六 簿春森の妖狐狩り
「ほう、似合うじゃないかい。あんたがもう少し若けりゃ、私は喰っちまったかもね」
新しい服はそれなりの良い素材で出来ていた。
動きやすく、無駄な部分が一切無い。汚れも無く綺麗な物だが、言うなれば、地味な服でもあった。
しかし、そんな服でも豪が着れば、中々さまになるものだ。
奴隷生活で身に付けた筋肉に、凛々しい風貌。
彼は元々の素材が良いため、主張しすぎない服装が似合っていた。
「しかし、これ。いつ作ったんだ。門番が寝ている時にか?」
豪が服を見ながら問うと、煌卑は、ほくそ笑む。
「まさか。その時には私もぐっすり寝ていたさ。それに、……いつ作ったんじゃない、今作ったんだよ。これでね」
煌卑は、懐からいつぞやの玉を取り出すと、手の平の上で踊らせて見せた。
豪がその玉を見つめる。
「前から不思議に思っていたが、それは何なんだ?」
「これは、狐玉。妖術を使う者を補助する装置みたいな物さ」
豪が訝しげに煌卑を見る。
豪は、いまだに、妖術というものを良く解らずにいた。
人の怨みで人を惑わす、何でもありの便利なものという事は覚えている。
しかし、色々と思い出すひまもなく、煌卑は話を続ける。
「妖狐とて、妖術を完璧に扱える訳ではない。あくまで、扱いが上手いだけさ。……でも、これを使えば、成功する確率は高くなるのさ。私は自信がない妖術に使っているよ」
煌卑が、豪に狐玉を投げつける。
豪がそれを受け止めると、じろじろと凝視したり、手の平の上で踊らしたりする。
……絹っぽい触り心地だ。特にこれといった特徴も無く、手まりと言われれば、そのまま信じてしまいそうな物だった。
これで、妖術を使いやすくできるのか……。
たしか、気候変更も、この世界に来る時のあの通路も、これを使っていた。
「……本当に、妖術ってのは何でもありなんだな」
思わず、口から漏れる言葉に、煌卑はにやっと笑った。
「そうさ、何でもあり。しかも、これさえ使えば、どんなぼんくらでも、簡単な妖術くらいは使えるのさ」
煌卑は豪から狐玉を取ると、懐に戻した。
やがて、小鳥の鳴く声が聴こえた。
煌卑は窓を見ながら、こう囁いた。
「……と、もうそろそろ出発した方が良いかな。あの門番達が起きてくる前にさ」
豪はそれに頷くと、短槍を右手に持ち直し、外へと出た。
外の新鮮な空気が鼻から体中に巡る。どうやら、今日も暖かな晴れらしい。
ぼろぼろの服をそこら辺に捨てると、二人は門へと向かった。
幸い、村を出るまで、誰にも会う事は無かった。
門を出て、眼前に広がる草原には、どこを見ても森らしい森は無かった。
「おい、煌卑。例のなんとか森って、どこだ?」
豪が問うと、煌卑は太陽が照る方向へ指を指した。
眩しくて、よく見えないが、少なくとも木の一本も生えておらず、森の面影は無かった。
そこからは、やはり長い道のりだった。
他愛の無い話をしながら、二人は道なき道を突き進む。
豪の腹の音が鳴る度に、煌卑は飽きもせずからかい続けた。
豪はそれに無反応でいたが、とうとうしびれを切らしたのかしかめっ面でいた。
やがて、草原は山になり、それをてっぺんまで登ると、視界がぶわっと開けた。
太陽に照らされた青空は、どこまでも澄みきっていて、白い雲がまだら模様に薄く伸びている。
眼下に広がる風景には、まばらな木々。
それが奥を見るほど群れてきて、やがて、大きな森になっていた。
煌卑はそこを指差すと、少し微笑んで、
「よし、あそこだよ。あんたの腹の音はこれで鳴りやむね」
