた声が背中にぶつかるが、それを彼女は気にしない。そのまま部屋を離れてしまった。


 鈴鹿がコンビニから家に到着した時、部屋のカギは閉まっていたし窓もすべて開いてはなかった。それを考え、今の彼女は密室を作るトリックが書かれたページを眺めている。一番先に目に付いたものはこの家に隠し通路があり、それで犯人がケーキを持って逃げ出したという可能性。この一軒家に住みだしてはや数年であるが、そんなものを見たことはないしそんなものを用意する必要があるような要人はこの家にいない。

 そこに並ぶ文字を鈴鹿が持つ二つの視線が何度も滑る。だが、その文字が変化するはずなどどこにもない。この家に悪い人が隠れられるような場所はないし、優菜がトイレなどに行った短い間に密室を作り出せるような特別な道具もない。

 これはミステリーをたくさん読むようなすごい人が書いているはずなのに、親友が自分の無実を証明できると渡してきた物なはずなのに、今の自分には立ち尽くすことしかできない。周りの物がいつもより大きく見える気すらしてしまう。

 そんなことを彼女が考えていた最中である。その手にある携帯電話から音が鳴りだしたのだ。暗く落ち込んでいたところでの刺激だったこともあり、鈴鹿は声を出して驚いてしまう。

「これ、メール……?」

 鈴鹿が口にしたように画面にはメールが届いたと表示されている。どうやら送り主は通販サイトのようで、おすすめ商品を紹介する物のようだ。そして、そのサイトはアマゾンのように彼女も知っているほど有名なところではないことがわかる。

 その表示をじっと見つめ、ごくりと鈴鹿の喉が鳴った。周りを見れば何も変わらないいつも自分が見ている部屋の様子が映し出される。そこにはケーキもなければ優菜の姿もない。あるのは一人暮らしをするには広すぎる一軒家のリビングだけ。

 そんな家の中で、冷蔵庫に貼られた写真が鈴鹿の目に映る。それは、何年か前に行った家族旅行で撮った写真であったと彼女は記憶していた。あの頃はまだお姉ちゃんも自分と一緒に外へ出てくれることもあったけれど、久しぶりに外へ一緒に出掛けたあの日から数年間姉が誰かと外へ出ることがなくなったことが思い出される。

『緊張しないで済むから、だと思う。驚いたり心配したりはするけど、お姉ちゃんと優菜ちゃんのは私がしたくてしてることだから』

 いまだにあの日からしばらく姉が一緒に遊んでくれなくなった理由がわからない。

 写真からも、メールからも、そして自分からも鈴鹿は目を背けた。そして必死に目をつむる。そうしないと、自分がわかることですら外へ出て行ってしまいそうだから。それが出て行ってしまったら、そして誰かに見られてしまったら。

 でも、鈴鹿は我慢できなかった。必死に拭っても、溢れてくる物を抑えられない。部屋の時計が鳴り、余計に溢れは強くなっていった。


 いつも駆けだしそうな勢いを持つ優菜だが、今は違う。玄関が面する道路とは反対側にある自宅の庭に植えられた芝生に膝を抱えて座り込んでいるのだ。そこでただ何もない空を眺めていた。彼女は一人でじっとしているのが苦手なのであまり読んだことはないが、おとぎ話のような世界はあの雲の上などにあるのかもしれないと考えながら雲が流れていく様を見つめる。まるで世界の果てにあるようなそれは年中見ているはずなのに全く手が届かない。

「あら、優菜。もう帰ってたのね」

「お母さん……?」

 声をかけられたことで優菜が振り向くと、そこには鈴鹿のように見慣れた顔があった。お父さんと共に、親としてはまだ若くありながらも自分を育ててくれたその人は、彼女の数少ない理解者でもある。

「また、やっちゃった?」

 その問いに優菜は黙って頷く。そしてそのまま顔を上げず、母親の方へ顔を戻さないでいた。

「ごめん、お母さん。この前も言われたのに……」

 優菜の体が小さくなる。その姿は先ほど涼音に責められていた時と同じようで、普段の自分を主張し続けるような彼女の様子とは打って変わっているようである。その様子を見て、彼女の母親は黙って隣に座りこんだ。

 そのまましばらくの間二人は空を眺め続け、その時には二つ長髪が風に揺れて似た動きをしていた。

「何があったか、聞かせてもらえる?」

「それが、わからないの……」

 その二言が終わると同時に、また二人の間に沈黙が訪れる。その間に優菜の顔はさらに下へと向く。その先にある物は自分の膝だけであった。だが、スカートに包まれたそれがどんな意味を持っているのかは本人も含めて誰にもわからない。

