七 妖狐オサ婆
狼達の死体が転がる中で、老婆は高らかに笑っていた。
その姿は実に奇妙なもので、はたから見ればただの狂人だ。
しかし、彼女は煌卑が呼んだ助っ人らしい。
老婆が煌卑の方へ振り向くと、目を細めてにやりと気味の悪い笑みを浮かべる。
「さてと、じゃあ、妖狐狩りを逆に狩ってやろうかね。まったく、ここら辺も安全じゃあなくなったねぇ」
煌卑も笑い返すと、訝しげに笑みを浮かべる豪に目を向ける。
「さて、紹介しよう。この老婆はオサ婆。私が言ってた村の長。妖術使い、しかも妖狐さ」
妖狐と言う単語を聞いて、豪の目が丸くなった。驚きと同時にオサ婆を見ると、彼女も豪に目を合わせた。
シワだらけの顔に、印象に残る気迫のこもった目が、この老婆がただ者ではない事を教えてくれた。
(この婆さんが妖狐……?)
そう思いつつも、決して口には出さなかった。
互いに簡単な挨拶を交わすと、オサ婆はそのボロ切れの衣の中から一つの丸い笛を取り出した。
光もないのにうっすらと光るそれは、まるでここらが宇宙に見えるような神秘的な光景を仕立てあげる。
次の瞬間、透き通るような笛の音が、二人の耳を貫いた。
オサ婆が目を瞑って、笛に音の命を注ぎ込んでいる。
何故か、心が痛くなるような、忘れていた純粋な自分を思い出させるような、そんな音色だった。
抑揚の無い大人しめな旋律を奏でる度に、大気が揺らめくような、そんな気配を感じた。
さっきまでの不気味さはどこへやら、今の彼女は花のような美しさに満ち溢れている。
「……良い音だな」
思わず、豪の口から言葉が漏れた。
空腹も忘れ、妖狐狩りをも忘れる程、豪を虜にさせる。
思い返せば、豪が生きているなかで、こんな静かな曲は聴いたことが無い。
せいぜい聞いた曲は、闘技場に入る時に奏でられた曲。
砂塵舞う男達の、血を煮えたぎらせる迫力ある音色だけだ。
「これが良い曲……ね。こんな曲からあんな陰湿な妖術が使われるとは思ってもいないだろう?」
煌卑が不気味な笑みを浮かべて、豪に囁いた。
「妖術……?」
豪が呆気に取られたその時、頭のなかからじわじわと昇ってくる熱気に豪は叫んだ。
短槍を手から離して、頭を抱え込んで苦痛にのたうち回る。
冷や汗を一瞬にしてかき、無理やり閉じる口からは苦痛の声が薄れ出た。
──体が燃えるように熱い。頭が割れそうに痛い。
明確なまでの死の予感を感じると共に、どこからか、どさっと何かが落ちる音が聞こえた。
しかし、それを見る余裕もなく、豪は死の淵をさ迷い続けた。
「どうだい? これが本来の一般的な妖術さ」
薄れ行く意識のなかで、女の小さな声がかすれて聴こえた。
それに答える事も出来ず、ついには何も考えれなりそうになった。
その時、ばっと自分の意識が戻ってきたのを感じた。
冷たい空気が体の中に流れ込み、大いなる安堵を産み出した。
目をこじ開け、ぼやけた視界にオサ婆を写す。
オサ婆の手から、笛がなくなっていた。
その悪魔の演奏を止めたのだ。
「さて、と。おーい、豪、生きてるか?」
今度ははっきりと煌卑の声が聞こえた。
豪が煌卑の方へ向くと、彼女は微笑んで見せた。
「よし、これで終了だよ。妖狐狩りも、狼も、これにて襲い来ることは無くなったよ」
何が何だか解らなかった。
突然、頭が痛くなって、突然、安らぎが戻ってきた。
一瞬の出来事だが、豪には果てしなく遠い地獄巡りだった。
ただ、なんとなく、妖狐狩りも同じ苦しみを味わっていたのだろう。
あのどさっとした音が妖狐狩りの倒れた音だと言うことを悟った。
「この婆さんの妖術は本当に不器用だからね。痛い思いをしただろうが、ま、生きていて何よりさ」
朦朧とする豪を見て、オサ婆はかかかっと笑うと、
「んで、この色男はなんだぃ? 煌卑よ」
油っけのない唇をにぃ、と歪ませてオサ婆は言った。
少し微笑んで、煌卑が豪に視線をよこす。
「ああ、豪だよ。私の守り人さ。良い男だろう?」
心臓が激しく鼓動して、豪は額にぽつぽつと汗をかいている。
老婆は豪の方へやって来て、いきなり、その顔を躊躇なく覗いてきた。
丸々とした目に豪の目が合うと、老婆はふと真顔になった。
「……豪。はて、懐かしい名前だねぇ」
老婆が呟くと、だんだんとその顔は母の暖かみを感じるような、優しい笑みを浮かべた。
しかし、その目にはどこか、何かを失ったような虚しさも感じられた。
(俺と同じ名の奴を失ったのか……?)