と、馬鹿にした。
豪は内心舌打ちしつつも、煌卑の言葉に頷いた。
坂を下り、草原を駆け、地面が柔らかい土から硬い草に変わる頃には、太陽はすでに頭のてっぺんに来ていた。
そして、簿春森は、目の前にどんよりと広がっていた。
横を見てもその木々の連なりは終わりを見せず、ちょこんと一つの入り口が開いているだけだった。
その入り口まで近づくと、森の湿った臭いが、鼻を刺激する。
山の上では爽やかに見えたこの森も、いざ来てみれば、なかなか陰湿だ。
──この中に、本当に村があるとは信じ難かった。
「……煌卑、本当に、こんなところに村があるのか?」
「ああ、あるよ。心配しないで良いさ。ちゃんと、飯は食えるから」
煌卑が小さく笑うと、ずしずしと森の中へと入っていった。
それを見て、豪もその中へと入っていった。
外はあんなに明るいのに、この森の中はひどく薄暗く、日の光など一切こぼしてくれなかった。
息が詰まるような湿気さと、つんと来る森の腐った臭い。
歩く度にぐにゅっと嫌な音を出して、地面に沈む土。
どれもこれもが不気味なもので、こんな所に来る人なんて、そうそう居ないだろう。
イヤ、そもそもここら辺の草原一帯近づく人はいないのか、これまで人とは全く出会っていない。
豪はきょろきょろと辺りを見回す。
枯れかけた木の枝が交差して、屋根を作っている。そこから、時折ぽたぽたと滴が豪の顔を叩きつけた。
枯れかけた木と奇妙な色の草以外、何の植物もなかった。
豪は、本当に人が住んでいるのが疑ってしまったが、煌卑は一直線に進んでいるため、疑うのをなるべくしないように心がける。
少し、あの真っ暗な空間に似ている気がした。
しばらく歩き続けると、煌卑は立ち止まった。
豪は、どうしたんだ、と口を開きかけたが、急に体に悪寒が走り、短槍を構えた。
辺りは草むらで、何も見えなかった。
どくん、どくん、と、心臓の音が強まるのを感じる。
体が暑くなり、汗をかく。
豪は辺りを凝視しながら、煌卑に、話しかけた。
「やっぱり、お前の検討違いだな。こんなところに村があるはずねえ」
その言葉に、ふっと煌卑は鼻で笑う。
「おかしいな……。こんな殺気のある獣なんて居たっけ?」
苦笑いを浮かべ、煌卑はさっと狐玉を取り出して、豪の背に回った。
そして、背と背をくっつけると、息をひとつにして潜める。
葉っぱの揺れる音が、心を不安へと煽り立てる。
がさがさと、がさがさと、がさがさと奏で合うその音は、しばらく二人の耳に流れ込んだ後、とある音がそれをかききった。
ピィーーーーーーーーーーーーーーーー……。
甲高い指笛が、この森中に響き渡った。
それをきっかけに、草むらから一匹の黒い塊が豪の腕へと飛び出した。
豪は考えるよりも早く、その塊を短槍で叩き落とした。
ぐちゃっと鈍い音を出して、ぐったりするそれに豪は目を下ろす。
(これは、犬? イヤ、狼か)
こんな闇の中では見えにくい黒の毛並み。それをじっくり見つめると、何やら首輪のような物が光って見えた。
(飼われているのか……? と、なると、さっきの口笛といい、この襲撃は──)
──『妖狐狩り』の可能性が高い。
だとすると、その獣たちを操っている本体を叩いた方が早い。
おそらく、煌卑も同じことを察しているだろう。
しかし、実行に移すのはかなり難しかった。
下手に動こうものなら、返り討ちにされる。多分、草むらの中の狼たちも同じ考えだ。
それに、その本体をこんな中から探しだすのは、少し無理がある。
探しだす途中に、不意を突かれる可能性も低くない。