「鈴鹿が作ったケーキを食べちゃって……」

「それが、美味しいそうだったから食べたくなっちゃったの?」

「そうじゃなくて!」

 声と共にがばっというような効果音が付きそうな勢いで母親の方へと顔を向ける優菜。それによって、母親の頭が動いていないことに彼女は気付かされつつも、気にせず言葉を続ける。

「そうじゃないの、お腹も空いてないし鈴鹿が頑張って作った物を食べちゃだめなんて、そんなことわかってるけど、でも、でも、鈴鹿が作ったっていう私が何も知らないケーキを見てたら……」

 話しながら声を大きくしたり小さくしたり、視線は色んな所へ行ったり。その姿は何から何までごちゃごちゃしているようにすら見える。

「その後、食べちゃったんだ」

「うん、ただ、怖くて……」

「他人のことは、わからなく……」

「違うの! わかんないのは私のことなの! 鈴鹿じゃなくて、わかんないのは私の事なの!」

 母親の言葉を聞いた瞬間、優菜が目をつむる。しかし、それでも抑えられず、大声と共に解き放たれてしまった。しかし、その声の大きさに対して、手を強く握り目も強く閉じたその姿は真逆の姿をしているようにすら見えた。

「お母さんもね、優菜のこと、全部わかってるつもりはないけど……」

 優菜が言葉を言い終わり、またしても静かになったところで先ほど言いかけた言葉の続きのように語りだす優菜の母。

「でもね、優菜が鈴鹿ちゃんのことを大事に思ってて、ほんとは食べちゃダメだってこともわかってるし食べたくて食べたわけじゃないことも知ってるわ」

 その場にどんどん荒くなる呼吸音が響き渡る。それは、胸元に両手を添える優菜の物であった。頭を下げ、自分の手に呼吸をぶつける。それに跳ね返る形で鼻にまだクリームの甘さが残る息が入り込む。それを感じ取ってからは、そのまま鼻で吸って口で吐く呼吸を繰り返した。

「どこか、行ってよ」

「それは出来ないわ」

 ゆっくりと選ぶかのような娘の物とさらっと素早く出てくる母親の物の相反する様子を見せる言葉たち。それは空を見ている母と自分の体で顔を隠している優菜の体勢と同じようにすら見える。親子だというのにここまで違うのかと思えてしまうほどに互いの距離は近いようで離れているのであった。

「優菜が今ここにいるってことは鈴鹿ちゃんも一人なんだし、きっとあっちも苦しんでると思うから」

「鈴鹿が?」

 思ってもみないことと言いたげに、ゆっくりとではある物の母親の方に顔を向ける優菜。

「だって、優菜も鈴鹿ちゃんが苦しそうにしてたら嫌でしょ?」

 小さな手が、二つの瞳に見つめられながら開いたり閉じたりを繰り返す。それを何度か繰り返してから胸に手を当て優菜は自分の心に問いかけた。

「お母さん、行ってくる!」

 その背中に何か言葉が送られているのかもしれないが、それを気にせずに走り出す。目指す場所は、彼女自身の中で決まっている。自分の気持ちに正直なのが娘のいいところであることを母も知っているのでそれを気にせず送り出した。


 カーテンも閉め切られ電気もつけられていない暗い部屋にやかましい音が鳴り響く。だが、その音はすぐに部屋の主である涼音によって止められることとなった。そして、乱雑に物が置かれた机の上にある即席うどんの蓋を完全に開ける。部屋に食品添加物の臭いが広がるが、表情を変えずに吸い込んでいく。

 これだけで食べる前の作業は終わらない。乱雑に多くの物が置かれた机のかなりわかりやすいところ置いてある赤い手頃な密閉容器を掴むと、その蓋を乱雑に開け中身をうどんに振りかける。スープがまるで怪我でもしたかのように赤くなっていった。

 その姿を見てやった本人はため息をついてから食べ始める。明らかにおかしな味がしそうなそれを一口食べただけでせき込み、前を向いてカップから目を背けた。

「やっぱりこれがないとダメね……」

 荒れた呼吸音と調味料のにおいが充満しているというのに、涼音はそれを口の中に運び続ける。カーテンの隙間から漏れる陽の光だけを頼りに、ずれそうになる視線を何度も食べ物へ戻しながら作業を進めて行った。