それを見て、豪はそう思うと、慌てて煌卑が励ましの声をあげる。
「なぁに、暗い顔してんだい! さっ、私もこいつも腹が減ったよ。飯の準備だ!」
その声は、何かを誤魔化しているような、たどたどしく、無理に明るい声だった。
だが、それでも少しの励みにはなったのだろう。老婆は頷くと、煌卑を見て不敵な笑みを浮かべた。
まるで今さっきの憂鬱さなんてなかったかのように、老婆はハキハキとしていた。
空元気には全く見えなかった。
(喜怒哀楽の差が激しい婆さんだな)
豪は老婆を見ながらそう思う。
この老婆が来てから、ここら辺の陰湿な雰囲気がどこかへと吹っ飛んでいったような気がした。
いつのまにか、ドキドキとしてた心臓も俄然治まっていた。
と、同時にこの老婆がどんな者なのか、疑問が湧いてきた。
「そういえば、この婆さんは妖狐だとか言っていたが、本当なのか?」
豪が煌卑に向かって言う。
煌卑はオサ婆を指差して、ゆっくりと説明した。
「あぁ、さっきも言ったと思うけど、オサ婆はこれから行く村の長であり、妖狐でもあり、私の師匠でもある。私は弟子だからこそ、その村の民衆にも面識があって、私らを受け入れてくれる訳さ」
「と、なると、もしかしてその村も妖狐だらけなのか? だとすると、だから、妖狐狩りに狙われたのか?」
「なんでそうなるのさ。その村の民衆はれっきとした人間さ。今回、ここに妖狐狩りが現れたのも何かしらの偶然さ」
豪は妙な違和感を感じていた。
そんな者達を信じても良いのか? と。
なんでも、妖狐は国から狙われているらしい。
と、なると、それを差し出せば大いな報酬が与えられるはずだ。
それに、妖狐がここにいると妖狐狩りに狙われて、被害に会うだろう。
つまり、妖狐を差し出すことにデメリットが無い。
そんな豪の考えが煌卑に伝わったのか、煌卑は短く溜め息をついた。
「あんたさぁ、もう少し人を信じてみたらどうだい。大丈夫、民衆に敵意はないよ。それに、もし売るつもりなら、このオサ婆はとっくに売られているはずさ」
豪は横目でオサ婆を見ると、気味の悪い全力の笑みを浮かべる。もはや顔芸の領域だ。
視線を戻すと、煌卑の確信に満ちた表情を見て、豪は眉をひそめて少し不安になっていた。
煌卑の考えが甘ったるいのか。それとも、豪の考えが堅いのかは、まだよく判らない。
と、その途端豪の腹の音が大きくこの森に鳴り響いた。
それを聞いて、煌卑とオサ婆は本の少しの静寂の後に、お互いにどっと笑いあった。
両耳から二人の罵倒の声が聞こえて、豪は、
(あぁ、この二人は似ているな)
と、思わずにはいられなかった。