動きたいが、動けない。なんとも言えない緊張感が、ここら一帯を翻弄していた。
やがて、豪が打ち倒した狼が再び立ち上がった時、それに気を取られた豪に、五匹の狼が飛び出して、足を狙った。
一匹の狼が、今まさに足元に噛みつこうとした時、豪はそいつを思い切り蹴飛ばした。
そして、それを助走として、一歩二歩踏み込むと、短槍を二匹目の狼に向かって精一杯突き立てる。
短く悲鳴を上げた狼は、そのままうろついて、どさっと湿った地面にひれ伏した。
その時、太ももに鋭い痛みが走る。狼の爪に肉が剥ぎ取られたのだ。
迫り来る痛みに耐えきれず、揺らめいた後に、がくっと大きく膝をついたのが大きな隙となった。
草むらから更に、大勢の獣達が豪を襲う。
(……っ、どうも、人間以外の相手ではコツが掴めねえな)
なんとか、豪はすぐに体制を取り直し、短槍を横に大きく振り回し、攻撃に転じた。
辛うじて、二匹の狼の目元を斬れたが、それでも何匹かの狼は逃してしまった。
逃した狼は、豪を無視して、全て煌卑の所へ向かった。
豪は、油断をしていた。
彼女は妖狐だ。少しくらいは、自分の身を自分で守れると思っていたが、対する煌卑は、豪に背を向けたまま、棒立ちだった。
(……っ! 何やってんだっ!)
豪は、よろめきながらも煌卑の方へ向かった。
痛む傷口を無視して踏み込むと、短槍が閃光のように一匹の狼を貫いた。
そして、息を吸い込んで、煌卑に
「何やってる! 避けろ!」
と、叫んだ。
しかし、そもそもその言葉が聞こえていないかのように、煌卑はぴくりとも反応しなかった。
そして、狼達は、煌卑とはもう目と鼻の先。
(もうだめか──)
そう思った矢先──。どこか遠くから、指の鳴る音が聴こえてきた。
すると、狼達が急に立ち止まって、悶え苦しみ始めた。
思わず、豪も足を止め、その光景に少し戸惑っていた。
ズキンズキンと、足の痛みを思い出して、その場にどさっと座り込む。
それをきっかけに、次々と狼達が地面に寝転んだ。
鼻の奥で息を大きく吸い込むと、突然気力を失なったように、ぐったりとして息絶えた。
何も怪我らしきものはしていなかった。ただ、死んでいったのである。
豪は、その様子を唖然として見ていた。
やがて、葉っぱの揺れる音だけが聴こえるくらいに静かになると、煌卑がこちらに振り替えってにやっと笑った。
「ふう、足止めご苦労様。助っ人を呼び終えたから、ここからは私達の逆転さ」
煌卑の手の中には、すでに狐玉は無くなっていた。
そして、煌卑は小さく息を吸い込むと、手を何回か鳴らした。よく響く、かわいた音だった。
すると、森の奥から人影らしいものがゆらりと見えてきて、近づいてきた。
豪が以前着ていたような、ぼろぼろの服を身に纏う、一人の老婆だった。
彼女は、黒色の乾燥したしわしわの顔をにぃと歪ませると、高らかに笑いだした。
「なんだい、なんだい、この色男は! 我輩への贄かぃ?」
良く響く、甲高い声がこの場を支配した。
その時、草むらから一匹の狼が老婆に向かって飛び出した。
危ない──。そう思い、短槍をそいつに投げつけようとしたその時。
老婆は、ばっと狼の方を向き、振り向き様に指を一つ鳴らした。
すると、狼が地面に引っ張られていくように落ちて倒れ込むと、そのままぐったりと動かなくなってしまった。
老婆は、それを見届けて、また、大笑いをかました。
乾ききった、その異様な笑い声に、思わず豪も苦笑いを浮かべる。
どこか、その老婆は煌卑に似ているような気がした。