 そのまま食べ終わるまで進むかと思いきや、部屋にある音が聞こえてきたことで彼女の手が止まる。それは、家玄関のドアが開く音と、そのまま家の中を走っていくような足音の二つ。

「ダメね……」

 そのまま涼音は椅子を離れて自分の体をベッドへと投げる。そこも机同様に物が汚く点在している物の、彼女がそれにぶつかることはなかった。


 一人で暮らすには広すぎるリビング。そこにあるソファに鈴鹿は膝の上に重ねられた両手をじっと見つめながら座り込んでいた。自分の体とは触れ合わないよう、離れた場所においた親友の携帯電話の画面は暗くなっている。

 彼女の目に見慣れた家の様子は映らない。今は自分の指先をただ眺めていて、目がそれしか仕事をしないことを鈴鹿が実感していると、赤く充血した目を閉じたくなってしまう。だが、昼間なのに電気がついた部屋の中で光を見失ってはいけないと目元に意識を集中してその意思を押しとどめた。

 そんなことをしていた物の、彼女が使うことになったのは目ではなく耳になった。耳がとらえたのは玄関から近づいてくる足音。それも隠すつもりが全くないとても大きな物である。自分の姉はこんな走り方をしないので、自然とそちらに興味が行ってしまう。

「鈴鹿!」

 その音がリビングの前まで近づくと、それと同時に勢いよくドアが開かれ、そこから現れたのは優菜であった。彼女が現れた物のそこから鈴鹿は顔と共に目を背けてしまい、さらに呼びかけに対して何も答えられない。

 一方で優菜の方はというと、自分の持てる最大限の速さでここまで来たことにより、肩で息をしながら両手を膝についている。顔も真っ赤になっていて、鈴鹿を前にしてもすぐには話を始めることができなかった。

「あの、その……」

 息を落ち着いたこともあり、優菜の方から話し出そうとするがうまく口から言葉が出てこない。母親との会話で感じたことは確かな気持ちだけれども、それを伝えようと自分を見ていない鈴鹿を見ると、体が心を無理やり動かさなければならないことに気づかされた。

 中々言いたいことを言い出せずに立ち往生していると、優菜は他の生徒と比べて目立ってしまう長さを持つ自分の長髪が妙に気になってしまう。気にならないようにと髪の毛を強く握り、引っ張る。それに呼応するように頭から痛みが発し、目を強く瞑ってしまった。

「あっ、やめてっ!」

 見ていなかったはずの鈴鹿がすっと立ち上がりながら親友に声をかける。それに対して浮き上がるかのような反応をしてしまう優菜の体。そのまま視線を声の方へと向ける。

「その、優菜ちゃんも、きれいな髪の毛も、傷ついてほしくないから……。ごめん、私のせいなのに……」

「そんな、鈴鹿のせいじゃないよ! 悪いのは、私で……」

「私が悪いの! 私が、何もできないから……」

 お互いに足を一歩前に出して、手や体を動かしながら言葉を吐き出す。

「何もできないなんて、そんなこと言わないで! 鈴鹿はとっても出来ることばっかりなのに」

「そんな、私に出来ることって、そんなの一個も、ない」

「そんなことないよ! だって、だって……」

 そこで優菜の言葉が止まってしまう。

 鈴鹿が自分にしたことなんてもう何個も数えきれないほどにある。だからそれを素直に伝えることこそが正しいはず。私たちなら、きっと同じ気持ちだから。そう考えて一度止まった言葉の続きを始める。

「だって、鈴鹿はこんな私といつも一緒にいてくれる大事な友達だもん」

 先ほどまでの物とは打って変わって体を動かさずに声を発する優菜。それを聞いた鈴鹿が両手を胸元に当て、目を丸くして前を向いたので、互いの視線がぶつかり合う。だが、すぐに鈴鹿が下を向いてしまった。

「優菜ちゃんと一緒にいるだけなんて、誰でも出来るよ」

「そんなことない! そんなの鈴鹿しかいないから!」

「そんなことなくない! 優菜ちゃんは友達がいっぱいいて、自分から色んなこといっぱいできて、なのに、私は何も出来ないダメな子なの!」

 先ほどまで静かだった部屋の中に、二人の大声が響き渡る。普段の二人からは想像もつかないようなお互いの姿に驚きもせず、ただ手や足を考えずに動かしながら言葉を続けていく。

「ダメじゃないよ! ダメなのは私の方なの! 何も出来ないのは私なの!」

「優菜ちゃんは出来なくなんてない! 優菜ちゃんが私にどれだけ……」

「それは鈴鹿の方だよ! 鈴鹿がいなかったら私なんか……」

 今まで一番大きな、一度言うだけで喉が痛くなるような言葉を発し、二人とも一度言葉が止まってしまう。短い間であったにも関わらず二人とも肩で息を始め、顔を伏せがちにしながら相手を見ていた。

 彼女らは今までの思い出を遡っているのだ。小学校時代に出会い、それによってやっと手に入れた物。学校、互いの家、近所の公園、たまにお小遣いで行った市街地。お菓子を食べながら話したり、外を走ったり、映画を見たり、新しく持った物を見せたり。いつも見ている光景の中にある新たな発見。自分が感じた物の繰り返し。

 そんなことをずっと二人は考える。産まれてから今日の日まで、自分に何があったか。二人はただ考え続けていたのだ。

「……お姉ちゃん?」

 先ほどの騒ぎが嘘のように静かになっていた部屋で戸が開く音がしたので二人がそっちを見ると、そこには一人で部屋に籠っていたはずの涼音がいた。彼女は右手で口元を覆ってから小さく息を吐く。その動作を終えてから二人の元へと近づく。

 足音が近づいてくるのを聞くだけで、優菜の体は頭と関係なく縮こまってしまった。その様子は明らかに涼音の目にも入っている。だが、その足が止まることはない。

 涼音が二人の元まで到着すると同時に妹とその友達の様子を見た。

「……二人とも、騒ぎすぎよ」

「ごっ、ごめんなさい」

 即座に反応したのは優菜の方で、感情を強調するように頭を下げてまで言葉に答えていた。

「いいのよ。悪いのは私だから」

 優菜が頭を上げ、二人の視線がぶつかり合う。涼音を見上げる優菜。その充血した目をじっと見ていると、涼音の体は自然と動いた。自分より年下な上に同年代の中でも背がかなり低い相手と高身長な自分とで顔の高さを合わせるため、少女の肩に両手を乗せて膝を少し曲げる。

「いいわね、羨ましいわ」

 その声は、優菜だけにしか聞こえないような小さな物。優菜自身もそれが何を言っているのか聞き取れている自信はなかった。

「あの、悪いのは涼音さんじゃなくて私です……」

「それを言う相手は私じゃないわ」

 その言葉を聞いて、一度蚊帳の外になっていた鈴鹿が、二人に一度だけ息を飲みながら一歩近づく。そして視線を親友の方へ合わせた。

「ありがとう、私の妹を大事に思ってくれて。大丈夫よ。私がわかってるくらいだから」

 涼音が発する言葉を目を丸くしているような姿で聞いている優菜。そしてそこから二人が会話している姿をじっと見つめる鈴鹿。敵だと思っていた人に励まされ、不安そうにしている親友の姿。

優菜の言葉が頭を離れず、彼女らの様子はともかく会話の内容は頭に入ってこない。自分の体を両手で抱いてみる。そうするだけで親友のぬくもりが思い出せた。

「あの、優菜ちゃん……」

 いきなり声をかけられて少し驚いたのか、声をかけた先にいた二人が鈴鹿の方を見る。そしてぶつかる四つの目。それに押されるかのように片足が動きそうになってしまう。自分の手が握っているのはただの虚空。だが、鈴鹿にとってはそれを強く握りしめるだけで充分であった。

「あのね、ケーキ、食べててもいいよ」

「えっ……。でっ、でも、あれは、鈴鹿が頑張って作った物じゃ……」

 当然といえば当然だが、鈴鹿の目の前にいる優菜は驚いている。誰しも自分が頑張って作った物を勝手に食べられたら嫌なはずで、中には相手の人格を疑う人もいるはずだ。

「確かにそうだけど、でも、優菜ちゃんが何もなしに食べないって知ってるし、もし勝手に食べちゃうような人でも、それ以外にいっぱいいい所があるのも知ってるから、私にとっては大事にお友達だよ。だからね、優菜ちゃんが食べてても食べてなくても関係ない。でも、優菜ちゃんが悲しんでるのだけは嫌なの」

 少し長いその言葉を聞いている間に優菜の顔はどんどん崩れていく。全部知っていたはずなのに、鈴鹿がケーキを食べてしまっても怒らないなんて知ってたのに、いや、だからこそかもしれない。自分のスカートを握りしめる。それで抑えられればどれだけいいことかと普段は思いもしないがこの時だけは思ってしまう。

 そして、話が終わる時には顔を抑え、膝から崩れ落ちてしまった。

「ごめん、ごめんね、勝手に食べてごめんね……」

「ううん。いいの。私の方こそごめんね、自分のことばっかり考えちゃって……」

 鈴鹿が優菜に合わせるため、床に膝を付いてから二人はおでこをくっつけ、両方の手の指を組む。そして目を瞑る。ここまですれば二人の間に言葉も視界も、何も必要ない。

 彼女らは決して何も出来ないような存在ではなくなったのだ。


 ケーキがなくなった一件から数日後、二人でまた優菜の家に来ていた。優菜がどうしても渡したい物があると言ったので、そこ会うことになったという次第である。それが何か聞こうとしたらはぐらかされてしまったし、何か思い当たるところもないので別の部屋で準備をしているという、またしても親友の自室にあるクッションの上でそわそわしながら待つことになっているのだ。

「お待たせ、鈴鹿」

 その手で紙製の白い箱を持った優菜が声と共に現れる。上部に持ち手があるというのにその部分だけでなく底を手で支えるようにすることにより、両手で持っていた。

「あの、私が作ってみたの、その、この前のお詫びに」

「えっ、あっ、ありがとう」

 優菜の言葉を聞いてあからさまに驚いた様子ではあるが、少し間をおいてから感謝を言う鈴鹿。

箱が優菜の手によって開けられ、中から四角形の一人前のイチゴと生クリームが乗ったケーキが一個出てくる。それを同時に持ってきていた皿に乗せて机を挟んで鈴鹿と反対側のクッションに座りながら渡してきた。

「……すごいね。食べてみていい?」

「うん、その、味は悪くないと思うから」

 形はあまりよくはない。普段の優菜の様子からそれはだいたい予想はつくだろう。だが、それを全く気にせず鈴鹿は皿と共に渡されていたフォークを使って一口だけ口へと運ぶ。そんな姿をじっと目を凝らすかのような勢いで優菜が見つめていた。

「おいしいよ、ありがとう優菜ちゃん」

 鈴鹿の答えを聞いて優菜は、目で見ても明らで、耳で聞いても息を吐く音が聞こえるほどに安心したと言える動作をする。自分の性格はよく理解しているし、素材も別に特別な物ではないし、未経験ながらお母さんに手伝ってもらいつつ、クックパッドを見ながら作った物だが、それでも努力はした代物だったのだ。

「優菜ちゃんも食べて」

「いいよ。私は、鈴鹿に美味しいのを食べてもらうために作ったんだから」

「私のためなら、やっぱり食べて欲しいな。その、優菜ちゃんにも知ってもらいたいの」

 一度拒否したものの、鈴鹿の元からやって来たケーキの一口をそのまま受け入れる。

「どう?」

「……鈴鹿の言う通りだった」

「でしょ? きっと優菜ちゃんも私と同じ気持ちで作ってくれたって思ったから、だから大丈夫だって思ったの」

「それって、どういう意味?」

「あのケーキはね、特別な意味なんてなくて、ただ優菜ちゃんに美味しいものを食べてもらいたいから作っただけだったの。だから、優菜ちゃんに食べて貰えてほんとはちょっとね、うれしかった」

 少し顔を下げ、その口元だけ前で軽く合わせた手で隠しながら、上目遣いに優菜の方を見て鈴鹿はそう言う。それを言い終わると、言った方はそのままだが、聞いた方はそうでもなかった。表情を変えクッションから立ち上がる。

「ありがとっ!」

「えへへ……」

 しゃべり始めると同時に勢いよく鈴鹿に飛びつき、傍から見られれば痛そうに思えるほどに強い力で抱きしめる。さらに優菜は横から抱き着いていたので互いの頬がくっついて、そこから互いの体温が感じられるが、鈴鹿はそれを心身共に拒否しようとはしなかった。

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[良い点] 読ませて頂きました。 情景描写と心理描写がとても繊細で美しく、魅力的でした。 GL作品はあまり読みませんが、違和感なく受け入れることが出来ました。 [気になる点] ・描写が丁寧なのはこの作…
[良い点]  私、初めて読むGL要素ということで、若干、先入観があったのですが、終始、あまり意識せずに自然に読ませて頂けました。   心情や情景の描写を細やかにされているのが印象的です。かなり慎重に作…
[良い点] 優菜ちゃんと鈴鹿ちゃんのやり取りがとても尊くて、見ていてニヤニヤしてしまいます!(*≧∀≦*) 描写が非常に丁寧(読み進めるに連れて増えてゆくのもgood!)でした!(*゜▽゜*) 読者…
2018/03/21 15:01 退会済み
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